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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 向井 団四郎 (むかい だんしろう)
 文政2年~明治18年(1819~1885)松山藩三津町大年寄。向井家六代義徳の長男。名は義知。通称は団四郎。嘉永3年以来大年寄として町行政の衝にあたっていた団四郎は,明治維新前後これまでの帆船に代わって,それより大型の汽船が,内海航路を往来するようになり,ことに慶応3年12月には,松山藩購入の新型汽船の三津港廻航の様子を目の当たりに見て,汽船の出入・停泊また繋留に便利な港湾建設の必要を痛感した。当時の三津港は,彼の父団四郎・町大年寄天野伝兵衛らが,天保15年に築いた帆船用の升形があったが,汽船用には狭く使いものにならなかった。そこで明治10年7月彼は三津町有志6人と連名で,当時の県令岩村高俊に当て,海岸から240間の沖合に,南北300間根敷8間上幅5間2合の予算総額3万5千円余を以て防波堤を築造する一大築港計画の願書を提出した。この計画が商人出身の平民らによって立てられた点,画期的なものであった。翌11年10月には,前年と同じ発起人6人によって52万3千円の莫大な予算で10か年の歳月をかけて,高浜開港梅津寺海岸築堤などの大築港計画を県令岩村高俊当てに提出した。さらに同14年4月には,彼と三津市街戸長を発起人として港口にある須先町と対岸古深里の間に新しく花崗岩で架橋を,県令関新平当てに出願した。そのうえ同16年1月には,彼と三津市街第二・三組戸長2人とが発起人となって,築港につき関県令当てに再出願をした。この計画は江ノ内(内港)の入江埋立てと航路筋の掘浚を主とし,港外に大加賀新田埠頭から北手へ300間,西手へ30間のなげ10か所を構築しようとする計画であり,所要営繕費は,発起人らが設立した仁義多津と称する会社から出資することとした。しかしいずれの出願も「詮議に及び難し」として却下され,県の認可は得られないまま,同18年2月彼は死去した。現在の大松山築港の祖といっても過言ではあるまい。明治18年2月14日66歳で死去。松山市神田町正念寺墓地に葬る。

 武藤 忠義 (むとう ただよし)
 明治9年~昭和19年(1876~1944)実業家。明治9年吉田町に生まれ,宇和島で育つ。父忠雄は明治15年10月28日死去,享年40。母夕力は明治42年11月11日死去,享年62。祖先は仙台から伊達侯について来た藩士であった。父を6歳にして失った武藤家は貧困で,母は当時は数少ない婦人職業(准官吏)へと志した。彼は鶴島小学校を出て,松山の師範学校へ入学した。師範学校の2・3年生になり小学校の先生になってもつまらぬと考え,早稲田の講義録を耽読した。「法律と道徳」という懸賞論文で一等賞になり一か年の月謝を免除された。そこで東京への遊学を志し中退しようとしたが,母に叱られた。母の命に従い師範学校を出て,更に東京高師に進んだ。明治40年3月東京高師地理歴史部卒業,府立女師第二高女教諭を経て,実業界に入る。大正8年大川合名・樺太工業を吸収し王子製紙の課長として活躍す。
 昭和14年11月東京にて『先人余滴』A5判312頁を出版す。武藤家代々の業績,宇和島吉田両藩のことを主として記述している。この本の扉裏にカラーで宇和島城下町と吉田陣屋町の鮮明な地図がある。さすがに高等師範学校の地歴部卒のセンスがある。また系図なども見事に表現している。

 向井 一男 (むかい かずお)
 明治33年~昭和44年(1900~1969)囲碁八段。明治33年3月27日,越智郡岩城村に生まれる。大正3年に14歳で田坂信太郎に入門,同7年初段,昭和16年5段,同34年には7段に進む。囲碁ひと筋の人生を送り,同39年から4年間は日本棋院の棋士会長となり,最古参の現役棋士として人望を集めた。謹厳実直な対局態度は,棋士の模範とされた。本因坊秀哉に私淑して,時流におもねず,旧布石を守る。昭和10年の日本囲碁選手権で,鈴木七段,木谷七段を連破し,決戦で呉清源六段を破り,優勝する。死後日本棋院より八段を追贈される。昭和44年1月24日,68歳で死去。

 向井 三治 (むかい さんじ)
 明治35年~昭和33年(1902~1958)県議会議員。明治35年8月28日北宇和郡宇和島町石応(現宇和島市)で生まれた。徳島県立水産講習所卒業後,機帆船による海運業に従事した。19年愛媛機帆船運送会社常務取締役・機帆船海運協会愛媛支部次長などを務めた。昭和22年4月戦後初の県会議員選挙に当選,県政界刷新の中にあって白石春樹と共に愛媛民主党の闘将として頭角を現し,反青木知事陣営の先頭に立った。26年3月再選されたが,脊髄カリエスを病み,次第に政治活動が困難になった。昭和33年10月31日,56歳で没した。

 向井 鹿松 (むかい しかまつ)
 明治21年~昭和54年(1888~1979)経済学者。西宇和郡大久浦(現瀬戸町)で明治21年3月6日生まれる。八幡浜商業学校を卒業して上京,苦学をして慶応義塾大学理財科を卒業する。卒業後,大学に残り,欧州留学をした後,母校の教授となる。大学では「商業経営講座」を担当して,昭和13年退職する。戦後も青山学院大,愛知学院大,横浜商科大,立教,専修,東洋大で講義を続ける。一方,日本商業学会や日本広告学会の会長を務めるなど商業学の草分け的存在であった。戦前には商工会議所の理事をしたり,昭和21年物価庁の第四部長として役人にもなる。また,初代の商品取引所審議会会長や通産省の産業合理化審議会商業部会長をやって百貨店法の成立をはかる。著書には『流通論』『市場配給組織論』等多数あり,経営経済学の第一人者であった。経済学博士。昭和54年6月30日,91歳で死去。

 向井 和平 (むかい わへい)
 天保13年~明治37年(1842~1904)砥部焼中興の祖とよばれる。砥部の代表的陶芸家。家は代々陶業を営み,曽祖父の向井源治の文化10年(1813)の開窯にさかのぼるが,この曽祖父は川登石の発見者であるといわれる。天保13年11月12日浮穴郡砥部郷五本松村(現伊予郡砥部町)に生まれる。和平(二代目)は,号を愛山と称し,彼が造った錦絵磁器は秀逸で,愛山ものとして珍重せられている。明治23年淡黄磁器焼成の法を案出し,それによって陶鶴を製作して明治26年(1893)のシカゴ世界博覧会に出品,一等賞の栄誉に輝いた。明治18年,はじめて砥部焼を清国へ輸出,その後,朝鮮,アメリカなど海外へも販路を求めて,砥部焼の国際的評価を高めた。浮穴郡・伊予郡陶磁器業組合取締,全国五二会愛媛支部陶磁業部長などを歴任,期界の発展に尽くした。明治37年その功績により緑綬褒章(勅定)を受けたが同年10月9日に61歳で没した。

 向田 助一 (むこうだ すけいち)
 明治33年~昭和41年(1900~1966)愛媛県における真珠養殖技術を習得し,事業化を進め,特に太平洋戦後の真珠養殖業の復興を図った。
 明治33年1月16日南宇和郡内海村大字内海444 (現御荘町平山)において父善太郎と母ミヤの四男として生まれる。父は小規模なちりめんいわしのひき網と農業を営み,助一も兄弟達とともにこれを手伝っていた。大正2年,南宇和郡御荘村長崎で小西左金吾らが設立した予土水産に小学校を卒業して間もなく就職し,走り使いなどをしていたが,これが助一を真珠に結びつけるもととなった。入社してから真珠養殖技術の一番の秘けつは「核入れ」にあると知り,県水産試験場の大月菊男技師の指導を受けながらこの技術習得に懸命な努力を重ね,ついには社内第一の挿核技術者となった。同社はその後集中豪雨によって大災害をうけて解散したのであるが,この漁場を引き継ぐかたちで平山の実藤道久,大月菊男らを中心に大正9年に設立された伊予真珠株式会社は本社と事業所を平山に置いて事業を始め年間2万貝を施術した。助一はここに技師長として迎えられ努力したが,真珠養殖業は事業としては成り立たず,この会社も数年後には倒産した。挿核してから製品に仕上がるまで4,5年もかかり真珠の価格の暴落もあり経済効率のうえから企業の採算に合わなかったからである。昭和3年長崎県大村湾在住の高島末五郎は伊予真珠株式会社の施設を買収し,向田助一を工場長として高島真珠株式会社を設立して年間5万貝を施術した。しかしここも再度の価格暴落により事業を閉鎖したので,この後を引き継ぐかたちで助一が事業を開始した。当時の会社経営はいばらの道であったがようやく軌道に乗ったと思うと太平洋戦争のぼっ発,頼みの輸出は中止され,国内需要も「ぜいたく追放」でとだえたので助一はまた家業の小網操業へと逆もどりしなければならなかった。昭和20年やがて終戦となり手持ちの真珠がブームに乗った。当時は占領軍の許可を要した真珠養殖業であったが飾り気のない誠実な人柄のため,県下で戦後最初の許可をうけることができ,昭和23年(1948)向田真珠が南宇和郡平城湾で竹ザオ20本の規模から真珠養殖を再開した。こうして戦後の愛媛県における真珠養殖業のリーダー的役割を果していったが,その誠実さと事業への先見性でむずかしい真珠事業の業績をのばしていった。昭和28年助一の長男純一郎に養殖場をまかせ,助一は神戸で製品の販売に当った。職人肌の人にありがちなへんくつさはなく,研究熱心に加え「蛸子」という俳号をもつ風流人であったほか,宮相撲では大関を張っていたなど多技多才な面も持ち合わせていた。本県真珠養殖業発展の先駆者の一人としての功績は非常に大きいものがある。昭和41年9月12日京都市上京区河原町通広小路において没,66歳。

 村井 俊明 (むらい としあき)
 安政2年~大正12年(1855~1923)教育者・漢詩人・歌人・国文学者。安政2年12月20日江戸芝街松山藩久松邸下屋敷に生まれた。幼名は木村数之進,10歳で藩御徒士村井家の養子となった。華亭または可談風月庵主と号した。
 明治元年(1868)藩校明教館に入り,同4年卒業,得業生の免状を得た。ついで近藤南洋,久米幹文,井手真棹らに漢文,国文,和歌を学んだ。明治7年(1874)武知五友の後を嗣いで岡田村(現松前町)上高柳の五松庵に居住,墨水学校の五等教官となり子弟を教育した。明治13年(1880)松山柳井町に居を移し,師範学校,旧制松山中学校に教鞭をとった。大正10年(1921)退職するまで47年間教職にあった。その間,明治19年(1886)文検制度が実施せられ,第1回の受験合格(国語・漢文・国史)者となった。資性剛直。清廉潔白,名利に恬淡として再度にわたる学習院赴任の要請も固辞して受けなかった。授業に臨んでは寛厳宜しきを得,烔々たる眼光,流暢な弁舌沸くが如き情熱を以てし,県立中学校では渡部正和,井手正邦と共に学徳の師三元老の一人として敬慕された。
 著書に上高柳五松庵在住中の習作『俊明詩文稿』があり,昭和29年,教えを受けた人々によって刊行された『華亭随筆』がある。俊明の随筆,紀行,和歌,漢詩,遺言,門弟らの追悼文を収録したものである。俊明の晩年は,風月を友とし,刀剣を愛し,詩歌を作り,庭内に小宇を造り,明治天皇,乃木大将を祀り,朝夕欽慕,礼拝を欠かさなかった。大正12年10月13日67歳で死没,墓碑は山越御幸寺にあり「可談風月菴明哲居士」は岩崎一高,御手洗忠孝,柳原正之の合作揮毫である。

 村井 知至 (むらい ともよし)
 文久元年~昭和19年(1861~1944)思想家・教育者・英語学者。文久元年9月19日松山藩士の子として生まれる。明治7年(1874)松山変則中学に入り英語を学ぶ。卒業後商業を志して三菱商業学校を中途退学し,商館の店員となったが,外国人との取引に英語が解らず,ミッション・スクール先志学校(横浜)に入学して第一歩からやり直した。その間にキリスト教に入信。のち同志社に行き新島襄の教えを受けて伝道界に献身。明治18年今治教会に赴任し,牧師伊勢時雄を助けて働き,当時滞在中の徳富蘆花と英語塾を開く。 22年渡米しアンドーバー神学校で神学を修め26年帰国,東京本郷教会牧師となる。日清戦争後再び渡米しアイオワ大学に社会学を学び30年帰国。ユリテリアン協会唯一館の説教者に転じ,翌年10月,唯一館を拠点に結成された社会主義研究会の会長となる。翌年,社会主義を公けにしてキリスト教社会主義を体系化した。その後社会主義協会,労働組合期成会にも関わってわが国社会主義の草分けとして活躍,34年社会民主党を作った。一方,明治32年東京外国語学校教授となり,大正9年勇退するまで語学の権威者として多くの英才を教育した。 31年本郷に第一外国語学校を創立し校長となったが,後援者の死によって廃校。のち逗子に退き月刊雑誌「蛙鼓」を発行し瞑想三昧の生活を送る。キリスト者,社会主義者,英語学者として広範囲の活躍をしたが,信仰ではユニテリアニズム(信独為一上帝宗)から「(父にょうに母)」を神とし,「予の宗教は○である」-わが宗教観一といった彼独自の宗教観を持っていた。昭和19年2月16日死去。 82歳。

 村井 保固 (むらい やすたか)
 嘉永7年~昭和11年(1854~1936)実業家・社会事業家。日本陶器創業者の1人で,郷里のため育英・慈善事業に尽くした。嘉永7年9月24日,宇和郡吉田町で藩士林虎一の次男に生まれた。幼名三治。明治2年村井家の養子となり,3年保固と改名,5年宇和島不棄学校に入り中上川彦次郎の指導を受けた。8年松山英学所に転じて助教を務め,10年校長草間時福のすすめで慶応義塾に入り,福沢諭吉を生涯の師とした。 12年福沢の斡旋で貿易商社森村組に入社して渡米,以後太平洋を横断すること90回に及んだ。ニューヨークで商路拡張に従事,19年アメリカ人キャロラインと結婚,37年1月大倉孫兵衛らと森村組を基幹とした日本陶器会社を創立した。同年肺結核のため療養を余儀なくされたが,再起後ニューヨーク支店長として純白硬質磁器の輸出に努力して,日本陶器の躍進に実績をあげた。大正6年洗礼を受け,正式にクリスチャンになった。 11年私財50万円を投じて財団法人村井保固実業奨励会を組織して育英慈善事業を開始,15年「故郷の苗床はよく注意して水を注ぎ,肥料を与えて立派に仕立てて行かねばならない」との考えで郷里吉田町の村井邸跡に幼稚園を設け,吉田病院設立にも資金援助した。昭和6年本間俊平らと吉田町を中心に南予一帯を福音して回った。同年渡米,10年帰国して入院,病床にあって20万円を資金に財団法人村井保固愛郷会をつくり,郷土の育英・社会事業に充てた。昭和11年2月11日81歳で没した。村井幼稚園・吉田病院に胸像が建てられた。
※ 吉田病院の胸像は、平成19年(2007年)に県立吉田高等学校内の吉田三傑資料室に移設(2020年12月10日生涯学習センター追記)

 村井 幽果 (むらかみ ゆうか)
 明治28年~昭和51年(1895~1976)大洲の歌人。本名は伊久馬。明治28年11月20日に生まれ,大洲中学校時代から作歌し,雑誌新聞に投稿を続けた。大正初年花田比露思の「潮騒」の会員となり,同10年「あけび」創刊にも加わった。大洲地方の歌壇の振興に努力し,師の比露思を大洲に迎えることも7度に及んだ。「あけび」の選者,海南新聞歌壇の選者となった。戦後は,菅根短歌会(近田冬載主宰)を継いで,川霧短歌会を主宰し,昭和27年「川霧」を創刊した。農耕に従いながら精力的に歌の指導をした。謙虚温容な人柄で,大洲町誕生の昭和8年には推されて町会議員も1期つとめた。『村井幽果遺歌集』がある。昭和51年6月25日,80歳で死没した。

 村上 市五郎 (むらかみ いちごろう)
 明治10年~昭和41年(1877~1966)漆器工芸家(沈金彫刻)。明治10年9月7日生まれる。江戸時代,桜井の人々は漆器を紀州黒江で買い入れて九州方面などで販売していた。しかし次第に桜井で漆器を製造,販売するようになる。明治に入り漆器の品質向上のため名人沈金師,高浜儀太郎を能登輪島より桜井に招く。儀太郎は沈金師の養成につとめ,村上市五郎は儀太郎に沈金法の技法を学んだ。こうして村上は,ぼかし彫りなど特殊彫りを考案,沈金の名人と言われ,桜井漆器の沈金師として,第一人者となる。竹や虎の図や菊の総彫りに見事な腕を発揮した。囲碁,書道,剣道を趣味とする。晩年,黄綬褒章を受ける。昭和41年5月16日,88歳で死去。

 村上 寛治 (むらかみ かんじ)
 天保14年~大正6年(1843~1917)村長,県会議員。天保14年8月12日,越智郡生名村で庄屋の家に生まれた。幼時より宇都宮龍山に師事した。 15歳で庄屋を継ぎ,維新期戸長を拝命,明治23年町村制施行と共に初代村長になるなど,創成期の村政を担い,堅実な善政を施き村民に敬慕された。明治21年3月県会議員に選ばれ,改進党に属して25年3月まで在職した。橙園と号して漢詩をよくした。大正6年5月23日73歳で没し,生名八幡宮に頌徳碑が建てられた。

 村上 杏史 (むらかみ きょうし)
 明治40年~昭和63年(1907~1988)俳人。明治40年11月4日温泉郡中島町に生まれ東洋大学卒業後,朝鮮木浦で新聞記者をする。昭和8年に高浜虚子と会い,同9年木浦で俳誌「かりたご」を主宰する。戦後,酒井黙禅らによる愛媛ホトトギス会,俳誌「柿」に加わる。同30年,ホトトギス同人となり,同36年に愛媛ホトトギス会長,柿主宰となり,組織の発展に尽力し,会員数を二百人から千五百人へと飛躍的に増大させた。同59年には松山市市民文化功労賞を受賞する。同62年には愛媛俳句協会会長に就任し,また同年,稲畑汀子の旗揚げした日本伝統俳句協会に加わり,同協会四国支部長となる。句集には「高麗」「玄海」「朝鶴」や手記『三千里』がある。本県の伝統的短詩型文学を率いたリーダーでもあった。昭和63年6月6日死去,80歳。

 村上 久米太郎 (むらかみ くめたろう)
 明治20年~昭和33年(1887~1958)軍人。明治20年12月3日,越智郡津島村(現吉海町)に生まれる。小学校卒業して農業をやっていたが,明治41年徴兵で,松山22連隊に入営し,以後18年間軍隊生活をし,大正14年,奉天守備隊員を最後に軍籍を離れる。のち旅順の矢原商会や関東庁,満州国国務院につとめる。吉林公省事務官時代,昭和9年8月30日,ハルビン発新京行きの夜行列車で暴徒の襲撃に遭う。乗合せた外人2人を含む9人が人質となり,監禁された折,救助の日本軍捜索隊のよび声に応じて「日本人ここにあり」と叫び,全員救助されたが,久米太郎は銃火を浴びて下あごと手首に重傷を負った。このニュースは世界をかけめぐり,犠牲的精神の発露として称賛され,国民的英雄となる。戦後は松山で波乱の生涯を終える。昭和33年1月26日,70歳で死去。

 村上 桂策 (むらかみ けいさく)
 嘉永4年~大正14年(1851~1925)県会議員,本県最初の貴族院多額納税者議員。新居郡郷村(現新居浜市)の豪農村上良三郎の長男に生まれた。漢学を修め政治に関心を持って早くから村会議員になり明治14年5月県会議員補欠選挙に当選,17年以降6期連続当選して23年8月まで在職した。この間,国会開設を前に大同団結運動が盛んになると工藤干城らと大同派東予倶楽部を組織して鈴木重遠らと気脈を通じた。勤倹質素を旨として祖先の財を守り更に所有地を拡大して23年の「貴族院多額納税者互選資格者名簿」では地租・所得税772円を納める川東地区屈指の大地主に成長した。この年9月の互選会で貴族院議員に選出され,30年9月までその職にあった。中央にあっては九条家・東久世家及び勝海舟・副島種臣らと交わり,地方では煙害問題解決に奔走するなどした。大正14年4月18日,74歳で没した。

 村上 桂山 (むらかみ けいざん)
 明治38年~昭和51年(1905~1976)易者。山口県の人で明治38年2月25日に生まれる。宇治の黄檗山万福寺で修行したのも,全国各地を放浪し,昭和12年ごろ松山市に来て街頭に出る。ねじり鉢巻にボロ着物で,易者として街にたたずむ。見料も安く,「10円易者」として市民に親しまれ,毒舌の中に温かい風格で松山の名物男になる。昭和51年11月18日,71歳で死去。死後,松山市二番町の歩道上に桂山地蔵が建てられた。

 村上 孝太郎 (むらかみ こうたろう)
 大正5年~昭和46年(1916~1971)大蔵官僚・参議院議員。大正5年6月19日,越智郡宮窪村(現宮窪町)で村上常太郎の長男に生まれた。祖父村上紋四郎は県会議長・代議士・今治市長を務めた。広島高等師範附属中学・第一高等学校を経て昭和14年東京帝国大学法科を卒業した。大蔵省に入り,主計官,企画庁・大蔵省官房長,主計局長とエリートコースを歩み,43年大蔵事務次官に昇進して44年8月退官した。激しい気性とずば抜けた頭脳で大蔵省内で〝村上天皇〟の異名をとり,次官当時主計局長澄田智(現日本銀行総裁),主税局長塩崎潤(現衆議院議員)と愛媛県出身者が大蔵省の首脳トリオを形成した。退官後は社会開発調査団長として欧米を訪問,経済問題などで全国を講演して回った。46年6月第9回参議院議員選挙に全国区から出馬,〝走れ,コータロー〟をキャッチフレーズに上位当選し,財政通として将来が期待されたが,直後の昭和46年9月8日55歳の若さで没した。同じく早逝した衆議院議員村上信二郎は実弟である。

 村上 五郎 (むらかみ ごろう)
 安政5年~昭和2年(1858~1927)蕪崎村長・県会議員・議長。安政5年1月6日宇摩郡蕪崎村(現土居町)で勤王の画家村上鏑村の長男に生まれた。明治7年16歳で家を継ぎ,村会議員となって村の指導的役割を果たした。明治30年10月県会議員になり,途中2回の中断をはさんで大正12年9月まで18年余にわたって県会議員に在職した。当初愛媛同志会(非増税派)に属したが後政友会に変わり,大正7年12月~8年9月には議長に選ばれた。その間,蕪崎村長に就任して蕪崎の築港や土居駅・蕪崎間の県道開通などに尽力した。昭和2年4月16日,69歳で没した。

 村上 信二郎 (むらかみ しんじろう)
 大正7年~昭和47年(1918~1972)内務官僚・衆議院議員。大正7年11月27日,司法官であった父村上常太郎の任地長崎県で生まれた。本籍越智郡宮窪町。第一高等学校を経て東京帝国大学法科に進み,学徒出陣して戦後21年卒業した。内務省に入り,香川県商工課長,警察予備隊本部長官秘書官,防衛庁調達補給課長・官房審議官を歴任した。その間アメリカ・ジョージタウン大学院に留学して,内閣総理大臣官房審議官を最後に退官して,42年1月の第31回衆議院議員選挙に本県2区から立候補,新人旋風を巻き起こして最高点で当選,44年12月の選挙で再選された。大蔵次官を務める兄孝太郎と〝賢兄賢弟〟と称えられ,共に将来が期待されたが,兄が46年9月の参議院議員に当選直後に急死したのに続いて,自らも昭和47年8月26日53歳の若さで没した。子誠一郎が61年7月から衆議院議員になってその遺志を継いでいる。

 村上 霽月 (むらかみ せいげつ)
 明治2年~昭和21年(1869~1946)実業家,俳人。明治2年8月9日,伊予郡垣生村今出(現松山市)で村上久太郎・ナヲの長男として生まれた。本名半太郎。別号に南陲野老・養堂処士・光風居・半山。明治19年松山中学校を卒業し,上京して第一高等中学校予科に進んだが,叔父覚之助の死去のため,明治24年中退して帰郷。家業を継ぎ,今出絣株式会社社長になる。その後,明治29年伊予農業銀行頭取,大正2年に愛媛県信用組合連合会を結成,組合長に推され,大正12年産業組合中央金庫の発起人の一人として評議員になり,また大正7年から昭和17年には産業組合中央会愛媛県支会の副会長を務め,農村経済の振興に尽力した。昭和17年愛媛県信用組合連合会と同購買販売連合会が合併,その会長理事となり,県下産業組合の総元締のさい配を振るった。戦時下,農業団体の再編成で,昭和20年愛媛県農業会が設立されたのを機会に隠退して顧問となる。霽月が明治26年,大阪出張の際,偶然にも『蕪村句集上編』を古本屋で購入,蕪村に傾倒した。後日,内藤鳴雪の句評がきっかけとなり,蕪村句集を鳴雪に貸す。子規もこれを読み蕪村への眼を開いた。鳴雪が東京でその下編を入手し,その写しを霽月に送った。こうした中で子規の俳人としての蕪村論が生まれ,それに啓発されて霽月も日本派俳人として成長し,明治26年霽月の句は「日本」文苑欄に掲載されはじめた。明治28年秋,子規は松山の夏目漱石の下宿「愚陀佛庵」で静養中にともに句会を楽しみ,霽月邸を訪ね,『散策集』など句稿を残し,霽月は根岸庵を訪ねた。明治29年,漱石・高浜虚子と神仙体俳句を創始。子規は「明治29年の俳句界」でその俳風を「雄健」と評した。同30年,霽月は俳誌「ほとゝぎす」に参加,選者となり,今出吟社を結成。愛媛新報の俳句欄の選者を務めるなど,俳壇で活躍。鳴雪・子規との出会いから,自らの心に潜む清純な気魄によって彼独自の俳風を育て上げた。大正4年には俳誌「渋柿」に参加。同9年から漢詩に俳句で唱和する「転和吟」を創始する。また昭和8年には絵に俳句を配する「題画吟」もはじめ「業余俳諧」を主唱し,俳句の伝統性に新生面を開いた。『霽月句集』全三巻。『霽月句文集』などがある。昭和21年2月15日76歳で死去。頌徳碑が今出の旧邸跡の近くに,胸像が農協会館(松山市南堀端町)の玄関に建立され,句碑が旧邸近くの三島神社や鍵谷力ナ頌功堂の庭にある。

 朝鵙に夕鵙に絣織りすゝむ 霽月

 村上 武吉 (むらかみ たけよし)
 生年不詳~慶長9年(~1604)戦国末期越智郡の海賊衆。はじめ掃部頭,のも大和守の官途を名乗るが,安房守を名乗った時期もある。掃部頭義忠の子。村上氏の嫡流は義忠の兄義雅の子宮内少輔義益であったが,武吉はこれと争って家督を継承したという。越智郡能高城(現宮窪町)を本拠とし,能島村上氏と呼ばれる。能島城は,伯方島と大島にはさまれた船折の瀬戸に面した海城で,今も郭跡や桟橋の柱穴の跡が多数残って往時の面影をとどめ,国指定史跡となっている。
 能島村上氏は,いちおう湯築城主河野氏に対して臣従の礼をとってはいたが,同じ海賊衆の因島村上氏や来島村上氏と比べると独立性が強い。安芸の毛利元就が陶晴賢を討った厳島合戦の際に毛利氏に味方して以来,同氏とのつながりが強くなったが,同氏から離反して豊後の大友氏に味方したこともある。天正13年(1585)に河野氏が滅亡して以後は小早川隆景の支配下にはいった。隆景が伊予から筑前国名島(現福岡市)に移封になった際にはこれに従って九州に赴き,筑前・筑後で3万5千石の知行地を与えられた。その後毛利輝元からも長門国大津郡,周防国南部に1万石の所領を与えられその家臣団の中にはいった。一時長門国大津郡,安芸国竹原などに住したこともあったが晩年は所領の周防国大島に住した。慶長9年(1604)8月同地で没し,法号を大仙寺覚甫元正という。 72歳であったという。墓は,知行地であった山口県大島郡東和町内入の元正寺墓地にある。子に元吉と景親があり,元吉が跡を嗣いだが,関ヶ原合戦の時伊予に侵入して加藤嘉明を攻めた際に戦死した。子孫は近世毛利藩の船手衆として重きをなした。武吉関係の多数の史料が山口県文書館架蔵の村上家文書の中に含まれている。

 村上 長次郎 (むらかみ ちょうじろう)
 嘉永6年~大正8年(1853~1919)実業家。嘉永6年10月16日木蠟製造業(現大洲市)の家に生まれる。幼名を保太郎と呼び若くして父を亡くす。その後孜々として家業に励み世間の信用を得るに至る。明治22年7月郡中銀行の増資に刺戟されて(旧)大洲銀行(資本金3万円)の創設に力を尽し36歳で初代の頭取となり地元の製糸資金の融通に貢献した。次いで48歳の時に第三代の頭取となり,さらに51歳で第五代の頭取を歴任するなど,銀行の在職期間は24年に及ぶ。かくて地元金融界で名を挙げた。また,町会議員,郡会議員,県会議員その他の公職をつとめ,地方自治の向上に尽くした。大正8年12月24日,66歳で没した。墓は寿永寺にある。

 村上 鏑邨 (むらかみ てきそん)
 文政5年~明治26年(1822~1893)画人。宇摩郡蕪崎村(土居町)に生まれる。諱は春哲。字は子保,通称十郎という。父は里正を勤めたが,勤皇の志士を助け,隠士として生涯を送ったといわれる。鏑邨は若くして京都へ出て中西耕石について南画を学ぶ。一方勤皇の画家であり天誄組の首領藤本鉄石と血盟を結び,討幕運動に加わるが,維新後は画道に専念し,鉄石と同じ勤皇画家篠崎小竹や貫名海屋らの影響を受けながら,池大雅,田能村竹田,中国の沈石田,米芾,文徴明らの絵に傾倒し模写の修業を重ねる。晩年は旅に明け暮れ全国各地を遍歴。 68歳の時旅先の兵庫県美方郡浜坂町の旅館で病死する。世評では伊予の双璧といわれた続木君樵や天野方壷より上位にあったと言われているが,独自の画風を作り出す手前で没したのは惜しまれる。他に二名州漁夫,愛涯墨雲などの別号かおる。明治26年2月17日71歳で死没する。墓は蕪崎の共同墓地にある。

 村上 天心 (むらかみ てんしん)
 明治10年~昭和28年(1877~1953)画人。明治10年2月12日,宇和島須賀通(現宇和島市御幸町)の豆腐屋の生まれ。本名は孝吉,天心と号す。一切の虚飾を捨て,生涯極貧の中に絵画,彫刻,漢学,禅林を極め,各分野で卓抜な才能を発揮。師を求めず,独自の画境を歩み,奇行に満ちた生涯を送る。宇和島,大阪,明浜,大分などに居住を変え,晩年は大分県杵築市安住寺で過し,昭和28年10月22日76歳で没す。その遺作は宇和島中心に南予方面に多く,同市西江寺の「閻魔大王画像」はよく知られている。また晩年の作は安住寺を中心に杵築地方に多く集中し,地域の人々に親しまれ,近年その再評価の声が高まっている。

 村上 徳太郎 (むらかみ とくたろう)
 慶応3年~昭和12年(1867~1937)篤農家。慶応3年2月9日伊予郡原町村大字川井(現砥部町)に生まれ,青年の頃より農作業に励み農業に熱心で,特に稲の改良に関心深く,明治23年秋稲の刈取りの際,自作田で栽培していた相生種の稲田に,ひときわ穂揃のよい生育良好な一株の変種を発見し,翌年その種子を大字七折中で試作した結果,優秀な特性(耐病性強く多収穫で栽培容易)を持つことが確認され,漸次地方に伝播して明治34年いらい「相徳」の名で呼ばれるようになった。相徳の命名者は,村上徳太郎から種子を分譲されて試作を続けた近隣の稲田万次郎で,原種である「相生」の相と発見者の徳太郎の徳をとったものである。村上徳太郎は,その功績により,明治百年にあたる昭和43年農林大臣から顕彰状が贈られ,また昭和45年に川井の郷戸により同公民間前に頌徳碑が建立された。

 村上 房太郎 (むらかみ ふさたろう)
 嘉永6年~大正4年(1853~1915)西条地区沿海一円において広島式女竹ひびによるのり養殖方法を試みた先覚者。嘉永6年10月17日西条藩西条陣屋町(現西条市東町)で父喜四郎の長男として生まれる。明治18年10月32歳のとき,房太郎はのり養殖の将来性に着目し,県からの区画漁業免許を得て個人経営により,氷見から船屋に至る西条沖一帯の浅海地域を利用して,広島式女竹のり養殖を近藤定吉を頭梁として県より免許を得て開始した。このうち,西条沖唐樋尻(朔日市の玉津に隣接するところ)では陸地より約50m沖合のところに幅約360m,長さ約140m位の漁場規模のものであった。各養殖漁場では相当量のりが収穫されたようであるが,従事者はすべて人夫を雇用しての経営であったことなとから,費用倒れとなり僅か3ヶ年で事業は中止せざるを得なくなった。のり養殖資材はその後竹簀(すだれ)式,やし網,クレモナ網等へ順次進歩したほか,のり胞子の付着原理や養殖の適正水位等の研究が大いに進み現在のような近代的養殖に発展してきたが,当時は乏しい知識をもとに試行錯誤していたものと思われるので苦難の時代であったといえる。大正4年4月26日61歳で没したが,たとえのり養殖は失敗に終わったとはいえ他に先がけてのり養殖研究に取り組んだことは特筆に値する。

 村上 万寿男 (むらかみ ますお)
 明治20年~昭和59年(1887~1984)教育者,俳人。壷天子と号す。越智郡大山村泊(現吉海町泊)明治20年12月1日に生まれる。父重松藤太,母マサの次男。明治42年同村余所国村上チカエの婿養子となり村上家を継ぐ。明治40年3月愛媛県師範学校を卒業,4月越智郡瀬戸崎小学校主席訓導(21才)を振出しに余所国小学校長・弓削小学校長・東伯方小学校長を経て,愛媛県師範学校代用附属余土小学校長(43才~52才)となる。人格高潔にして高邁,卓越した識見と才能をもって,本県教育界の発展向上に多大の功績を残す。又俳諧および書画をよくし,独自の芸風を拓いて,郷土の文化発展に貢献する。郷土教育・全村教育・公民館活動等を提唱し,多数の人材を育成する。師範学校で同校俳句会に入会,35才で「渋柿」同人,余土小学校時代村上霽月との交友を深める。 47才落葉荘に松根東洋城を訪ね,「いつくしめば叱ると聞ける寒さかな」の句に奮起する。句作に「鐘に籠る鐘のうなりや花曇」等多数。吉井勇・野間仁根・森光繁等交友が多い。 67才第一回個展を皮切りに,武者小路実篤・小川千甕との「寿老三人展」・「米寿記念展」・「新春吉祥九十六翁壷天子展」など個展開催11回。昭和37年愛媛県教育文化賞,昭和49年宮窪町名誉町民。昭和59年12月26日松前町の自宅で満97才の天寿を完うする。墓所,山越の市墓地。没後「生誕百年村上壷天子展」は,見る者に深い感銘を与えた。号,琅玕居・梧竹庵・壷中天童・壷天子。句碑は鹿島ほか十数か所にある。著書,句集
『綿津見』・『壷天子・画と書』ほか多数がある。

 村上 通康 (むらかみ みちやす)
 生年不詳~永禄10年(~1567)戦国期の越智郡の海賊衆で河野氏の重臣。はじめ右衛門大夫,のち出雲守の官途を名乗る。正室は湯築城主河野弾正少弼通直の女といわれる。野間郡来島城(現今治市波止浜)を本拠とし,いわゆる来島水軍の全盛時代を築いた。来島城跡には,今も数段に削平された郭,強固な石積,海岸の岩礁上に穿たれた柱穴などの跡が残っており,海の要塞としての面影を窺うことができる。
 天文年間,後嗣のいなかった河野弾正少弼通直は女婿の通康を嗣子にしようとして,予州家の通政を推す老臣だちと対立した。老臣たちは,通直・通康の拠る湯築城を攻めたてたので,通康は通直を背負って来島城まで逃れたという。結局通政を家督とし,通康を家臣の列にさげるかわりに,河野の姓と家紋の使用を許すということで妥協が成立したが,これ以後来島村上氏は河野氏に対して遺恨を持つようになったといわれる。弘治元年(1555)安芸国の毛利元就が陶晴賢を攻めたいわゆる厳島合戦の際,毛利氏を援けて大功をとげたといわれるが,これについては近年異説も出されている。永禄年間には,河野氏の重臣として平岡房実とともに多くの奉行人奉書を発している。三島家文書や高野山上蔵院文書の中に発給文言を見ることができる。
 永禄10年(1567)10月,病をえて湯築城中で死去した。法名は大雄寺殿前雲州太守洞屋了仙大居士,墓は北条市難波の大通寺にある。子に通之(幸)と通総があり,通之は得居家を嗣ぎ,来島村上氏は通総が嗣いた。通総は天正10年(1582)河野氏に離反してかねて誘いのあった羽柴秀吉のもとに走った。孫の康親の代に来島村上氏は豊後国玖珠郡森の地に移され,1万4千石の大名となった。

 村上 茂吉 (むらかみ もきち)
 生年不詳~文久2年(~1862)越智郡椋名村(現吉海町)の人。自ら商業で身を立てるにさきだち,はじめに桜井の漆器商に見習いとして住み込み,漆器の製造,販売法を学んだ。のち嘉永2年自ら帆船を仕立て,5~6人の売り子をつかって紀州黒江塗,京都塗などを仕入れて瀬戸内海沿岸を行商し,のち筑前沿岸,日本海方面にまで行商の足をのばした。商業を専業とする者がいない半農半漁の椋名の土地において茂吉の椀舟漆器行商は,この土地の歴史に特筆されるべき出来事である。まさに茂吉の行商はこの土地の行商の嚆矢であった。茂吉は文久2年8月5日死亡。椋名法南寺に葬られた。そめ養子は茂吉を名のり,先代の家業を受け継いで,瀬戸内海,北九州,山陰地方にまで行商の旅に出た。村上茂吉父子二代の開拓によって明治以降,椋名に漆器行商者が増えはじめ,島に現金収入の道が開かれた。明治初年,村上家のみで行商からの収益は年間3万円をくだらなかったと言われる。文久2年8月5日死去。

 村上 元吉 (むらかみ もとよし)
 生年不詳~慶長5年(~1600)戦国末期から織豊政権期にかけての越智郡の海賊衆。はじめ少輔太郎と称し,のち掃部頭の官途を有した。能島村上氏の統率者大和守武吉の嫡子。元の字は当時能島村上氏と強固なつながりを有した安芸国の毛利元就の一字をもらったといわれる。弟に景親がいる。父武吉とともに能島村上水軍を率いて活躍したが,天正13年河野氏が滅亡して以降は,小早川隆景,ついで毛利輝元の支配下にはいった。慶長5年(1600)9月関ヶ原合戦の際,東軍に属した松前城主加藤嘉明の留守をねらって,宍戸・曽根氏らとともに伊予に侵入したが,嘉明の家臣佃十成らの夜襲にあって三津浜(現松山市)で戦死した。時に48歳,法号を相玄寺実翁宗真という。跡を嫡子元武が嗣ぎ,子孫は近世毛利藩の船手衆として重きをなした。

 村上 盛一 (むらかみ もりいち)
 明治17年~昭和20年(1884~1945)明治17年9月4日東予市庄内旦之上の生まれで,明治36年県立西条中学校を卒業し,大阪実業学舘で1年簿記を修め,同38年山砲第11連隊に入隊。日露の役に出征,功により同39年勲八等を受く。かくして馬に深い関心を持つようになる。明治45年庄内村産業組合専務理事に迎えられ,産業振興に努めた。大正8年周桑郡愛馬会の会長に推されて,畜産奨励に生涯を捧げる発端ともなった。同年35歳で庄内村長に当選,以来6期24年を担当するが,その間1期を終え12年県会議員に初当選する。昭和3年周桑郡畜産組合長となり,さらに県畜産組合連合会副会長,同7年には帝国馬匹協会監事,12年同協会中央実行委員となる。18年に壬生川輓馬組合長および県軌馬組合理事に選任された。この間,村内に馬産改良クラブを結成し,先進馬産地より優良種馬の導入による産馬の奨励に中心的な活躍をすると共に,大正10年には念願の東予に種畜場を誘致する運動が稔って,愛媛県立庄内種畜場が設置され,さらに村内大野に高知種馬所大野種付所を開設するなど,県内最大の家畜改良増殖の拠点として畜産農家の大きな支えとなった。その後牛肉の需要の増大や牛耕が普及するにつれ,畜牛経営も盛んとなり,さらに肥育牛が奨励されるようになり,地域は県下有数の肥育牛産地となり,家畜の取引も頻繁となり,その公正取引を期するため家畜市場の整備に努めた。また昭和16年2月から19年3月まで農林省一般農産物価格協議会の畜産専門委員として,戦時統制下の家畜及び畜産物価格の設定に寄与するなど全国段階での功績も大きく,大正11年には大日本中央畜産会から功労賞,銀盃一組を贈られ,同15年には農林大臣より畜産奨励金を授与され,昭和3年には同じく農林大臣より馬匹奨励功労賞並びに銀盃一組を,同5年には大日本農会長から名誉賞状を,翌6年には農林大臣より畜産業務の精励に対し表彰状並びに白金時計を授与され,8年には陸軍大臣より地方馬匹調査に関し感謝状を贈られ,13年には農林大臣より馬事振興に対する功労賞および日本競馬協会からも馬事振興の功労に対し感謝状と銀盃を贈られ,14年に勲七等に叙され,19年には紺綬褒章を授与された。翌20年10月10日惜しまれながら61年の生涯を終えた。郷党相はかり輝く氏の恩恵,遺徳を偲び30年に庄内公民館前に頌功碑が建立された。

 村上 紋四郎 (むらかみ もんしろう)
 慶応元年~昭和21年(1865~1946)県会議員・議長,衆議院議員,市長。燧灘における水産業界並びに政界の功労者。慶応元年8月14日今治藩宮窪村(現越智郡宮窪町)で,農業を営み素封家の父伊勢吉,母リセとの長男として生まれる。小壮のころ広島県三原,城東中学を卒業した後,明治23年には25歳の若さで宮窪村村長に推され,同時に宮窪村漁業組合長を兼務した。明治26年越智,野間両郡漁業組合副頭取に当選し,28年森彦逸の後を受けて同組合頭取に就任した。さらに翌29年から35年の間愛媛県漁業組合連合会長を務めたのをはじめ,35年越智郡漁業組合連合会長,43年愛媛県水産組合長に選ばれ大正2年まで勤続した。また,県内のみならず全国水産業者大会委員長をはじめ,多くの水産業に関する諸々の要職につき,わが国水産業に貢献するところがきわめて大きいものがあり,このため国務大臣から数回にわたって表彰を受けた。氏は漁業調整の面でも大いに活躍したが,相当の負傷者まで出した明治27年の広島県の鯛縛網漁業等の燧灘漁場への大挙侵犯事件発生時には宮窪漁業組合長の職にあり,また越智,野間両郡漁業組合の有力者であったことから,この件について身命をかけて奔走し,抑留者の釈放に努力するかたわら,自ら船上に立って侵漁の監視に当たった。この事件は明治28年日清戦争後,朝鮮海峡にあじ,さば,たい,いわし等の豊富な漁場がみつかり,農商務省からの出漁指導もあったので,広島県漁民はその方面に多数出漁するようになり漸次下火となった。しかし毎年5月頃の鯛縛網漁業の盛漁期には広島,岡山,山口,香川等からの入漁を見たが,監視船により入漁料を徴収することによって問題はほとんど解決した。氏は大正2年燧灘漁場紛争解決後同3年燧灘漁場の権利者となっている沿岸18漁業組合を会員とする「燧灘漁業連合会」(私設団体)を組織して昭和11年までの長期にわたり,同漁区の保護育成の任に当たった。氏は政治家としても活躍したが,明治23年~大正13年12月までの間途中2ヶ年を除き30余年間宮窪村村長の職にあり,また明治44年より引きっづき8回県議会議員となり県議会議長も務めた。さらに大正13年より衆議員議員に3回当選するなどして国政に参画し,中央政界に確固たる地位を占め,民政党愛媛支部長として重きをなした。その後昭和8年8月より今治市長も務め,上水道施設の整備をはじめ地方自治に貢献した。氏は性豪胆,気宇広潤にして人からもよく慕われ,機に富み,変に応じて物事に対処する明快,決断,実行力に富んだ人であった。燧灘において数々の功績を残したが,昭和21年1月21日新居浜住友病院にて没,80歳。今治市は上水道功労者として昭和36年5月今治市馬越にある配水池に銅像を建立している。相次いで早逝した参議院議員村上孝太郎・衆議院議員村上信二郎兄弟は孫に当たる。

 村上 芳太郎 (むらかみ よしたろう)
 文久元年~明治42年(1861~1909)県会議員・衆議院議員・今治町長。文久元年3月4日,越智郡今治中浜町(現今治市)の商家に生まれた。中浜町・今治町会議員を経て明治19年3月県会議員になり,27年9月まで在職した。この間,高須峯造の勧誘で改進派に属して政治活動に参加した。 24年4月には初代町長阿部光之助の後を受けて町長に就任,26年2月まで在任して町政を担当した。明治27年9月の第4回衆議院議員選挙に改進党から推されて第2区から立ち,自由党の柳瀬春次郎を少差で破って当選したが,31年3月の第5回衆議院議員選挙で落選した。実業界では伊予綿布会社社長,伊予紡績会社常務取締役として今治綿業の発展に尽した。また今治米穀取引所創立委員長,四国鉄道創立委員長,東予汽船会社相談役,日本紡績連合会常務委員などの名誉職を歴任した。明治42年1月15日,47歳で没した。

 村上 義弘 (むらかみ よしひろ)
 生没年不詳 南北朝時代の武将。村上氏は,はじめ新居郡大島(現新居浜市)に拠り,のち越智郡大島を根拠地としたといわれる。正平20年(1365)河野通尭の苦境を救い,九州の懐良親王の征西府に帰順させるなど,終始宮方として活躍したと伝えられる。しかし,これらの活動を裏付ける確かな史料は存在せず,あくまで伝説の域を出ない。そのため,義弘の存在すら疑問視する説もある。なお,この義弘までで断絶した村上氏を,室町時代以降の村上氏と区別して,前期杜上氏とよぶ人もある。

 村上 竜太郎 (むらかみ りゅうたろう)
 明治25年~昭和39年(1892~1964)農林行政官,緑化運動推進。越智郡桜井村(現今治市)に明治25年1月4日生まれ,今治中学(現今治西高校)から六高(岡山)を経て,東京帝国大学政治学科を卒業。大正6年農商務省山林局に勤め,畜産・山林・馬政各局長を歴任,昭和25年から昭和39年まで14年間,国土緑化推進委員会常任委員長を勤めた。太平洋戦争後国土の荒廃を憂い,山林の緑化整備を国民運動にまで高めた。毎年行われる植樹祭,国土緑化大会をはじめ,「緑の羽根」募金,全日本学校植林コンクールなどを通じて行われる国土緑化推進運動の大きな原動力となった。
 また,「東予育英会」の会長となり,郷土の青少年を多く育成した。その他,農村法制研究会々長,農山漁村文化協会々長,全国治山治水財団理事長など各方面で活躍した。昭和39年7月31日,72歳で死没した。

 村瀬 武男 (むらせ たけお)
 明治12年~昭和34年(1879~1959)大井村長,県会議員・議長,衆議院議員。明治12年5月11日野間郡九王村(現越智郡大西町)に生まれた。広島修道学校に学び,兵役に従事した後,36年大井村助役に推された。 43年大井村村長に就任,昭和16年の間に前後6回選ばれて村政を担当,耕地整理・養蚕・果樹などの殖産興業に尽力した。大正4年郡会議員。同8年9月県会議員に選ばれ連続5期昭和12年まで在職した。その間,昭和10年12月から1年間議長を務めた。 12年4月の第20回衆議院議員選挙に第2区から民政党公認で出馬当選,17年4月の第21回選挙(翼賛選挙)で再選された。また,越智郡農会長・県農会副会長・越智郡畜産組合長・県山林会郡支部会長などの要職を歴任した。戦後,昭和29年10月今治市長に公選され1年余在任した。晩年は新居浜市に居を移し,四国産業会社社長として余生を送った。昭和34年2月3日,79歳で没した。

 村瀬 宣親 (むらせ のぶちか)
 明治35年~昭和41年(1902~1966)衆議院議員。明治35年1月25日,越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれた。今治中学校を経て神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学したが中退。今治市役所に入り,産業・土木課長などになり,かたわら政治にも関心をもって村上紋四郎ら民政党を支援した。戦時中中国に渡り山東省青島港建設事務所会計課長などを務め,戦後今治へ引き揚げた。昭和22年4月。の第23回衆議院議員選挙に松村謙三らの新しい保守主義に共鳴して民主党から立候補当選,24年1月の選挙で再選された。 27年10月の選挙では県内で勢力基盤の弱い改進党に属していたこともあって落選したが,28年4月の選挙で返り咲いた。その後も〝清潔な政治〟の理想をかかげて戦い,30年2月の選挙で落選,33年5月の選挙で当選したが,35年11月の選挙以来落選が続いた。国会では,党青年遊説部長や経済企画庁・法務政務次官などを歴任した。昭和41年12月13日,64歳で没した。

 村田 蔵六 (むらた ぞうろく)
 文政7年~明治2年(1824~1869)幕末,維新期の政治家,軍政家。文政7年3月10日,町医師藤村孝益,村田梅の長男として,周防国吉敷郡鋳銭司村(現山口市鋳銭司)に生まれ,村田家を嗣いた。幼名を宗太郎,長じて良庵(亮庵),蔵六と称し,慶応元年,長州藩主毛利敬親の命によって大村益次郎と改めた。諱は永敏。緒方洪庵の適塾に学んで医者を開業したが,嘉永6年,宇和島藩主伊達宗城に招かれ,同藩において兵書の翻訳,蘭学の教授,砲台築造の研究などにあたった。また,藩命によって軍艦建造に従事し,細工師嘉蔵(前原巧山)らの協力により,その雛形作成に成功し,宗城が乗船して試運転が行われた。2年余の宇和島在住の後,安政3年,宗城に随行して出府し,その推挙によって,幕府の蕃所調所教授方手伝,講武所教授となり,一方では,幕府御抱えのヘボンなどについて英学の研究にも精進した。万延元年,出身地の長州藩に帰り同藩士となったが,その間の宇和島藩在籍は7年に及んだ。長州藩においては,第1次,2次長州征討,馬関戦争などに際して軍政の中枢として活躍した。維新政府に出仕後も軍政事務を担当し,明治2年兵部大輔となって近代的軍制の確立を目指したが,京都において守旧派の暴徒に襲われて負傷,同年11月5日死去した。享年45歳であった。郷里の鋳銭司村に葬られた。

 村松 恒一郎 (むらまつ つねいちろう)
 元治元年~昭和15年(1864~1940)言論人,衆議院議員。元治元年4月24日,宇和島城下笹町で士族村松喜久蔵の長男に生まれた。宇和島市長山村豊次郎は実弟である。末広鉄腸を頼って上京,国会新聞ついで大阪の関西日報・東京朝日新聞の記者で生計を立てた。早くから国政への志を持っていたが,なかなか果たせず,明治41年5月の第10回衆議院議員選挙に,郷里愛媛県郡部選挙区で憲政本党から立候補して初当選した。この時,すでに44歳に達していた。45年5月の衆議院議員選挙では次点に甘んじ,大正4年3月の選挙でも落選した。その間,所属する国民党が分裂して,同派代議士の多くは立憲同志会に走ったが,本県で唯一人国民党に留まり孤高の政治家といわれた。大正6年4月の第13回衆議院議員選挙に国民党公認で再度挑戦,最高点て当選して代議士に復活した。しかし,9年5月の選挙では再び落選,この前後に犬養毅・尾崎行雄らと普選運動を従事し,その最初の普選である昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙に当選して国会に返り咲き,次の5年2月の第17回選挙でも再選された。7年2月の第18回衆議院議員選挙には弟の山村豊次郎が政友派から推されて立ち,民政党に属する村松との兄弟対決かと騒がれたが,恒一郎は老齢を理由に立候補を辞退して弟に座を譲った。常に貧乏候補で選挙ごとに辛酸をなめたが,正直で物ごとにこだわらない壮士風の肌合いが多くの人々に愛され,個人的人気を支えた。昭和15年6月5日76歳で没した。東洋大学文学部長を務めた詩人の村松正俊は長男である。

 村松 春太郎 (むらまつ はるたろう)
 明治23年~昭和34年(1890~1959)果樹栽培技術の卓越した指導者であり,柑橘優良品種の選抜に多くの事績をあげ,共販組織の育成にも尽くした。明治23年3月静岡県引佐郡都田村都田に生まれる。明治43年農商務省農事試験場を卒業,同試験場園芸部勤務,大正2年11月より三重県桑名町徳森農園主任,大正4年12月本県宇和柑橘同業組合に着任,2年在職の後鹿児島に迎えられ,柑橘栽培の振興に当たっていたが,大正13年7月再び宇和柑橘同業組合技師として着任,果樹栽培指導ならびに共販組織の確立に奔走し,昭和4年宇和蜜柑販売購買組合(産組法による広域法人)の設立に参画した。昭和8年愛媛県農事試験場南予柑橘試験地(翌年南予柑橘分場となる)が設置されるとともに初代分場長として,以後15年間にわたり多くの事績を残した。特にウワポメロの発見や,温州ミカンの優良系統である南柑20号,南柑4号の選抜者として知られている。品種改良面では,台木(中間台木を含む)の研究,小根占台本の育成を手がけた。昭和23年静岡県に帰り,余生を浜名湖畔に送る。同32年愛媛ミカンの名声と,南予柑橘生産者の受けた恩恵を感謝して,果樹試験場南予分場に胸像ならびに頌徳碑が建立された。昭和34年5月30日没。

 室 孝次郎 (むろ こうじろう)
 天保10年~明治36年(1839~1903)明治期の県知事・政治家。天保10年9月14日,越後国高田の富商市郎右衛の子に生まれた。倉石侗窩の門に学び,勤王の志を抱いて慶応2年京都に上り広く志士と交わった。戊辰戦争には北陸道官軍御用掛に任ぜられ転戦負傷した。明治3年高田藩校修道館助教,8年彌彦神社宮司,11年高田中学校長,12年郡長となり,14年辞して信越鉄道の敷設を計画した。改進党が結成されると上越立憲改進党を興し,23年7月の第1回衆議院議員選挙に当選以来連続して国会議員であった。進歩党に所属して,29年9月の松隈内閣の成立で与党となった同党を代表して,明治30年4月7日愛媛県知事に就任した。藩閥官僚知事が相次いだ本県に,初めて迎えた政党知事であった。室知事の在任中,本県では郡制に続いて30年10月1日から府県制を施行した。これに伴い県会議員選挙が行われ,これまで少数党であった進歩党系愛媛同志会が自由党を圧倒した。政党知事の県政与党が勝利に結びついたのであったが,大隈重信の外相辞任に従って11月13日付で依願退官して,県会で1度も県政方針を述べることかく僅か7か月にして本県を去った。 31年8月隈板内閣の成立に伴う第8回総選挙で再び衆議院議員に復活,35年議員を引退し,憲政本党頚城支部長となった。明治36年6月21日,63歳で没した。