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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 細川氏の進撃と河野通朝の戦没

細川氏伊予侵入の動機

 貞治二年(南朝正平一八=一三六三)二月に、河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した次男通朝は、六郎といい、遠江守に任ぜられた。彼はその翌三年(南朝正平一九=一三六四)に、讃岐国守護細川頼之の進撃に対処しなければならなかった。
 細川氏の伊予侵入の動機については、『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、頼之の父頼春が早くから伊予国を要望する旨を幕府に伝えていたとの説を掲げている。前節に述べたように、頼春はこれよりさき康永元年(南朝興国三=一三四二)に伊予国に侵入し、土居義昌を川之江城にたおし、千町ケ原に金谷経氏・土居通景の連合軍を撃破し、大館氏明を討平して世田山城を占領し、その勢威を宇摩・新居・桑村の三郡に伸張するに至ったことがあった(本章第二節参照)。
 中央の政界にあっては、南朝が観応三年(南朝正平七=一三五二)閏二月に、尊氏・直義の抗争に乗じて、一時京都を占領したことがあった。この時、頼春は東寺で南軍と激戦を交え、重傷をうけた。『予陽河野家譜』によると、頼春は息絶えんとして、幕府に対し伊予国の領有を切望する旨を遺言したエピソードを載せている。これについては、その真実性を傍証する史料もなく、かつ室町幕府にとっては、一時的であるにもせよ、京都を奪還されるという危急存亡の時であったから、この説話をそのまま信頼できないであろう。要するに、これについては、細川氏が早くから伊予国の実権を掌握しようと企図していたと解釈すべきであろう。この頼春の伊予併合の野望が、子頼之に引き継がれたとするのが、『予章記』・『予陽河野家譜』等の主張するところであったと考えられる。
 この説話に対して、通盛が従来の態度を変じて南朝に降伏したので、頼之は伊予国の宮方討伐のために出征したと理解しようとするものがある。しかし、通盛の宮方帰順については、これを立証する正確な史料が一通も存在しないばかりでなく、河野氏には幕府との親善関係を裏切らなければならない具体的な悪条件も成立していない。幕府では、延文三年(南朝正平一三=一三五八)四月に尊氏が逝去し、一二月に子義詮が将軍職をついだ。義詮は南朝の勢力の衰微に乗じて、翌四年(南朝正平一四=一三五九)一二月に、みずから大軍を率いて大和国の討掃を断行した。この時、通盛の孫通行(壱岐彦六といい、伊予郡由並本尊城主)が、この南朝討伐に参加した(予章記・八四二)。

細川清氏討伐と河野氏の態度

 このころ、幕府では相変わらず諸将の間に内訌が続き、とくに義詮の執事であった讃岐国の細川清氏と、近江国の佐々木道誉(高氏)との対立が激しかった。康安元年(南朝正平一六=一三六一)九月に、清氏は若狭国にのがれたが、義詮は道誉の讒言を信じて、彼を殺害しようとした。そこで清氏は義詮の追討をのがれて、摂津国に走って南朝に降伏した。翌二年(南朝正平一七=一三六二)に清氏は河内国から阿波国に移り、権勢の回復をはかった。義詮は頼之に命じ、清氏討伐にあたらせるとともに、河野通盛に対しても頼之と協議のうえ、軍事行動をするように指示した(河野文書臼杵稲葉・八五〇)。また『予章記』・『築山本河野家譜』によると、この時、頼之は通盛に書簡二通を送っているが、その文面には通盛の伊予守護職を確認する旨を述べているばかりで、清氏討伐の問題には触れていない。なお七月に頼之は清氏を讃岐国白峰にたおし、阿讃両国における権勢を確立した。
 しかし、通盛が幕府の指令に応じて、頼之に協力したかは、史料がないので明確でない。おそらく通盛は、伊予国内の状勢からすれば、積極的に頼之を後援できなかったのであろう。頼之は伊予進撃にあたり、通盛が清氏討伐に積極的に協力しなかったことを、有力なロ実にしたと想像される。したがって、通盛が反幕府的であったとするのは、細川清氏討伐に関連して派生した説話であると解釈したい。細川氏のかねてからの要望であった四国統一の意図からすれば、宮方・武家方の抗争により、外部への抵抗力の弱体化した伊予国に進撃するのは当然の結果であろう。この点からすれば、無理に伊予侵入の理由を検討する必要はないかも知れない。

世田山城における通朝の戦死

 頼之の東予地方侵入に対し、通朝は桑村郡世田山城の要衝にたてこもって、みずから防衛にあたった。通朝はおよそ二か月にわたって城をささえることができたけれども、一一月六日に城内にあった斉藤一族が離反して、細川勢を引き入れたため、守備軍の士気は沮喪して、陣営は潰滅状況となり、彼自身もここで戦死をとげた。
 なお、父通盛はそれから一〇日のちの二六日に善応寺で逝去している(高野山上蔵院蔵河野氏御過去帖・予陽河野家譜)。ところが、『予章記』・『築山本河野家譜』等には、通盛の没年をこれから二年前の貞治元年(南朝正平一七=一三六二)としているのは明らかに誤っている。それは『善応寺文書』のなかに、貞治二年(南朝正平一八=一三六三)四月一六日、同年六月一日、および同三年三月三日付の通盛自署の寄進状四通、ならびに同三年七月五日付の置文一通が存在しているので、断定してよいであろう。寄進状は通盛が温泉郡内湯山地頭職・越智郡朝倉郷内久松・同窪分・同郡内門真地々頭職・風早郡内河野郷土居分・西条荘内菊壹名ならびに加茂宮神田等を、彼の開基した善応寺に提供したものであり、置文は同寺の住持職に関するもので、南山士雲の門徒寺であることを規定している。