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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

6 住居様式と集落形態

 生活様式の移り変わり

 弥生前期の住居跡は松山市窪田Ⅳ・Ⅴ遺跡でその一部が明らかとなったといわれているものの、全県的傾向を示しているという段階でなく、今後検討しなければならない問題である。ところが弥生中期になると住居跡の発見例が急に増加し、その実態がより鮮明となってくる。
 住居跡は竪穴式であって、これに高床式の倉庫が伴っているが、高床式の倉庫がある以上高床式の住居があってもいいのではないかとの考えも最近出はじめている。住居跡発見の中心は中予地方の松山平野一帯であり、東予地方では丸山遺跡以外では発見されていない。南予地方は現在までのところ洞穴を例外とすれば全く発見されていない。
 県内で現在までに発見、確認されている中期の住居跡はほぼ四〇棟を越えるが、そのうちの三五棟までが松山平野ならびにその周辺である。したがって住居跡の実態が鮮明になってくるといっても、それはあくまでも松山平野を中心とする地域であるということを念頭におかなければならない。中期の前半は前期と同様その実態ははっきりしないが、プランそのものは前期の方形プランを基本としているようである。
 中期前半は松山市の窪田Ⅳ・Ⅴ遺跡で垣間みる一辺約五メートル前後の方形の竪穴式住居跡である。柱穴は四本柱を基本としている。住居跡の中央部分には炉が設けられている。住居跡の主軸方向がほぼ東西を指向しているのは日照を考慮に入れたからであろう。これらの住居跡は沖積平野中にはあるがやや高燥な河岸段丘面上にある。それでも丘陵や山麓に比べると湿気や水分が多いためか、住居跡内の周縁にはU字状の周溝を設けて、十分な排水を考慮したものとなっている。ただ、資料的にやや問題があるので、将来の資料の増加を待って検討を加えなければならない。

 中期の住居跡の特徴

 中期中葉から後半になると住居跡の発見も多くなり、かつ多様化する。中期後半の前葉、すなわち第Ⅲ様式第Ⅰ型式の土器の時期になると、前期ならびに中期前半の方形プランを踏襲する西野Ⅱ遺跡の1・2号住居跡のごとく方形プランを有する竪穴式住居跡がある反面、円形プランを有する住居跡が新しく発生し、それがより発達するようになる。なかには西野Ⅲ遺跡や谷田Ⅳ遺跡にみられるような長方形プランから円形プランへの変化の過程をあらわすような長円形プランの竪穴式住居跡もある。しかし、この段階までは四本柱を基本としている。この時期には方形プランも一部残るが、円形プランが主流になっていることは疑いない事実である。このことは松山市中村・谷田Ⅲ・西野Ⅰ・西野Ⅲの各遺跡発見の住居跡がほとんど円形プランを持っていることでも理解できる。松山平野北東部の窪田Ⅲ・Ⅳ・Ⅴの各遺跡でもこの時期に方形プランから円形プランへと大きく変化している。このことから第Ⅲ様式第1型式の土器の盛行する段階で円形プランの住居跡が発生したものといえる。

 住居空間

 この方形プランから円形プランへの変化が何を意味するのかは明らかでないが、凹線文土器の発生と密接な関係があり、加えて高地性遺跡の出現期とも一致するところから、社会生活上、かなりの変革があったとみてよい。円形プランの竪穴式住居跡は単に平面的変化のみではない。方形プランの住居跡は主柱が四本であるが、円形プランの住居跡は七~九本で環状に連なっており、上屋構造も当然複雑になったものである。ただ、円形プランや長円形プランを有する住居跡でも西野Ⅰ遺跡の1号や谷田Ⅲ遺跡の2号、さらに谷田Ⅳ遺跡の1号のように平面プランが小さいものは四本柱が引き続いて採用されている。このように考えると主柱を環状に七~九本持っている円形プランの住居跡は、大きな住居を構築するための構造上の問題から採用されたのかもしれない。
 環状にめぐらす主柱の場合には中央部の空間が広いため、家屋内の日常生活における行動も容易となる。加えて四本柱の場合は構造上天井部があまり高くならない。したがって、住居跡中央部に設けられた炉跡からの火災の発生も多い。これらの弊害を少なくするため、この時期に考え出された住居形態とみることもできる。中期末、すなわち第Ⅳ様式第2型式の土器を伴う住居跡はそのほとんどが円形プランとなっている。しかし、柱は四本柱と七~九本のものと二つのグループがある。四本柱はその規模が一段と小さく、環状の柱を持つものは共通して大規模である。凹線文土器を伴う時期の住居跡はすべて円形プランである。住居は弥生前期や中期前半の立地を踏襲するものがある反面、この時期には沖積平野を望む台地や丘陵上に立地するグループがあらわれる。住居は西野Ⅲ遺跡の1号住居跡のごとく、通常は日照、採光の面から南に出入口を持つものが普通であるが、地形上の制約から東部ないし西部を向いているものもある。西野Ⅲの1号のように造り出しによる出入口を別に設けているものさえある。これらの住居跡には谷田Ⅲ遺跡の2号住居跡や西野Ⅰ遺跡の1号住居跡のごとく住居跡に接続して深い土坑を持っているものもある。これら土坑は住居跡外の貯蔵穴や土器などの保管をしていた施設とみてよい。

 住居内のベッド状遺構

 中期中葉以降になると方形・円形プランをとわず、住居跡内にベッド状遺構を持つものがあらわれてくる。これは弥生後期まで続いている。このベッド状遺構はすべての住居跡に設けられているものでないことからみると、特殊な目的を持っていたといえる。ベッド状遺構も住居跡内の外縁部全面に環状に設けられているものもあれば、その一部だけに設けられているもの、さらに北部に三つに区画されたベッド状遺構を持つものもある。このベッド状遺構は住居跡内の機能上から発生したものとみるのが現段階では最も妥当である。ベッド状遺構が就寝の場として発生したものか、あるいはすべての住居跡になく、住居跡群中の中心的位置を占める住居跡にのみにあることから、村落共同体のなかにおける会合とか、祭祀の際に使用された場であるかもしれない。恐らく後者の可能性の方が大である。円形プランを有する大形の住居跡内には中央に主炉跡があるとともに、副炉跡が設けられている場合が多い。このような住居跡は家族構成員が多いためであったのではなかろうか。
 同じ住居跡でも低地の住居跡と台地上の住居跡では、その構造に若干の相違がある。低地の住居跡は方形にしろ、長円形・円形にせよいずれも竪穴式の住居跡である。なかには松山平野北東部の窪田Ⅳ遺跡の住居跡のごとく、屋根に降る雨水の排水のために住居跡の外側の周囲に、断面がU字状の溝をめぐらしたものもある。これに対して、丘陵上や斜面上に立地する住居跡は厳密には半竪穴式の住居形態をとっている。中期後半から多くなる高地性集落の住居跡も同じである。斜面上の場合は共通してすべて稜線寄りは六〇~一五〇センチの深さの掘り込みがあり、他方、傾斜面下は平地式であった。これは地形上の制約からのものであるが、このようにすると同じ面積であっても立体的空間はより広くなり、家屋内の行動は自由になったといえる。このような場合はいずれも山麓下に面した部分に出入口があったとみてよい。この時期には以上のように沖積平野以外の河岸段丘面上や台地上にも住居が営まれたということは、人口増加によって中期の世界が拡大したことを証明している。

 集落形態

 さて、中期の住居形態についてはその概略をほぼ把握することができたが、これら住居を中心とした集落形態はどのような状態であったのであろうか。最近までは県内では住居跡そのものの発見が遅れていて、集落形態をうかがう資料はきわめて限られていた。しかし、最近になって大規模開発に伴う発掘調査によってその状態が少しずつ明らかにされてきた。
 しかし、住居跡などと違って集落全体となると、その範囲はより拡大するため、集落の全貌が明らかになることはまれである。例えば、国道一一号線や国道三三号線の道路建設に伴う調査によって、住居跡を中心とする各種遺構が非常に多く発見され、かつ当時の遺物等も多量に出土し、その歴史的事実が次々と明らかになっている。だが、道路建設に伴う発掘調査は道路幅のみの調査であって、線的追求の域を出るものではない。集落そのものを明らかにするためには、あくまでも限界があるといわねばならず、このようなことからまだまだ十分であるとはいえない。ただ、本県では県営総合運動公園建設などに伴って広範囲な発掘調査が行われ、集落全体の発掘調査が行われ、それによって貴重な事実が明らかとなった。それゆえ、これら遺跡群を中心に当時の集落形態についてその復元を試みてみよう。
 県営総合運動公園内にかつて存在していた西野Ⅰ・西野Ⅱ・西野Ⅲ・谷田Ⅲ・谷田Ⅳ・釈迦面山の各遺跡は、いずれも全面発掘に近い状態まで調査したものである。

 西野Ⅰ遺跡の集落

 西野Ⅰは西野台地の南の緩傾斜面にあって、三棟の住居跡と土坑が集中して発見されている。この三棟の住居跡のうち一棟は弥生後期のもので、他が中期後半前葉のものである。したがって西野Ⅰの集落は二棟の円形住居跡とそれらに伴う円形・方形の土坑三四基からなっている。直径四・七メートルの1号住居跡は、四本柱で住居跡内の西部に接して貯蔵穴を持っているが、これより東二五メートルには直径一〇メートルに近い円形プランの半竪穴式の2号住居跡がある。この2号住居跡は県内では現在までのところその規模は最大であって、北部に三面の区画されたベッド状遺構を持ち、住居跡内から磨製石鏃・磨製石槍・磨製小形石斧などが出土している。この二棟の住居跡にはその規模において大きな相違が認められる。
 大規模な2号住居跡は隣接して分布している谷田Ⅲ・谷田Ⅳ・西野Ⅱ・西野Ⅲの各遺跡で発見された合計一五棟の住居跡の中心的存在であった可能性がある。近接して点在する最小単位の集落の紐帯的役割、すなわち集落内の会合や祭祀を行う中心的住居であったとみられる。このことは住居跡の北部に接して六基の比較的大きな土坑が所在していることと無関係ではない。これら土坑には柱穴を外部に持っているものもあり、土坑床面から各種石器が出土するので、これを工房跡としてとらえているが、単に二棟の集落だけのものと考えると多すぎるからである。したがって西野Ⅰは集落の最小単位であるが独立して存在していたものではなく、同時期の谷田Ⅲ・谷田Ⅳ・西野Ⅱ・西野Ⅲの各遺跡のなかで位置づけをしなければならないものである。

 西野Ⅱ遺跡の集落

 西野Ⅱは西野Ⅰの北約五〇メートルの地点にあるほぼ同時期の遺跡である。西野Ⅱは台地が東に向かって緩傾斜しており、北部はなだらかな鞍部を境に西野Ⅲへと続いている。西野Ⅰと西野Ⅱの間には縄文晩期の土坑状遺構があるものの、住居跡はなく別個の集落とみてよい。ここには方形プランを有する竪穴式住居跡が二棟発見されている。東端に位置する1号住居跡はベッド状遺構を持ち、出入口は東斜面下の東側に設けられている。西端の2号住居跡は小規模で、柱穴は二本である。1号住居跡の北部に二基の土坑状遺構があるのみで、他の遺構は存在しない。時期的には西野Ⅰ・西野Ⅲとほぼ同じである。にもかかわらず明らかに他の遺跡から独立する位置を占めている。

 西野Ⅲ遺跡の集落

 西野Ⅲはこれら集落のうちでは最大のもので、北突する約七〇○○平方メートルの舌状台地上にある。標高は八〇メートルで北部と東部の沖積平野からの比高差は一八メートルである。舌状台地の北端から中央部にかけてはすでに記した弥生前期の大土壙墓群があり、それに一部重複して中期後半前葉の集落が形成されている。
 住居跡は同時期とみられるものが六棟発見されている。このうち四棟は舌状台地の東縁端に一五~二〇メートルの間隔をおいて所在している。他の二棟は台地の西端近くに位置している。西部の二棟の住居跡には二棟の高床式建造物跡が伴っている。西野Ⅲの集落は六棟の住居跡と二棟の高床式建造物跡、それに一九基の円形土壙墓・一一基の土坑と環溝からなっている。住居跡は台地の中央部には全くなく、すべて台地の周辺部にある。この中央部には南北四〇メートル・東西四六メートルの環溝があるが、この内部には住居跡はなく、西端の5号住居跡がこれに一部かかっているのみである。環溝は、5号住居跡が廃棄されると時をおかずに設けられた可能性が強い。この環溝がいかなる目的を持っているのかは現段階では定かでない。環溝の目的は墓域を区画するものであるとか、集落を取り囲む防御的性格を有するものであるとの説は西野Ⅲでは該当しないことは事実である。特に東縁端の四棟の住居跡はすべて円形プランを有する竪穴式住居跡で、そのうえいずれも七~九本の柱穴が環状に配されている。環溝東部に沿って各種の土坑状遺構が分布するが、そのうち明らかに土器溜めとみられるものも認められた。これら住居跡に伴う墳墓は北部の住居跡群の西側にあって、直径七〇~八〇センチ、深さ七〇~八〇センチの円形土壙墓で、上部から川石を詰めている。恐らく本集落を営んだ人びとの墓域であろう。

 谷田Ⅲ遺跡の集落

 谷田Ⅲは西野Ⅰの南の小開析谷を隔てた西一二〇メートルの北突する舌状台地上に形成された集落であり、三棟の円形の竪穴式住居跡が発見されている。これらのうちやや規模の小さな二つの住居跡は四本柱であるが、他の一棟は七本柱である。三棟のうち2号住居跡はベッド状遺構とともに住居跡内に貯蔵穴を持っている。これらの住居跡はともに稜線より東側斜面に位置している。住居跡以外には形・方形の各種の土坑が多数所在しているが、墳墓といえるものは確認されなかった。墳墓は稜線の上部に存在していたようである。この他、直径一メートル、深さ二~二・五メートルの井戸状遺構が三基、工房跡とみられる竪穴が一基、それに屋外炉跡も一基発見されている。さらに住居跡に隣接する土坑状遺構中から破片ではあるが分銅形土製品が出土し、それに接する径五〇センチの浅い土坑内からは川石と、その下部から破砕された土器が出土した。このように祭祀的色彩の濃厚な遺構も発見されている。なお、2号住居跡内の貯蔵穴の中から小形ののみ状石器や、超小形の線刻のある石棒・鉄器片が出土したことは、このような道具類を保管していた場合があることを示している。

 谷田Ⅳ遺跡の集落

 谷田Ⅳは西野Ⅰの南二〇〇メートルにある集落跡である。谷田Ⅳの住居跡は長円形の平面プランを有する竪穴式住居跡であるが、いずれも住居跡そのものは小規模である。したがって柱穴も四本である。本集落の二棟の住居跡はともに稜線より東側斜面に立地しており、住居跡以外の遺構としては長方形の土壙墓一基と、径二メートルの鉄器を伴う工房跡である竪穴と、径一メートル、深さ八〇センチの円形土坑二基である。円形土坑内からは石斧・石のみが出土していることから、住居跡に伴った貯蔵穴と理解することができる。長方形の土壙墓はこれが直接本集落と関係するものかどうかは不明である。
 以上が西野Ⅰ遺跡を中心とする同時期の集落である。前述したとおり最小集落単位は西野Ⅰ・西野Ⅱ・谷田Ⅳの各遺跡でみられるとおり二棟の住居跡が中心となっている。これらの遺跡以外では古墳時代の集落跡である谷田Ⅰ遺跡内にも弥生中期後半の方形の竪穴状遺構と土坑があるが、これらも以上述べた集落と深い関係を有していたものとみてよかろう。
 以上の集落を通観すると、すべての遺構を持っている遺跡はない。ただ西野Ⅲと谷田Ⅲ遺跡は独立した集落を形成したとみることもできないことはないが、西野Ⅰ・西野Ⅱ・谷田Ⅳの遺跡は単独で集落を形成したとは理解できない。これらの集落は個々に独立はしているが、西野Ⅰ遺跡の2号住居跡を核とした村落の一員であった可能性が濃厚である。すなわち、各小単位集落は血縁的関係で結ばれていたとみなすことができる。一五棟の住居からなる集団も血縁的な紐帯が中心であったとみてよい。彼等が低地に居住せず、丘陵上に村落を形成したのは何か別の機能を持っていた可能性がある。
 以上の集落はいずれも第Ⅳ様式第1型式の土器を出土するものである。
 中期末の第Ⅳ様式第2型式の土器を出土する住居跡群を主体とする集落としては、丘陵では松山市釈迦面山遺跡を、低地では文京遺跡をあげることができる。

 釈迦面山遺跡の集落

 釈迦面山遺跡は砥部川と御坂川によって形成された高位の河岸段丘が、長年月にわたって浸食された標高一〇〇メートルの丘陵上に位置している。西部の砥部川の低位の河岸段丘面までの比高差は四〇メートルであり、一種の高地性遺跡であるともいえる。この釈迦面山の稜線上は弥生時代や古墳時代の墓域となっている。第Ⅳ様式第1型式の土器を伴う集落が標高八〇メートル前後の台地上に立地していたが、この時期になるとより高い丘陵ないしは山頂に集落が形成されており、そこに集落立地の変化が認められる。釈迦面山遺跡は円形の竪穴式住居跡が五棟と、円形の高床式倉庫跡が一棟発見されている。これらの建物はすべて稜線より東側斜面下のみに分布しており、平坦地の認められる頂上部にはない。これは中期の本遺跡や谷田Ⅲ・谷田Ⅳ遺跡に限らず、砥部川を隔てた田ノ浦・行道山・八倉などの山頂に位置する遺跡もすべて稜線より若干さがった東斜面にある。これは何も中期の遺跡に限ったことではなく、後期の西条市八堂山遺跡でも確認されていることである。
 これは冬季の西からの風と気温の低下を防ぐ目的のためであろう。昭和五五年冬季の異常低温による柑橘類の落葉の状況をこれらの現地でみた限りでは、稜線の西斜面はその被害は最大であったが、東斜面はほとんど無傷のままであった。農耕生活を行っていた弥生人は、われわれが想像する以上に、生活の知恵として風や気温が地形によって影響されることを知っていた証拠であるといえよう。
 さて、釈迦面山では稜線下東側八メートルにある1号住居跡を中心にして、その斜面下に四棟の住居跡が半円状に四~五メートル前後の間隔をおいて配置され、そのなかに高床式倉庫跡が一棟ある。このうち位置的に中心を占める1号住居跡は直径四・五メートルと最もその規模が小さく、柱穴も四本である。北端に位置する2号住居跡は小判形で両端に造り出しを持ち、四本柱であって、1号住居跡よりややその規模は大きい。3号住居跡はこれに続く大きさであり、東部から南部に位置する4・5住居跡はともに直径七・五メートルとその規模は大きく、柱穴は七本ずつである。これらの住居跡内からは各種の遺物が出土したが、その量は1号住居跡を除いては多いとはいえない。1号住居跡は五棟の住居跡中最もその規模が小さいものであるが、発掘の結果、住居跡床面全面にわたって石器類とともに非常に多くの土器が出土した。中央部には炉跡があり、それに接して丸い川石の工作台があった。この土器の出土状況からすると、人びとが生活をする空間は存在していなかったことをあらわしている。ということは、炉跡や工作台があったことは住居としての機能を持ってはいるものの、廃棄された段階では住居としてではなく、半円形に連なる四棟の住居跡の中心に位置していることから、本集落の共同の土器保管場所として倉庫的に利用されていたとみられる。他の住居跡からの土器の出土がきわめて少なかったのもこのようなことに原因があるのではなかろうか。
 本集落には円形の高床式倉庫跡が発見されている。高床式倉庫はこの時期以前は四本ないしは六本柱の方形、長方形のプランを持ったものであったが、中期後半に出現した円形住居跡に影響され、円形倉庫が発生したものであろう。この円形倉庫を形づくった柱穴群の内部には、角礫とともに破砕された土器片が多数出土したが、これは円形高床式倉庫の下に角礫や割れた土器片を破棄したものであろう。このような円形の高床式の倉庫は後期の八堂山遺跡でもみられるものである。なお、4号住居跡中からは鉄製の鍬先やガラス製のビーズ玉が出土している。県内でガラス製品が使用されはじめたのはこの時期からであろう。
 釈迦面山の住居跡群に接する稜線を中心とする地域には五基の方形周溝墓群が形成されている。この方形周溝墓は1号住居跡との切り合い関係から、釈迦面山集落が何らかの原因で廃棄されたあとに造営されたことは明らかである。周溝から出土する弥生式土器が後期初頭のものであることから、本集落とは直接関係のないものであるが、集落の変遷を知るうえでは重要である。本集落と関係するとみられる墳墓としては、釈迦面山の南八〇メートルの釈迦面山南遺跡の土壙墓群や、組み合わせ式箱形石棺がこれに該当するのではなかろうか。
 この他、砥部町拾町の重信川の河岸段丘端に二棟の隅丸方形の住居跡が発見されているが、集落全体を知るまでにはいたっていない。ただ、住居跡は河岸段丘の縁端部にあって、内奥部には全く形成されておらず、土坑状遺構や土壙墓、それに土器溜めなどは住居から一〇〇メートル前後離れた内奥部に設け、住居と墓地や祭祀の場所を分離する傾向を示していた。
 弥生中期末においても中期後半前葉とそれほど大差のない集落形態を持っていたものであろう。釈迦面山のごとく四~五棟の住居跡と共同使用する住居一棟に貯蔵用の高床式倉庫を一棟持つのが最小集落単位であったとみてよい。これらが何個か集まって一つの村落を形成したものであろう。
 以上が丘陵上に形成されている集落跡の状態であるが、これがはたして低地の集落にあてはまるかどうかははなはだ疑問である。
 松山市の文京遺跡や中村遺跡でいずれも住居跡群が発見されているが、それはあくまでも集落の一部でしかなく、これをもって集落全体の状態をうかがうことはやや問題がある。ただ、住居跡の密度は大であり、その状態からすると集落自体も丘陵地上に分布する集落に比べると、すこぶる大規模であったとみてよい。


3-65 久米窪田Ⅴ遺跡3号方形竪穴住居跡

3-65 久米窪田Ⅴ遺跡3号方形竪穴住居跡


3-67 弥生中期の住居跡平面プランの変化

3-67 弥生中期の住居跡平面プランの変化


3-69 県営総合運動公園の弥生中期の集落分布図

3-69 県営総合運動公園の弥生中期の集落分布図


3-70 西野Ⅲ遺跡の住居跡分布図

3-70 西野Ⅲ遺跡の住居跡分布図


3-73 釈迦面山遺跡平面図

3-73 釈迦面山遺跡平面図


3-76 文京遺跡の住居跡分布図(第2次調査)

3-76 文京遺跡の住居跡分布図(第2次調査)