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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 副葬された遺物

 副葬品としての装身具類

 古墳の主体部に被葬者が生前に身につけていたものをはじめ、身のまわりの品々を、被葬者の固有の持ち物として、棺と共に埋葬したものすべてが副葬された品々である。しかし永い年月の内にそのほとんどは朽ちはてて、原形をとどめないが、副葬される器物によっては、変色することもなく遺存するものもある。これら副葬された器物もそのものの性質と、これらを保存する役目をなした外槨施設によって左右されることはいうまでもない。また幸いにして副葬品の遺存度が高く、しかもよく保存されていたとしても、心なき盗掘により、記録すらとどめず散逸して、やがては消滅した遺物も多い。ここにはこれらをほぼ前・中期を主として便宜一括的に考え、これら副葬された遺物の内おもだったものについての紹介をしよう。ここで紹介する遺物以外は、普通にみられる一般的な副葬品や、その他の器物の遺留品として価値がないという意味では決してない。逆に紹介した遺物以外のものにこそ、大いに被葬者の周辺を知る重大な資料があり、何一つ不要なもの、無価値なものはない。遺物及び遺構を含めていずれも貴重な資料であり、全国民の文化的財産であることには変りがない。
 前時代から装身具についての発展はめざましいものがあった。特に玉生産にみられる攻玉技術は、今日ですら容易に作り出せない発展をみており、生産品には、管玉・勾玉・切子玉・臼玉・棗玉などがあり、玉類の材質から見れば、碧玉・硬玉・瑪瑙・水晶・滑石・石英・蠟石・琥珀・蛇紋岩などの石材を使用したものや、ガラス・金・銀・銅を利用するものもある。いまこれらの玉類を各種に組み合せて頸飾としたが、その組合せは、(一)管玉を主体とする、(二)管玉を主体に勾玉・丸玉・小玉を加える、(三)丸玉と小玉を主として管玉を加える、(四)ガラス玉を主体とする、などがあげられる。またこの他に石釧・車輪石・鍬形石などがあるが、本県では石釧のみ出土している竹ノ下遺跡(松山市)。この装身具は腕に飾るもので、この他に銅釧(中島・星ノ岡)などで鈴付のものや環付の釧もある。
 冠では広帯式の立飾のある金銅冠が東宮山古墳から出土している。この他に松山市で二ヶ所(播磨塚と素鵞神社)で広帯式の冠を出土したと伝えるが定かでない。この他にも中期的な豪華さを誇る耳飾も中期の古墳以後の副葬品として一般的に出土する金銅環や銀環のほかに耳玉や金銅製垂飾付耳飾がある。耳玉は、ガラス玉をつらねて耳に着装したと思われ、小規模古墳等で〇・五ミリ程度のガラス玉を一〇個程度出土するが、長鎖付耳飾は新居浜市金子山古墳がある。その他に松山市星ノ岡西山古墳で出土例が伝えられている。指輪についての発見例は、松山市松ヶ谷古墳より六角形の断面〇・一センチの銀環が出土しており指輪と推定している以外には出土例がない。さらに金銅などを用いたものとしての帯金具が松山市三島神社古墳で金銅製の金具として出土し、四~五鋲留がほどこされてあり、裏地は革が着装してあるが、鉸具や帯先金具は検出されていない。砥部町大下田八号墳では鉄製の鉸金具が出土している。なお装身具の一部面として馬具なども考えられるが、これらは後期古墳の各個所でふれたい。

 青銅鏡と出土一覧

 鏡を出土した古墳の項を参照されたい。(主だった図版以外の鏡面を紹介するにとどめた。)但し古墳発生以前の土壙墓などから出土の古鏡も表には掲出した。
 鏡は諸記録にもとり上げられているように、古くからきわめて重要な意味をもたされ、当初は単なる装身具としてというよりも巫呪的意味を多分にもち、おそらくいわゆる司祭者などによって保有、または管理されていたかと思われる。やがてその司祭者が司祭者的首長ともなったとすれば、それは同時に権威の象徴といった意味をも併せもつこととなり、さらに豪族的ないし官人的首長ともなれば、中央権力者との権力関係の象徴として、従来の宗教的意味とは別に政治軍事的意味をもって授受が行われたことと考えられる。従って当初の個人的宝器的意味から新たに政治的権力関係を意味するものとして、漸次保有の意味変化があったと解せられる。これらのことがどの程度本県出土の鏡鑑類について説明しうるかは、目下の所では難かしいが、古墳の詳細な基礎的調査に依て次第に解明されることを期待するにとどめ、いまここではとりあえず、県内出土の古墳墓から出土の鏡鑑一覧をかかげ、県下での分布の大要をながめることにする。(図表『愛媛県出土青銅鏡一覧1~3』参照)

 鏡の出土分布の意義

 以上県内において把握できた鏡鑑出土数は約六五面であり、そのうち、南予(宇和町)三面、中予で三二面(松山市二三、伊予郡・市九)、東予では三〇面(今治・越智地区二一、周桑地区五、新居浜二、川之江二)と、出土地が不明確であげなかった大島出土という海獣葡萄鏡も合せると六六面となる。もちろんこれらのうちには古墳時代以前のも若干含まれているが、これら鏡鑑を出土するものには、外槨施設から見れば円墳が最も多く次いで前方後円墳があげられ方墳の順となっている。また内部主体の構造から見れば横穴式石室が最も多いらしく、次は竪穴式石室と箱形石棺がほぼ同数を占め粘土槨のほか不詳のものもかなりある。小形の仿製鏡を出土するものには土壙墓や粘土槨のものもあり、弥生時代後期末葉か古墳時代移行期に位置付けられるものもあり、鏡鑑即古墳時代とは限定しがたいが、一応県内出土の漢式鏡中に含めて記載し今後の参考資料とした。
 いずれにせよ漢式鏡を出土する遺構が、少なからず往時の社会的構成を示す一助となりうることは言うまでもなく、これらを通して古墳時代の各地における豪族勢力の消長を示す一面もうかがわれ、これらの分布状況は今後の地域的発展の様相をも物語るものと見て過言ではなかろう。しかしその詳細は後日に期したい。

 埴輪を伴う古墳

 埴輪は直接の副葬品ではなく、古墳の墳丘にこれをたてめぐらすことによってこれを荘厳化するなど種々の意味が考えられている。ここでは都合で副葬品の項に付加して扱うことにした。古墳の墳丘(盛土)のまわりに、一重または二重にめぐらした素焼の土器であり、これらの土器類には家形のものや、盾・蓋・太刀・甲冑・弓・舟などを形どる器財を中心とするものから、馬・猿・鳥などの動物を表現するものや、巫女・武人・男女など人物のほかに、円筒のものや円筒の上部が変化して朝顔形をなすものがある。これらはいずれも埴輪と呼ばれるもので大きく二分され、一つは形象埴輪といい、いま一つは円筒埴輪と呼称されているが、この埴輪の発生と目的については古くより論議が多い。
 発生について現在二つの流れが指摘されており、一つは奈良県茶臼山古墳で検出されたもので、墳丘頂に方形に配置された壷形土器がある。土器の底部には焼成前に穿たれた孔があり、このことはすでに日常什器ではなく儀器としての使用目的をもつとみられ、このことから埴輪が発生したものとされ、やがて壷形土器から朝顔形埴輪へと発展したものとする説と、岡山県地方にみられる弥生後期後半における特殊器台形がやがて、供献用土器として(都月坂)使用されるようになり円筒埴輪が発生し、その後円筒埴輪と壷が組合されて朝顔形埴輪がつくられたとする説など吉備と畿内の古墳文化の発生と発展についての手がかりとしての貴重な報告がなされている。
 形象埴輪の内でも家形埴輪は早くよりつくられており、県内では切妻の屋根を出土した松山市久米町の素鵞神社古墳と入母屋の屋根や高床住居の一部を出した石風呂町の遺構がある。埴輪馬は同市岩子山古墳で出土しており、鶏は大洲市の久米小学校庭阿蔵古墳での出土がある。器財埴輪では朝倉村の樹之本古墳の蓋をはじめ、北条市小竹の盾や松山市石風呂出土の盾・蓋があり、人物埴輪には頭部を失っているが、松山市岩子山のほか伊予市米湊出土とされるものがあり、前記鶴ヶ峠L区遺跡にもまげを付けた巫女状の頭部が、また人物上半身の出土が松山市岩子山のほかにも小野地区にあったことがあげられている。

愛媛県出土青銅鏡一覧 1

愛媛県出土青銅鏡一覧 1


愛媛県出土青銅鏡一覧 2

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愛媛県出土青銅鏡一覧 3

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