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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 懐良親王の忽那島下向と忽那義範

南朝の瀬戸内統御策

 中央の政界に眼を転ずると、これよりさき京都回復に努力を続けていた北畠顕家は、不幸にして延元三年(北朝建武五=一三三八)五月に和泉国石津に戦死した。既述のように北国にあって宮方の勢力の復興につくした新田義貞は、同年閏七月に越前国藤島にたおれた(前節の「建武政権と伊予の動静」参照)。このような宮方諸将の辛苦と奮闘にもかかわらず、時勢はかえって逆転して、武家方の地盤はますます強力なものとなった。この時南朝では、奥羽の諸国ならびに瀬戸内海の沿岸および九州地方の経営に力をつくし、背後から武家方の活動を間接的に阻止しようと企図した。この難局にあたったのが、宮方柱石の重臣といわれる北畠親房であった。
 親房にとって瀬戸内海に対する政策上、最も関心の深かったのは、制海権を掌握していた水軍であった。彼は東方に対しては、伊勢国大湊を水軍の根拠地と定め、はるかに陸前国府を中心とした宮方と連絡し、西方すなわち内海では忽那・土居・得能氏らと連和して、肥後国の菊池氏と相通じて、内海の制海権を完全に掌握し、あわせて九州の宮方の活動を援助しようとしたと推察される。
 これらの水軍統御政策は、早くから計画されたように思われる。その現れは、これよりさき後醍醐天皇の皇子懐良親王が、延元元年(北朝建武三=一三三六)九月に征西将軍に補せられ、ついで伊予国忽那島に来られたことによって明らかであろう。この当時、宮方で忽那氏のほかに、土居通重・同通世らが久米郡を根拠地として活動を続けていた。さらに、大館氏明が伊予国守護として来任し、桑村郡世田山城にいた。大館氏は新田氏の支族であって、上野国新田郡大館に居住し、その地名をもって氏とした。大館宗氏(氏明の父)は新田義貞に従って鎌倉幕府攻略の節、極楽寺坂に戦没した。氏明の伊予来任の歳月については、『太平記』に延元二年(北朝建武四=一三三七)あるいは三年(一三三八)とし、また『新田族譜』によると同二年とあり、藤田精一は翌三年一一月以前としている。懐良親王の令旨(忽那家文書・六四七・六五〇)によっても、同三年ころに在任していたように察知せられる。
 その後、四条隆資の子有資も伊予国司として周敷郡吉田郷に在住していた。有資の着任については、魚澄惣五郎が延元三年三月以前であろうと断定しているが、私は延元二年三月一一日付の有資の観念寺に関する禁制(観念寺文書・六二一)、および、延元四年(北朝暦応二=一三三九)一二月六日付の同人の興隆寺に納めた御教書(興隆寺文書・六五四)等によって、この説を傍証することができると思う。
 そのうえ、安芸国海田市が北畠氏の所領であり、備後国尾道および安芸国倉橋島等が宮方に心を寄せていた高野山領であった。これらの事情は、朝廷の対水軍政策の経営を容易にし、征西将軍懐良親王の伊予下向を促進させる結果となった。

懐良親王の忽那島来着の時期

 つぎに研究すべき問題は、親王の忽那島に到着した時期について、延元二年(北朝建武四=一三二七)説と同四年(北朝暦応二=一三三九)説との二つが存在することである。
(1) 懐良親王の伊予へ渡来した歳月を延元二年とする説は、『阿蘇文書』のなかの阿蘇惟時あての後醍醐天皇の綸旨を、その内容から推察して、延元元年(北朝建武三=一三三六)九月一八日付のものとするのによる。その綸旨によると「朝敵追討の事、四方の官軍ら一致せず、あるひは先駆して利を失ひ、あるひは城を守りて怠慢なり、なかんづく九州の士卒ら功績なきにあらずといへども、おのおの雄を争ひて参洛の遅引に及ぶ、(中略)、故に進軍のために軍陣を整へ、無品親王征西大将軍となりて、ご下向あるところなり、」と述べている。
 さらに『阿蘇文書』のなかの征西将軍の令旨(六四五号)を、前記の綸旨に関連して同じ年の一二月三〇日付のものと解釈する。その令旨では「鎮西恩賞ならびに朝敵退治以下の事、そのご沙汰あらんがためにすでに讃州にご下着候へば、則ち与州にご渡海あるべく候、(下略)」と記している。この文書を延元元年のものとすると、懐良親王はすでに同年一二月に讃岐国に到着し、やがて伊予国に渡海したことになる。したがって、風早郡忽那島に到着したのは、その翌二年と推定される。
 この延元二年説は『征西将軍譜』の著者藤田明をはじめ、多くの史家の採用して来たものではあるけれども、私はこの説になお研究すべき余地の存在することを認めざるを得ない。
(2) これに対して延元四年説の根拠とするところは、『史徴墨宝考証』に述べているように、『元弘日記裏書』の延元三年の条に「牧宮(懐良親王のことであろう)同じく四国に着御せらる、」とあるのによって、さきに記載した阿蘇惟時あての征西将軍の令旨を、同年一二月のものと解する。したがって、同親王の伊予到着は翌四年となる。故長沼賢海は「懐良親王の征西路考」(『史淵』一三号)のなかでこの論説を強調せられ、前記の令旨をその内容から推して、三年のものと見なさなければならない旨を述べている。
 さらに私は『忽那家文書』を検討してみると、延元四年説に賛意を表せざるを得ない結果となるから、この点を付記しておこう。この当時の忽那島の状況を見ると、延元元年(北朝建武三=一三三六)五月以後は泰山城主忽那重清および同重明が足利尊氏に応じたため、忽那氏の勢力は宮方と武家方とに二分された。このような時節に親王がこの辺境の地、しかも一族の分争している孤島に危険を冒して身を寄せられるであろうか。すくなくとも、親王の渡海を重清・重明らの帰順後か、あるいはその逝去後とするのが妥当であろう。
 『忽那家文書』のうちで、重清に関する文書は、建武五年(南朝延元三=一三三八)三月一一日のものが存在しているけれども、それ以後の文書が全く見られないから、おそらくこのころに逝去したのであろう。また重明に関するものは、建武四年(南朝延元二=一三三七)七月九日付の文書があり、それ以後はわずかに重明にあてられたかと考えられる文書一通(忽那家文書・八三七)―これには南朝の年号である正平が使用されている―があるばかりであるから、あるいは重明はこのころ南朝に復帰していたのであろうと推察される。いずれにもせよ、忽那島では延元三年以後にようやく義範の優勢時代に入ったのであるから、やがて懐良親王を迎える体制が整備したと考えてよいであろう。
 また『忽那一族軍忠次第』(忽那家文書・六八一)によれば、「一御仏事□(米に斤)足事」ののちに「一征西将軍宮当嶋渡御」と記載している。もとこの文書は、事項を時代順に記述したものであって、その記事によると延元四年八月一六日に後醍醐天皇がなくなられ、忽那氏から仏事の費用を奉献した(これには異説がある)のちに、征西将軍が当島に渡海されたと解せられるから、親王は延元四年に伊予に入国されたと見るべきであろう。
 さらに『忽那家文書』を調査すると、征西将軍から義範に下された令旨は三通(延元四年四月二八日付・六四七、同年六月二九日付・六五〇、翌興国元年一〇月二一日付・六六四)あって、それが延元四年から興国元年(北朝暦応三=一三四〇)にわたること、およびその令旨の内容が征西将軍の忽那島滞在中にかかる事項を含むと推定される点なども、延元四年説を傍証する一史料であろう。このような事情を総合して、私は延元四年説の方を妥当として、以下これによって論述をすすめることにしたい。

親王滞在中の動静

 この時、親王とともに忽那島に渡来したのは、五条頼元・冷泉持房らをはじめ総勢一二人であった。『忽那一族軍忠次第』のなかに、「同御手人(征西将軍宮)十二人 衣裳兵粮沙汰事三ヶ年」とあり、また「勘解由次官父子鎮西渡海事」とか「中院内大臣法眼御房渡海事」と見える。勘解由次官父子は五条頼元・良遠であり、中院内大臣は冷泉持房であった。頼元は後醍醐天皇の信任が最も厚く、かつて九州委任の詔勅をうけたほどで、その子良遠、その孫頼治とともに親王に近侍して、経営の任に当たった。持房は北畠親房の弟であって、かねてから兄の水軍統制策を援助していたから、内海における制海権を獲得して、朝廷に貢献しようとの熱望を抱いて来島したに相違ない。
 『忽那一族軍忠次第』によると、「一大将四条中将殿宇和庄御迎事両度」とあり、また「一同大将当嶋渡御 御手人々兵粮以下事」とある。四条中将については、『史徴墨宝考証』によると、四条隆俊か隆保を指したものとしているのに対し、久米邦武は四条有資であろうとしている。いずれにもせよ、忽那氏は四条中将を宇和郡宇和荘に迎え、また中将が来島することを援助している。この史実については、ほかに傍証する史料がないので断言することはできないが、懐良親王と関連のある史実に相違ない。これらによって、宮方にとって忽那島がいかに重要であったかを立証し得たと考察される。
 この間、忽那七島における実権を掌握していたのは、義範であった。忽那氏一族が親王の供御・御服をはじめ近侍の兵粮米等を供給したことは、『忽那一族軍忠次第』のなかに「一征西将軍当嶋渡御 供御并御手人々兵粮事」あるいは「一同宮御服調進事」と明記されているので知られる。
 親王はこの島に滞在されること、延元四年から三か年にわたった。この間、親王は年少の身でありながら、臣下とともに宮方の権勢の回復に尽力された。しかもこの島は中国からも、また伊予本土からも離れていたから、親王はいろいろの辛苦と困難を忍ばれたことであろう。残念なのは、親王が島内のどこに居を構えられていたかが不明なことである。おそらく義範のいた神浦館か、あるいはその近辺の地であったと想像される。神浦に「オバ」・「オンバ」という小丘があり、島民が神聖の地としているので、この地であろうと推定するものがある。しかし、ここが要害の地でないので不適当とし、忽那氏の菩提寺である長隆寺(大浦)であろうというものもある。
 この三か年の間に、忽那島にも戦乱の波及したことはたびたびであった。そのうち最も有名なのは、安芸国の武田直信の軍が興国元年(北朝暦応三=一三四〇)一〇月に来襲したことであった。武田氏は同国沼田郡金山に拠り、足利方の与党として活躍していた。そこで、義範は島末近行(兵衛次郎)・同近重(兵衛四郎)・了義房・矢野一門・松末六郎・俊成九郎治・西久右衛門・高橋善治・溝田一類らの部下とともに奮戦して、武田氏の軍を撃退することに成功した(忽那一族軍忠次第・忽那島開発記)。この時、義範は一〇月二一日付で、懐良親王から戦功を賞揚する令旨をうけた(忽那家文書・六六四)。翌興国二年(北朝暦応四=一三四二)一二月に、義範は渡海して武家方の勢力の強い温泉郡道後に戦い、さらに河野氏の一根拠地である風早郡恵良城を占拠して、武家方を威圧した。

懐良親王の九州移動後の義範の活躍

 やがて親王は予期されたように、九州に移って菊池・阿蘇両氏らの宮方の軍を統率されることになった。義範は水軍を率いて、親王の下向の途次の警戒にあたったことは、『忽那一族軍忠次第』のなかに、「同(征西将軍)宮鎮西下向 御出立并路次以下事」とあるので明らかである。ただ残念なのは、親王の忽那島出発の日時と、九州への渡御の行程とが明瞭でないことである。
 親王の忽那島滞在が、延元四年(一三三九)から三年間であるには相違ないとしても、この三か年の解釈如何によって、その出発の時期を興国二年(北朝暦応四=一三四一)とも、同三年(一三四二)とも考えられる。長沼賢海は親王の薩摩に到着されたのが、『阿蘇文書』によると同三年五月一日であるから、忽那島出発は興国二年の暮か、または翌三年の春であったと考察し、これに関連する論説を『史淵』一三号に掲げている。私は長沼の指摘したように、『忽那一族軍忠次第』に書かれている「一同御手人十二人 衣裳兵粮沙汰事三箇年」の三か年を満三か年と考えたい。さらに『忽那一族軍忠次第』の記述がだいたい懐良親王に関連する事項と、これに続く脇屋義助の伊予入国(興国三=北朝康永元=一三四二)の記事とで終わっていることから推論して、親王の忽那島出発を興国三年としても過言ではないであろう。
 さらに同三年三月に入って、温泉郡湯築城主の河野通盛が大挙して、忽那島に来侵した。義範は一族の重勝・忠重(重康の弟)らをはじめ、牟須岐島(現睦月島)の地頭の則久らおよそ三百余人を糾合して勇戦した。その戦闘は三日間にわたり、野島・梅児・長師の三か所において、河野氏の軍をむかえ撃って大勝した(忽那一族軍忠次第・忽那島開発記)。南朝でもこの進撃を重視されたと見え、義範の奮起を期待した軍勢催促状が出されている(忽那家文書・六二六)。
 また義範は土居通世の軍と協力して、通盛の本拠である湯築城を攻撃し、さらに土居氏の拠る土肥城を後援し、すすんで道前地域の武家方の諸城を撃破して、宮方のために気勢をあげた。その間の事情は『忽那一族軍忠次第』のなかに、「一同(興国)三年三月 湯築城責」、「一同七月十四日 道前土肥城後措」、「一同九月三日 中道前懸合合戦」とあり、ほぼ同じ記事が『土居氏系図』にも発見される。
 その結果、伝統的に偉大な権勢を維持してきた河野氏は、一大打撃をうけたのに対して、一時忽那・土居氏を中心とする宮方の隆盛期を迎えた。興国四年(一三四三)二月四日付の後村上天皇の綸旨によると、義範は親王の執奏によって、これらの戦功に対し備後国安田郷地頭職に補せられた(忽那家文書・六八二)。