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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 源氏の攻勢と河野通信の活動

 源氏の攻勢

 反平家の挙兵当初からの河野氏の苦難も、そう長くは続かなかった。まもなく再起の時期がやってきた。それはほぼ、頼朝や義仲をはじめとする源氏の諸勢力がようやく西国にも及んできた趨勢に対応している。
 この互いに従兄弟同士にあたる二人の源氏の武将の挙兵後の行動は、きわめて対照的である。まず頼朝は、治承四年(一一八〇)いったん鎌倉へはいると、そこへ腰を落ちつけて容易に動こうとはしなかった。これは、京都へはいって貴族化した平氏政権の二の舞を踏むことを恐れてのことであるといわれる。それよりもむしろ、そこには頼朝を支えている東国武士たちの考え方が反映されていると見るべきであろう。彼ら東国武士たちが望んだのは、都へ上って政権を掌握することでもなければ、貴族たちに交って殿上に伺候することでもなかった。彼らにとって最も関心があったのは、現に東国で所有している土地のことであり、今まで国司や平氏にしばしば押領されかかったその土地を、頼朝が確実に安堵してくれることであったのである。
 いっぽう義仲は、いったん態勢が整うと北陸から一挙に都へ攻め上った。義仲が平維盛の率いる平家の追討軍を倶利伽羅峠に破ったのは寿永二年(一一八三)の五月であったが、同じ年の七月には早くも近江国にはいり、都の平家に圧迫を加えるに至った。そのころ、摂津・河内でも源氏の一族が平家に叛旗を翻しており、そのような源氏の包囲にたえきれなかった平家一族は、七月二五日あわただしく西海へ落ちていった。ここに平氏政権の時代は終焉した。義仲はさっそく京都に入ったが、彼の振舞いは後白河上皇をはじめとする貴族たちの反発をかった。
 京都における義仲の失政を見きわめた頼朝は、後白河上皇の要求によって、同年の一二月、弟の義経と範頼に大軍をつけて上洛させ、翌年正月、近江国粟津で義仲を敗死させた。頼朝はそれに続いて、瀬戸内海にあった平家軍の追討に移った。寿永三年(一一八四)の二月には、義経・範頼軍は摂津一ノ谷の平家の陣営を急襲して大打撃を与えた。平家はこの時、平通盛・忠度など多くの一門の武将を失い、重衡は捕われの身となり、残った者たちは宗盛に率いられて、四国の屋島をさして落ちていった。こうして、ようやく西海にも源氏の勢いが及んでくることになった。

 菊万荘と佐方保

 さて、平家を西海に追って軍事的優位に立った頼朝が、つぎに否応なしに直面しなければならなかったのは、後白河上皇を頂点とする京都の貴族政治の世界であった。そして、他の源氏の武将をさしおいて、頼朝が最初の武家政権の樹立者になりえたのも、この問題の処理を誤らなかったからである。頼朝の王朝国家に対する基本的な態度は、王朝国家のことは王朝国家の手にまかせることであった。自分の支配下にある東国地方については、だれにも指をふれさせない強い姿勢を示すいっぽう、貴族や寺社領荘園に対する武士の狼藉に対しては強い禁圧の方針で望んだ。
 寿永三年四月に、野間郡菊万荘・佐方保をはじめとする賀茂別雷神社の荘園における武士の狼藉を停止すべき下文を諸国に出したのも、そのような流れのなかで理解することができる。賀茂別雷神社というのは、京都の北郊(現在同市北区)に鎮座する社で(一般には上賀茂神社と呼ばれている)古くは伊勢の斎宮に準じて、賀茂の斎院がおかれ、『延喜式』では名神大社に列せられていた由緒ある古社である。そのような有力神社であるから、多くの社領を有していたのであるが、それらが源平争乱の混乱のなかで武士の乱暴狼藉にあい、そのことを社家が後白河上皇に訴えた。上皇はそれを鎌倉幕府にとりつぎ、頼朝は「院庁御下文に任せて、方々狼藉、武士等濫吹を停止し、元の如く神事用途を備進すべき」命令を下文の形で諸国に下した(賀茂別雷神社文書・一〇四)。
 菊万荘と佐方保はその荘保名から考えて、現在の越智郡菊間町の一部と、同町佐方がそれぞれの地にあたることは、ほぼまちがいないであろう。菊間町宮本には加茂神社が、また同町佐方には賀茂別雷神社が今もなお鎮座しており、これらが荘園領主賀茂別雷神社の縁によって勧請されたものであることは疑いのないところである。この両荘保がいつごろどのような事情で立荘されたかは明らかではないが、さきの頼朝の下文から考えて、平安時代の後期にすでに賀茂別雷社領になっていたことはまちがいない。『百練抄』によると、堀河天皇の寛治四年(一〇九〇)に賀茂上下社に不輸田六百余町を寄せて御供田としたというから、あるいは伊予の両荘保もこの時上賀茂社領となったのかもしれない。いずれにせよ、この両荘保は、この後も長く上賀茂社領として存続し続け、その荘名は、はるか後の天正年間まで確認することができる。伊予国内では、存在期間の最も長い荘園のひとつである。この後の両荘保の具体的な様相は節を改めて詳述することにするが、ここで重要なことは、伊予国にも以上のようにして上賀茂社領を保護するために頼朝の下文が届けられたという事実そのものである。私たちはさきに、一ノ谷の勝利によって平家を西海に追い、源氏の勢力が瀬戸内海に進出してきたことを見たが、それが別の面ではこのような形をとってあらわれてきているのである。
 そのことは当然、長らく平家に支配され、その影響力の大きかった伊予国の状況をもかえずにはおかない。河野通信は、挙兵後一人源氏にくみすることによって、孤立無援の戦いを続けてきたが、彼を取りまく周囲の状況はようやくかわろうとしていた。

 高市氏討伐

 源氏勢力の瀬戸内海進出によって伊予国にどのような変化がおこったかを具体的に伝えてくれる史料はないが、『予章記』は、つぎのような話を伝えている。すなわち、元暦二年(一一八五)正月、通信は、平家軍追討のために高市源太秀則を待受けて合戦し、ついで、その父図書允俊則と鴛小山に戦い、いずれも勝利を得た、というのである(『予陽河野家譜』は、同じ話をもう少し詳細に伝えているが、これは『予章記』の記事をもとにして紛飾を加えた可能性が強い)。この通信の勝ち戦を明確に傍証する史料はないが、さりとてあながち荒唐無稽な話とばかりは言い切れないようである。なぜなら、そこに登場する人物たちは、いずれもその実在を確かめることができるからである。
 新居氏の一族のうち高市流が伊予郡の吾河や三谷を本拠とするようになった事実についてはすでに述べたとおりであるが、『予章記』に見える高市俊則や秀則の名も『新居系図』のなかに見出すことができる(図1―2参照)。すなわち高市流新居氏の祖高義の孫に俊義の名が、その甥に秀義の名が見える。なお俊義は「太上入道清盛烏帽子子」の注記を有して平家の有力家人の一人であったと考えられる盛義の兄弟であり、秀義は「武智武者所」として平家の軍中にあったことが『平家物語』に見える清教の兄弟である。『予章記』と『新居系図』の記載がくい違っているのは、俊則(義)と秀則(義)の関係を、前者が父子とするのに対して、後者では伯父・甥となっているという点である。このような若干の齟齬はあるものの、『新居系図』や『平家物語』を傍証にすれば『予章記』のこの部分が、まったくの創作から成っているのではないことがわかる。細部はともかくとして、元暦二年のころ、河野通信が、平家方の有力家人であった高市氏を、その本拠伊予郡に攻めたことは、事実として認めてさしつかえないであろう。
 これを史実と認めるならば、この戦いは通信にとってきわめて画期的なものであったということができる。それは、これまで通信の戦いは、圧倒的に優勢な平家軍から身を守るのが精一杯であったが、ここではじめて守勢から攻勢に転じているためである。ここに見られるのは、高市氏に対する軍事行動のみであるが、おそらくこれと同じようにして通信は、国内の平家勢力を次第に掃討していったものと思われる。そのような状勢のうえにたって、屋島・壇ノ浦における参戦が実現するといい得る。

 屋島と壇ノ浦

 一時頓挫していた西国の平家討伐を促進するために、頼朝は再び義経を起用した。戦線に復帰した義経の行動は俊敏であった。彼は元暦二年二月一六日に京都を進発し、翌一七日には暴風雨をついて摂津渡部を船出して阿波国に渡り、一挙に屋島にあった平家の陣営をめざした。そして、一九日には早くも屋島内裏を攻撃し、牟礼・高松等の民屋を焼払った。この義経の急襲に耐えきれなかった平家方は、安徳天皇を奉じてたちまち海上に逃れ去り、翌々二一日には、志度道場に立籠った。この時、四国における平家方の武士の中心として権勢を奮い、しばしば伊予にも攻め込んで河野氏に苦汁を飲ませた阿波の有力豪族田内左衛門尉教能(則良)が義経に降伏している。
 また、河野通信が兵船を率いて義経軍に加わったのもこの時のことである。『吾妻鏡』はその事実のみを簡単に記しているが、この通信の参戦が義経軍にとっていかに重要な意味を有していたかは、想像に難くない。なぜなら、これまで陸戦を中心にし、それには大きな自信を持っていた源氏軍も、瀬戸内海における海戦には準備も自信もまだ十分ではなかったためである。元来、関東の広大な原野に生まれた源氏軍は、いわば陸の軍隊であった。したがって、関東の原野を駆けめぐる時、彼らの力は最大限に発揮されたが、瀬戸内海周辺での戦いは大いに勝手が違った。一ノ谷で大敗を喫したはずの平家が、その後意外にねばり強い抵抗を続けることができた背景にも、そのような東国出身の源氏軍が本質的に抱えている弱点があったからである。したがって、平家を瀬戸内海の西端に追いつめた時点において、源氏軍が最も切実に望んでいたのは、信頼に足る水軍力であったに相違ない。通信が兵船を率いてやってきたのは、まさにこのような時期であった。
 その後義経は熊野別当湛増の率いる熊野水軍や周防国衙船所の水軍力を味方にひき入れることにも成功している。こうして、海戦に対する万全の態勢を整えたうえで、同二四日、義経軍は、長門国壇ノ浦の海上で平家の水軍と遭遇し、激戦の末これを大破した。この時の通信軍の戦いぶりについては、『平家物語』が、別当湛増の源氏方参戦を伝えたあとに「又伊予国の住人、河野四郎通信も百五十艘の大船に乗り連れて漕ぎ来り、これも同じように源氏の方へ附きければ、平家いとど興ざめてぞ思はれける」と記すのみで、残念ながらその活躍の実状を知ることはできない。しかし、一五〇艘という兵船の数は別問題としても、通信がこの海戦に自らの水軍力のすべてを投入して臨んだであろうことは想像がつく。そしてそのような河野氏の水軍力の存在が、熊野水軍のそれとともに平家方を「いとど興ざめ」させたというのは、源氏方におけるその存在の大きさを推測させるのに十分である。またそのことは、挙兵以来の通信のいろいろの勲功ともあいまって、争乱平定後の伊予国における通信の地位を予想させるものでもあった。