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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 中津川洞遺跡

 遺跡の位置

 中津川洞遺跡の絶対位置は北緯三三度二二分三三秒、東経一三二度四五分一四秒で、その行政的位置は東宇和郡城川町大字古市三二七三番地である。標高は一九〇メートルで、後述の中津川の現河床面との比高約七メートルを示す。
 早期の穴神洞遺跡と同様、肱川上流の黒瀬川水系の小規模な河岸段丘上に立地する。すなわち、城川町古市附近で黒瀬川と分流する三滝川は、この分流地点から約九百メートル遡るあたりで東方からの小河川、中津川の流れを受ける。中津川は両岸にわずかの河岸段丘を形成しているが、洞穴はこの中津川沿い東西に延びる細い帯状の河岸段丘の最上部、山地との傾斜変換地点附近で南に向って開口している。洞穴南部に隣接し恵美須神社が鎮座し、本洞穴も神社境内の一部となっている。

 発掘調査の成果

 発掘調査は、昭和四六年(一九七一)の第一次から昭和五三年(一九七八)の第四次に至る前後四回実施された。その間、県下における縄文前期土器の標式土器たる中津川式土器の設定、同じく前期の仰臥屈葬成年女性人骨の検出、石器製造跡としての性格追求などに多くの成果を納めた。
 雨滴線から奥壁まで約五メートルの奥行を持つ本洞穴の平面とその断面、洞穴中央部の堆積層位については図示するに留めたい。(2―54)
 つぎに出土遺物について概観しておこう。第一層からは、数条の平行横走する深い沈線文を持つ土器、数条の同心円状の沈線文土器、さらには細く浅い櫛描状の沈線文を付す土器、県下において弥生期への移行を示す縄文晩期土器などが採集された。またこの第一層は部分的に攪乱を受けており、これら晩期土器と混在の形で磨消縄文を持つ縄文後期土器も採集された。これらは西瀬戸内的とするよりもむしろ四国西南部的な色彩の濃い後期土器であった。この層からの石器の出土は石鏃のみである。その石鏃の原材は、チャート、頁岩、サタカイト、石英の順位を示し、特にこの層での莫大な量のチャートの剥片は、縄文後期における石鏃製造跡的性格を示唆した。また熟年男性人骨を一体を収納したが、これについてはその埋葬時期に今後考定の余地を残している。
 本遺跡の中核を成す第二層出土の縄文前期土器は、後に本遺跡をタイプサイトとする中津川式土器の呼称を得る。石器は石鏃、スクレイパー状石器、それに砥石が出土した。スクレイパー状石器は、サイドスクレイパーとエンドスクレイパーとに分類し得るものの、共にチャートの横長剥片を加工したものである。砥石は立方体状で砂岩から成り、上下面ともに顕著な使用痕を残すものであった。
 この中津川式土器に伴出した縄文前期の石鏃は五二点で、その原材は断然チャートが優位で、ついで姫島産黒曜石、頁岩、サヌカイト、石英、石灰岩の順位を示す。この第三層も縄文後期の文化層たる第一層下部円様に、これら原材のチップや剥片が多量に散在し、縄文前期においても石鏃製造跡的性格を濃厚にした。さらには、その原材の上でチャートが優位を占めることは、本遺跡周辺の地層が間層の形で各種のチャートが存在することで著名な二畳紀田之筋層及び遊子川層に属することと強く関わったと考えられるが、姫島産黒曜石、サヌカイトと、ともに遠隔の地から搬入されたもので、これら原材の種類はこの期の文化圏形成の様相を解明する上で重要な意味を持つものである。
 その他、いずれも食用に供されたと理解される焼けたカワニナと獣骨片が散在する炉跡状遺構が、この層の落ち込み部から発見され、第二層がきわめて安定した縄文前期の生活層であることを証した。また明らかに意図的な埋葬遺構を伴う縄文前期の女性人骨を収納したが、これについては後述することとしたい。
 第三層は前述の縄文前期の人々により激しく攪乱され、遺物、遺構は全く発見されなかった。
 第四層からはやや後出的な様相が認められるものの、現状では上黒岩Ⅲ式の範疇で総括される押型文土器、それに撚糸文土器、押圧条痕文土器が共伴の形で出土した。石器は石鏃と叩石がそのほとんどを占め、他に緑泥片岩製の短冊形で扁平な石斧、石錐、それにチャートからなる楔形石器が採集された。
 第五層の上部からは、ヘラ状の原体で施文され第四層の押圧条痕文土器に先行すると考えられる押圧文系の小土器片が採集された。石器では極端に石鏃の量が減少し、かわって楔形石器が優位を占める。下部からは無文土器、基部の抉りが浅くほぼ正三角形状の石鏃、楔形石器、それにスクレイパーが出土した。
 第六層からは上黒岩Ⅱ式の範疇で把えられる無文土器及び押圧文土器、上黒岩第六層穴神洞第六層出土と同例の始源的な石鏃、それにチャートを原材とした楔形石器、サイドスクレイパー、ナイフ状石器、使用痕のある剥片、砂岩から成る叩石、石皿の出土を見た。
 第七層からは無文土器一点、楔形石器一点、細石核の可能性を持つ石器一点、さらにチャートを原材としたサイドスクレイパー、ナイフ形石器、小形縦長剥片、使用痕の存在する剥片が採集された。
 本遺跡の発掘調査においては第一〇層までの層位を確認したが、第八層以下は文化層とて確認し得なかった。
 以上述べたごとく、当遺跡は中津川式土器の標式的遺跡でもあるので本項で取り上げたのであるが、このほかにも、縄文早期前半の遺物も含み、県下では上黒岩Ⅱ式と呼称される無文土器、また縄文早期中葉の上黒岩Ⅲ式土器、さらにはこれらの土器群に伴う大量の楔形石器の出土により、本遺跡が縄文早期にその始源を持ち、縄文前期にかけきわめて戦力であったことを示唆して余りある。

2-54 中津川洞の平・断面堆積層位図

2-54 中津川洞の平・断面堆積層位図