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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

5 弥生中期の海上交通遺跡

 瀬戸内海の水運と遺跡

 弥生中期になると越智郡の島嶼部や温泉郡の島嶼部にも遺跡が多く分布するようになる。これら島嶼部にはあまり沖積平野は発達しておらず、狭い谷水田があるのみである。それらもほとんど水不足で、十分な稲作が行われたとはいい難い。そうかといって貝塚の形成も認められないことから、貝の採取をもって生活していたともいえない。なお、この点については、のちに高地性遺跡のところで触れたい。
 縄文時代にも瀬戸内海は東西交通の渡廊的役割を果たしていたが、弥生時代になると中国大陸や朝鮮半島の文物の流入が激しくなり、それらが瀬戸内海を通って西から東へと頻繁に運ばれるようになったことは当然の理である。しかし、瀬戸内海の芸予諸島の海域は潮の干満の差による潮流が激しく、各瀬戸で渦が巻き、現在でもしばしば海難事故が起こっている地域である。まして現在より航海技術が未発達であり、船そのものが簡単であった弥生時代はなおさらである。そのようなことから当然海上交通に従事する水先案内人的集団とでもいえる人びとが存在していたのではなかろうか。
 弥生時代の瀬戸内海の海上交通が文化伝播や小国家統一に及ぼした影響は測り知れないものがあるが、それらについての具体的な研究はあまり進んでいるとはいえない。県内の島嶼部に分布する遺跡をみるとそれらの存在理由がおぼろげながらではあるが、理解できるようである。例えば、伊予灘に浮ぶ由利島は現在では無人島であるが、この入江内や興居島南端の御手洗の海岸、中央部の鷲ヶ巣の海底・さらに中島の長師海岸・睦月島、そして越智郡の大島の仁江・赤水・正味・伯方島の叶浦や見近島にそれぞれ遺跡が分布している。
 燧灘の中央に浮かぶ高井神島・魚島にも同様な遺跡がある。これらの遺跡は叶浦を除けばすべて弥生中期後半の遺跡である点に共通性を持っている。これらの遺跡は弥生中期の東西の海上交通に直接関連したものとみてよい。特に由利島は周防灘から伊予灘に至る中継基地であったものである。由利島では農耕による食料の自給は不可能であり、貝類の採取も海岸が急に深くなっているため十分でない。このようなことから由利島の人びとはその食糧供給を地方側から受けなければ生活していけなかったに違いない。生活に不便な場所にあえて住居を構えたのは、高地性遺跡と同様、通常の生活以外の目的・機能を持っていたものといえる。由利島では西に突出する小由利島の東側の風の当らない砂州の入江に遺跡が立地していることは、港、すなわち中継港としての機能を持っていたゆえであろう。土器そのものは櫛描き文に一部箆描き文が残り、これに凹線文土器が伴っており、県内の第Ⅳ様式第1~第2型式の土器が直接的な形で出土し、九州や畿内の土器が全く出土しないことから、松山平野周辺の統治下にあったとみられる。伊予灘ではここを拠点にし、東の興居島の南端の御手洗海岸や中央部の鷲ヶ巣、さらに中島の長師浜へと向かったものとみられる。
 御手洗・鷲ヶ巣、長師浜とも海岸ないしは海底に遺跡が分布しており、その立地条件は由利島と同じく風の当たらない眺望のきく場所である。これらのうち御手洗などは愛媛県への文化の流入拠点となった可能性がある。これらの風待ち中継港を出た船は、斎灘を経て芸予諸島の大島の仁江・赤水・正味などの港に到着したものとみられる。

 芸予諸島の臨海遺跡

 芸予諸島には各瀬戸があるため、それぞれの瀬戸に沿う海岸に遺跡があるが、これらは単に風待ち、潮待ちのための港として利用される以外に、水先案内人などの居住する集落であった可能性が強い。急流の各瀬戸を乗り切るには潮の流れを熟知した操船技術に長けた水先案内人的集団がいなければ無理である。特に大島と伯方島の間にある宮窪瀬戸に浮かぶ見近島の海岸に遺跡が立地したり、島の西端の岬に弥生時代の箱形石棺が所在したりするのは、ある一定期間定住していたことを物語っている。
 見近島の対岸にある伯方町叶浦には、縄文前期から弥生中期中葉に至る遺跡が重複して所在しているが、中期後半には消滅し、これが見近島へと移動している。見近島は前述のとおり宮窪瀬戸中に浮かぶ小島であり、現在は無人島である。したがって飲料水も全く得られなく、農耕にも不適である。この人間が居住するのに不便な小島に中期後半の遺跡が移動し、立地するにはそれなりの因子が存在したはずである。時代は異なるが最近の調査で中世の住居跡が十数棟前後発見されているが、これら住居跡は中世の水軍と呼ばれる海賊の居城に関係するものである。恐らく、この中世の城跡ならびに住居跡の立地因子と同様なものが弥生中期後半にもあったとみてよい。このようなことから考えると海上交通そのものが大きく影響していることは間違いなかろう。
 海上交通が統一国家への胎動を意味するのかどうかは不明であるが、見近島の東部の宮窪瀬戸に浮かぶ能島が中世の村上水軍の根拠地となって、中世の瀬戸内海の制海権を掌握したことと無関係ではあり得ないように思われる。

 燧灘中の孤島の遺跡

 芸予諸島の各瀬戸を通り、瀬戸内海中央部の燧灘に出ると島影はほとんどみられなくなる。この燧灘のほぼ中央部には高井神島と魚島(古くは沖ノ島という)が孤島となって浮かぶのみである。したがってこれらの島に所在する遺跡が海上交通の中継港として利用されていたことは伊予灘の状態からみて当然である。高井神島では北端に突出する丘陵上に、魚島では北岸の海岸と、それを眼下にする丘陵上にそれぞれ遺跡が立地している。特に魚島の丘陵上に立地する神ヶ市遺跡も海岸に立地する篠塚港遺跡も北に面している 高井神島の海岸は海食作用によってすべて絶壁となっており、そのうえ平坦地が全くなく、港として利用することは当時も不可能であったとみてよい。このような孤島の北端に遺跡が立地することは、芸予諸島の各瀬戸を出た船が魚島の篠塚の中継港へ向かうことを容易にするための道標の役目をはたすためではなかったろうか。偶然の一致かもしれないが、現在でも瀬戸内海の東西航路はこの北端の海を通っており、山頂には航海の道標である燈台が設けられている。
 魚島の大木遺跡からは古墳時代の銅鏡や鉄鋌、それに各種の祭祀遺物が出土しており、海上交通の安全を祈る祭祀の場があったことが明らかとなっている。恐らく、古墳時代の海上信仰の原形はすでに弥生時代中期にあったものといえる。
 なお、伊予灘の由利島や中島の長師浜、それに高井神島・魚島を結ぶ線は潮流の関係からかもしれないが、現在でも阪神と四国・九州間を結ぶ航路にあたっており、弥生時代の航路と偶然にも一致していることは興味深い。これらの絶海の孤島に、共通して中期後半の遺跡が点在することは、この時期に瀬戸内海の制海権を必要とするような強力な力が働いているといえる。それは弥生時代中期後半の倭国大乱に伴うものでなかったろうか。この時期の軍事的性格が強いといわれている高地性遺跡と並行して検討を加えなければならない問題である。。

3-60 海上交通遺跡分布図

3-60 海上交通遺跡分布図


3-62 見近島周辺の遺跡分布図

3-62 見近島周辺の遺跡分布図


3-64 魚島出土の弥生式土器

3-64 魚島出土の弥生式土器