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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 律令税制の解体

 調庸制の行き詰まり

 律令国家の、籍帳による確実な公民掌握が困難になるとともに、調庸物を中心とする税の収奪もまた行き詰まるのは必至である。調庸の違期・未進・麁悪が大きく問題化するのは八世紀後半の宝亀年間ころからであるが、九世紀に入ると事態はより深刻さを増すようになる。
 伊予国も仁和三年(八八七)六月には讃岐・阿波・土佐など一八の国々とともに「貢絹の麁悪、特に甚しく昔日に如かず。(中略)正倉に旧様の絹を探取して国毎に一疋を賜い、旧様に依りて織り作さしめよ」と譴責されている(三代実録)。また四年後の寛平三年(八九一)、太政官にあてられた伊予国など三国の解状によると、調庸物や公文を携え上京する「調綱郡司雑掌」らが都に入る前に、院宮王臣家は「徴物使」を派遣し、自らの取分あるいは賄賂として調庸物や私粮を事前に差押さえ、掠奪してしまおうとする。その要求に応じない場合は乱暴を加えられる始末であり、やむなく郡司は本務を忘れて中央官司や封家に納入すべき調庸物(封戸物)を割き取ってしまうことになる。いっぽう雑掌は調庸関係の文書類の勘申にあたるが、いつまで待っても物資が到着しないためそれもできず、勘責を受ける間に公粮も尽き、用務を済まさぬまま国へ逃げ帰ってしまい、結局調庸物は届かず、公文は滞ったままになってしまうという実情が述べられている(類聚三代格・三〇)。
 むろんこのような調庸制の危機は、在地における絹布等の手工業生産活動そのものの停滞を意味しているのではない。富豪層が中央の寺社、院宮王臣家と結んで、調庸などの課役忌避を行って国衙支配に対捍していたことは前述した。むしろ彼らが手工業生産力の上昇や商業交易活動の展開等によって、一定の経済的実力をつけたことが、麁悪な調庸物の貢進、違期・未進という形で国司支配へ対抗することを可能としたのである。

 調庸対策と国司

 ことは律令国家の根幹にかかわる問題であり、政府はまず国郡司のうちから調庸担当責任者を定めて調庸物に違失や欠損がある場合の処罰を強め、さらに未進分については国司らの公廨稲(俸禄にあてる稲)を割きあてることとし、やがて補塡責任の範囲を国郡司全体にまで拡大するなど、国郡司への監督を強化した。そのいっぽうで政府は調庸物の収取を確保するためさらにいくつかの施策を打ち出した。
 まず調庸物の輸貢期限については、伊予国の場合八世紀には中国と位置付けられていたから、令の規定に従えば一一月末日となり、天平一八年の伊予国からの調絁がこれを厳守して貢進されていたらしいことは前記したとおりである(第二章第二節。ただし、『延喜式』によれば伊予国は遠国と変更されており、これに令条を適用すると、貢限は一二月末日となる)。しかし『延喜式』には「凡そ諸国貢ずる調庸は、越後、佐渡、隠岐三国は竝びに明年七月を限れ。長門国は四月を限れ。伊予国は二月を限れ。但し宇和喜多郡は三月を限れ。土佐国は二月を限り納め訖えよ」ともみえ、ここに列挙された国名からみて、おそらくは地理的条件を加味してか、貢調期限が延長されている。この規定はすでに貞観一三年(八七一)成立の『貞観式』に載録されていたことが確認されるが、宇和喜多両郡の項を除けばおそらく九世紀前半には成立していたと思われる。
 さらに右の条項と並んで『貞観式』、『延喜式』双方に「凡そ調庸未進物は、長門国、伊予宇和喜多両郡は明年六月三〇日、越後、佐渡、隠岐等国は一二月三〇日以前に進り訖えよ」とあるが、この規定は調庸の違期・未進に対処するため出された天長三年(八二六)五月、仁寿二年(八五二)の官符に基づいている。すなわち本来貢調を担当した国司らは、中央官司において運搬した調庸物の点検、およびその文書との対校(勘会)をうけ返抄(受領証)を得ぬ限り任務は終わらず、任国への帰還も許されなかった。
 しかし未進・麁悪が常態化すると、いたずらに担当国司のみを苦境に追い込む結果となったため、この両度の官符において、仮に未進分があっても中央官司において、その数的処理が終了すれば暫定的な返抄を発行し、今年の未進分については来年必ず納入を完了することとした。そして一般諸国の場合は明年三月、例外措置を講ずべき国郡については右のような規定を作り、貢限を定めたわけである。これらの条規は社寺貴族の封戸物についても適用された。時代は下るが、天喜三年(一〇五五)一二月二三日の日付を持つ東大寺返抄案(東南院文書・五三)などがその実例にあたり、東大寺に貢進すべき封戸米のうち仮納された九〇斛(石)分についての仮返抄であることが文書の端裏に明記されている。つまるところこれらは、調庸収取の実情に対応すべく政府の打ち出した現実的な妥協策とみるべきである。

 調庸制と正税

 ことに九世紀になって拡充、展開した交易雑物制も、調庸制の不振によりこれを補完する役割を担ったものと考えられている。交易雑物制とは本来定期、臨時に国衙財源である正税で物品を購入し、中央に貢献する制度であり、すでに八世紀前半には一定の展開を示していたが、九世紀に入ってからより大規模となった。『延喜式』交易雑物条には伊予国の品目として、

 鹿革五十枚、鹿皮十張、砥一百八十顆、大豆十八石、海藻根十斤、那乃利曽五十斤、苫五十枚、樽二合、胡麻子五合、醬大豆卅二石、三年を隔てて醬大豆五石を進ず。

と規定するが、傍線部分の品目はすでに賦役令や『延喜式』の調、中男作物の条にみえているものであり、本来はこれらの税目として調達されるべきものであった。しかし、調制の行き詰まりや中央での需要の増大によって、その一部、あるいは全体が交易雑物制のなかに繰り込まれていったのである。錦綾羅絹といった繊維製品類は、伊予国の場合なお調として徴収されていたらしいが(延喜式)、そのうち白絹などは、隣国讃岐においては調として一〇疋規定されていると同時に、同額分が交易雑物の品目としてみえている(同上)。
 ここには調庸制の不振による貢納物資の確保を、本来地方政治の財源である正税に注目することによってはかっていこうとする、中央政府の方針が如実に示されている。庸についても同様である。伊予国の場合庸米として納入されるのが一般的だったであろうことは前章にふれたが(第二節)、庸米以下の京進米についてもほかの調庸物同様八世紀後半の宝亀―延暦年間ころより未進のことが問題化しており、九世紀には輸納状態がさらに悪化していたと推測される。それをまかなうために設定されたのが年料租春米制度であったと考えられているが、これは諸国の正税租穀のなかから規定量を春成(もみがらをおとすこと)して京進するものであり、その功賃や運送料はともに正税より支出された。伊予国は二千斛(石)の納入を義務付けられており、これがそのままかつての庸米の輸納量に相当するものとみられる。
 中央に貢進された調庸物は大蔵省や民部省に収納され、諸官司の運営経費や官人への俸禄などにあてられた。そのうち位禄は五位の官人への給与であるが、本来京庫より調庸物で支給されるべきであるにもかかわらず、すでに八世紀半ばには五位国司については、任国の正税中の稲穀から支給する体制になっており、それが九世紀前半には適用範囲が京官にまで及ぼされたとみられている。『延喜式』には各国ごとにいろいろの物品を米に換算した場合の公定標準価格がみえているが(禄物価法という)、これはそのような位禄の現地における代米支給を前提にしたものとみられている。ちなみに伊予国では絹一疋につき五五束、鉄一廷につき五束と定められていた。なお大同四年(八〇九)六月の勅で京官である観察使が大宰帥を兼任した場合、本来の食封を停めて国司俸料である公廨二万束を支給するが、運賃を省くため、大宰府管内ではなく伊予など五国で給うこととした(類聚国史)。さらに元慶五年(八八一)、伊予国正税より三千束が造鐘楼僧房料などとして興福寺に施入され(三代実録)、ついで仁和二年(八八六)には斎内親王の伊勢大神宮入居後の新居造営費として、伊予・讃岐両国の正税穀各一千斛が斎宮寮に充てられている(同上)。また寛平八年(八九六)二月の官符によると、それ以前長門国鋳銭司で鋳銭に用いる雑物は長門・伊予など周辺七国の正税をもって交易、貢進されていたことが知られる(類聚三代格・三二)。これらもやや事情は異なるが、中央や他国の負担が転嫁されている例として、同様の意味合いでとらえることが許されよう。
 以上のとおり、律令国家は調庸制の危機に伴う京進物資の不足を、地方財源たる正税に負担を転嫁させることによって解消しようとしたのである。

 九世紀の正税

 それでは各国衙の正倉に貯えられていたその正税は、九世紀ころどのように運営されていたのだろうか。正税は田租収入部分と出挙稲部分に大別されるが、前者が穀(籾)の形態をとって主に備蓄に充てられるのに対し(その大半は官符によらぬ限りたやすく開用できぬものであり、これを不動穀といった)、後者によって通常の国衙運営費がまかなわれ、これは頴稲(穂つきの稲)の形をとった。天平一七年(七四五)に官物の欠損を補ったり、国司俸料に充てるため、正税頴稲と同額の公廨稲が設定され、ここに国衙財政の基本的構造が確立した。
 『弘仁式』によって、九世紀初頭の伊予国では正税、公廨各三五万束、そのほか国分寺の維持費にあてる国分寺料稲(このように個別の用途にあてるため設けられた出挙稲を雑稲という)四万束の計七四万束の出挙本稲が、準備されていたことが判明する。
 ところが、『延喜式』段階になると正税、公廨が各三〇万束と若干の減少をみせているのに対し、雑稲は国分寺料のほかに大学寮料・文珠会料・鋳銭司俸料・修理池溝料・救急料・俘囚料などが順次追加され総計二一万束、全体の本稲額は八一万束となって『弘仁式』の時の総額を七万束上まわっている。これらの費目は、本来正税出挙の利稲中より支弁されるべきものであるが、これが独立の出挙稲として別置され、しかもその額が国分寺料を除いても一七万束に及ぶことは、たとえ五万束の減額をみているとしても、結果的には正税出挙運営が強化されたということになる。そこには前記したように、位禄・交易雑物・年料租春米など中央の必要とする物資を、正税を割いて安定的に供給していこうとする中央政府の意向が強く働いているとみるべきであろう。
 しかしこうした中央諸経費の正税転嫁が地方財政に重圧として作用し、早晩出挙による正税運営の危機をもたらしたであろうことは当然想像されるところである。事実九世紀の史料には、「出挙未納」「官物欠負・欠損」「正税不実」といった語句が頻出し、事態の深刻さをうかがわせるが、延喜二年(九〇二)三月伊予国など一六か国に発せられた官符によれば、「式には諸国内の正税出挙稲が不足し、国内経費の充用に事欠くようであれば、事前に太政官に申請すれば(本来穀で徴収すべき)田租を頴稲でとり、これを出挙雑用にまわすことが認められている。封戸の租についても同様である。ところが近年は国司たちがこの規定を逆手にとって、いたずらに田租を頴稲で徴するため、租穀を割いて京進し、中央官人の食糧に供さるべき年料租春米や封家に送進されるべき田租に不足をきたす始末で、太政官への言上も遵守されていない。やむを得ず不動穀など正税中の穀を以ってこれに充てねばならず、公損は甚しい」と指摘されている(類聚三代格・三五)。中央政府の一方的な見方による文飾を除いて考えるなら、伊予国でも中央財源を正税に転嫁することによって、もともと出挙利稲でまかなわれるべき国衙経費が圧迫され、やむなく本来は備荒用に貯積されてきた不動穀などが利用され始めているという実情をみてとることができるであろう。
 こうして九世紀末には国衙財政も危機的状況を迎えており、その最大の要因はこれまでに述べてきたような国家財政の正税への依存という点に求められるべきである。しかしこのほかに国司の不正や、出挙自体が抱えている構造的なもろさ(出挙があくまで個別人身への稲の貸与である以上、天災、飢饉等による生活の破壊、死亡、浮浪・逃亡の発生は、出挙本利稲の返還不能という事態を生み出し、莫大な財政的欠損をもたらす)などの要素も見落とすことはできない。伊予国のみに限っても、八世紀のみならず九世紀に入っても天災、飢饉の例は多く、延暦一八年(七九九)には前年度の不作により田租が全免されているのを始め(日本後紀)、延暦二四年(八〇五)には災疫にあって農業生産が復興せず、庸が免ぜられているし(同上)、承和一〇年(八四三)にも飢饉があり、勅により救済されている(続日本後紀)。
 ともあれ中央、地方を問わず律令的収取体系は、九世紀末には崩壊の危機に瀕していた。ではこうした事態を招いた根本の理由である地方行政支配の動揺・矛盾に対し、律令国家はいかなる手段で対処していこうとしたのであろうか。項を改めて述べることにする。