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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 律令支配の変貌

 阿波国戸籍の場合

 延喜二年(九〇二)に作成された隣国阿波国板野郡田上郷の戸籍は、断簡ながら五戸分が現存しており、平安時代初期の戸籍制度の実態をうかがう上で貴重な史料となっている(蜂須賀侯爵所蔵文書)。そこに確認できる具体的人名は四〇五名に及ぶが(図3―1)、一見して明らかなとおり、きわめて特徴的な事実をいくつかそこに指摘することができる。すなわち男女比をみると女性が三五一名で全体の八七%を占めていること、つぎに年齢別では六〇歳以上の高齢者がきわめて多く、逆に二〇歳以下の年少者がほとんどみられないことといった点である。むろんこれらの数字が当時の実情を伝えるものではなく、作為されたものであることは明らかである。加えて本戸籍において、すでに寛平九年(八九七)に死亡した女性が年齢を五歳だけ形式的に加算され、そのまま記載されたり、さらにおそらくは同一人物と考えられる者が同一戸内に重複して登載れたりしている事実などもあわせ考えるならば、当時の戸籍制度の形骸化が相当に進行していたことが察知される。
 繰り返すまでもなく、律令国家の基本である公地公民制の原則は、全国人民を戸に編成してそれぞれの本貫(本籍地)に拘束し、これを戸籍・計帳によって掌握することにより支えられていた。律令的税収奪もこれに基づいて行われたのである。しかし特に九世紀に入ると、過重な税負担に耐えかね、あるいは律令の規制を脱して自由な生産活動を求めて本貫を離脱、浮浪・逃亡する公民が増大し、それにともなって阿波国戸籍にみられるように虚偽の戸籍を作成することによって、課税負担を忌避しようとする動きが活発になり、公地公民制の根幹を揺るがし始めていた。九世紀末の文人政治家として著名な菅原道真は、仁和二年(八八六)讃岐国司として現地に下ったが、その間讃岐国内の社会の実情をつぶさに見聞し、これを「寒早十首」(菅家文草)にまとめた。その第一首には、他国に浮浪・逃亡した人々が本貫地に送還されてくるが、戸籍を検してもすでに古い名前のみで新しい記載がほとんどなく、ために再度戸籍に編付しようにも、その氏姓をただして旧の出自を類推するしかないこと、第二首には重税を逃れようと他国より浮浪・逃亡してくる者も別箇の帳簿(浮浪人帳という)に登録されて税賦課の対象とされたため、家族ぐるみ悲惨な生活を余儀なくされていることが述べられている。ここにも当時の浮浪人と戸籍制度の問題の一端が明確に示されている。要するに、律令国家による民衆の個別人身支配がきわめて困難な事態に立ち至っているのである。戸籍制度を前提とする班田収授法の実施が、同じく延喜二年を最後に史料上から姿を消すのも、その意味で示唆的である。

 富豪層とよぱれる人々

 八世紀を中心とする時期の、伊予国の豪族と農民の関係は既述のとおりであるが(第二章第二節)、九世紀に入ると伝統的在地支配者層に加えて、新興の豪族、有力農民層の抬頭が顕著となる。彼らは一括して富豪層と称されるが、九世紀初頭に成立した仏教説話集『日本霊異記』に讃岐国の話として載録された一節は、その具体像を示す例として有名である。
 すなわち宝亀七年(七七六)ころ、讃岐国美貴郡大領の妻で田中広虫女という富豪がいた。彼女は馬牛・奴婢・稲・銭・田畠等の財産を所有していたが、性来貪欲で酒に水を加えて売ったり、また小枡で貸与したものを大枡で償還させるなどして利潤をはかった。さらに出挙では利息を容赦なく取り立てるため十倍、百倍もの返済を迫られることになり、そのため多くの農民が家を棄てて逃亡、他国を放浪するような状態に追いつめられていたという。
 ここから富豪層と呼ばれる人々の経済活動の中心が、財物の内容などからすると農業経営と私出挙、さらに交易活動にあったこと、そのため債務関係に取り込まれて逃亡する大量の貧窮農民を周辺に発生させ、両者の階層間格差がますます顕著になったことなどを知ることができる。他方で彼ら富豪層は、貧窮農民に対し調庸代納や国家に代わる財物賑給等の救済措置を講ずることも多かったが、それも一定の負債を負わせるという意味において、結果的に私出挙の場合と同様であり、窮乏する農民たちはこれによっていっそう富豪層との私的隷属関係に取り込まれていった。嘉祥三年(八五二)七月、伊予国力田物部連道吉と鴨部首福主の二人が私産を傾け窮民を救済した功により位一階を昇叙されている(文徳天皇実録)。力田とは一般に農業経営に卓越した力量を有するものをさすとされるが、彼ら両名が九世紀伊予国の富豪層であったことは確実で、本来国家の行うべき救済行為の代行の意味も、基本的には右のようにとらえるべきであって、これを単なる慈善行為とみなすわけにはいかない。
 律令国家支配の動揺・解体をもたらした要因の一つは、在地におけるこれら富豪層の動向であったといわれる。彼らは自らの生産・経済活動を進めるいっぽうで、八世紀末ころから国郡司による地方支配に激しく対捍(命令に手向かい抵抗すること)するようになるが、典型的にはまず調庸などの課役忌避の動きとしてあらわれる。それは具体的には浮浪・逃亡(このなかにも富豪層はかなり含まれ、「富豪浪人」と称される)や得度、下級官人への出仕、さらに阿波国戸籍の場合にみられるような偽籍という形をとる。これによって課役を負担すべき課丁数は全国的に激減し、当然国家財政は深刻な危機を迎えるに至った。また富豪層は国衙支配に対抗するため「院宮・王臣家」と称された中央の権門・貴族と結んで私的関係を形成し、その権威をかりるようになっていった。こうして国郡司らによる地方行政も、これまでのような強力な支配力を行使し得なくなり、律令国家による公民支配はあらゆる面で動揺、矛盾を露呈し始めた。
 以上九世紀の地方社会の情況について、阿波・讃岐両国の史料に拠りながら素描を試みたが、社会的経済的諸条件をほぼ等しくする隣国伊予の場合も、そのような事態から決して例外ではなかったはずである。ちなみに元慶八年(八八四)の段階で伊予国桑村郡、久米郡の課丁数はそれぞれ七二五、七〇二であったことが知られるが(類聚三代格・二七)、両郡ともに管轄下の郷数は三であり、一郷あたり二三〇~二四〇の平均課丁数を得ることができる。この数字は承和年間の畿内周辺の丹波や近江の国々にみられる一郷あたりの平均課丁数二〇四ないし一四六に比較すればかなり安定したものではあるが、この差異は畿内周辺の先進地域と南海道との地域差による政治的社会的諸条件の相異によるものであろう。しかしいっぽうこれを一戸あたりの平均課丁数に換算すれば、約四・六~四・八となり、前に記した阿波国板野郡田上郷戸籍における数字にほぼ一致する。したがってそこで見られたような傾向は、伊予国においても同様に進行していたとみなすべきであろう。