データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 三浦 謙次郎 (みうら けんじろう)
 明治18年~昭和15年(1885~1940)教育者。明治18年1月7日和気郡堀江村(現松山市)三浦勝太郎の三男として出生。同38年3月愛媛県師範学校卒業,同年4月温泉郡鴨川高等小学校訓導,同43年4月温泉郡堀江小学校校長となる(25歳)。大正8年6月愛媛新報に『夜昼峠に立て』と題して,当時は第一次世界大戦の影響で,経済の不況に伴って教職員の生活が窮乏している実情を温泉郡町村長会に対して訴える文章をのせた。松山高等小学校校長久保儀平らも,県ならびに市町村に,全国師範学校校長からも文部省や県に教職員の待遇改善を要望した。その後,改善の方向に動いた。大正9年4月温泉郡道後小学校校長となり,同11年秋皇太子行啓に際し,道後公園グランドで温泉郡各小学校児童の遊戯「椿」の指揮をした。この年道後祝谷に総合グランド建設に尽力した。同12年4月再び温泉郡堀江小学校校長,同15年4月温泉郡三津浜小学校校長となり,昭和6年3月,三津浜第一高等小学校校長を退職。昭和15年8月28日,55歳で死去。松山市立堀江小学校に三浦謙次郎の胸像と次の銘文がある。「相逢相契語人生 朴学童心無限情 椿戯瓢歌猶在眼神交不礙隔幽明 憶亡友三浦謙校長 老学正篤」(昭和51年3月建之)

 三浦 為国 (みうら ためくに)
 生年不詳~寛永13年(~1636)清満村颪部(現津島町の颪部)の開拓者。初名平次左衛門のち修理。と称す。慶長19年(1614)大坂冬の陣から宇和島藩初代藩主となる伊達秀宗に軽輩として仕える。慶長20年宇和島に入部する秀宗に従い,これまで政宗に仕えていた子息為信(太兵衛)と共に宇和島に来る。元和4年(1618)には4人分4石を支給されている。為信は寛永12年(1635)200石を支給された。為国が颪部の開拓を手がけ,その死後為信が秀宗の命もあり家人を率いて80石の田地を開拓した。寛永18年秀宗より朱印をうけ,颪部は代々三浦氏の知行地となっている。為国は寛永13年10月18日病没し同地に葬られ,開拓に従事した6人の家人はここに永住した。以後,颪部では為国の命日である10月18日を例祭とし,今日に至るも宇和島に住む三浦氏を招いて祭事を行っている。法名,即空浄心居士。

 三浦  安 (みうら やすし)
 文政12年。~明治43年(1829~1910)西条藩九代頼学・十代頼英時代の藩士,のち和歌山藩にうつる。通称は光太郎・休太郎・五助,号は香瀾・雨窓・雷堂。内田敬之助とも称した。小川武貴の庶子として生まれ,のち母方の三浦氏を継いだ。 21歳のとき江戸に出て山井崑崙,安井息軒らに学び,また昌平黌に入って5年間修行。帰郷してからは,西条藩郡奉行として10年間勤務した。幕末に際して徳川将軍継嗣の問題が起こった時は,彼は紀州侯家茂の立嗣に就いて尽力し,やがて西条藩の宗藩である和歌山藩籍に入り,朝廷と幕府間の周旋役として奔走した。慶応3年4月土佐海援隊坂本竜馬の借用した(伊予大洲藩の持船)いろは丸が和歌山藩船と衝突して沈没したとき,和歌山藩が賠償金を払うということで決着がついたが,同年11月の新撰組による坂本龍馬の暗殺は安の策略であろうとの風説がたち,京都の旅館で海援隊士に襲われて負傷した。明治元年将軍辞表問題に関して一時禁固に処せられたが,明治3年藩政参与・同4年和歌山藩少参事となり,次いで大蔵省,左院(四等議官)などに奉職し,同8年内務省(内務権大丞)などに出仕し,修史監大丞にもなった。明治15年に元老院議官となり,23年貴族院議員,のち東京府知事などを経て宮中顧問官となり,従二位勲一等に叙せられた。明治43年12月11日,81歳で死去,墓所は東京都港区赤坂青山墓地。

 三上 是庵 (みかみ ぜあん)
 文政元年~明治9年(1818~1876)松山藩士,崎門派儒者。文政元年6月に藩士三上清武の子として松山に生まれた。名を景雄,通称を新左衛門,号を是庵といった。好学の人で,年13歳のころには近思録・文選等を読破していたという。 17歳の時,明教館教授の高橋復斎や村田箕山について朱子学を修めたが,翌年藩命によって江戸に遊学し,崎門派の西川楽斎について精進した。是庵は翌年帰松して,藩に出仕した。しかし彼は青雲の志を抑えることができず,年26歳の時,藩を辞して東上した。やがて彼は崎門学を奥平栖遅庵について研究した。このころ梅田雲浜・吉田松陰らと往来して時局を論じた。その後彼は綾部藩の九鬼氏に,また田辺藩の牧野氏のもとに儒臣として仕えたが,慶応3年(1867)2月に辞去して松山に帰った。彼の名声が高かったので,藩の要職にあった藤野正啓は,彼を藩主松平定昭の顧問とした。王政復古ののち,慶応4年1月戊辰の役がおこり,松山藩は旧将軍徳川慶喜に親しかった関係から,朝敵の汚名のもとに討伐をうけることになった。正啓らは是庵を三之丸に迎え,新政府に対する態度を協議した。この時,是庵は恭順論を主張し,藩主父子は城を出て謹慎すべきことを勧めた。その結果,藩主らは常信寺に入って謹慎の意を表したので,土佐藩兵が松山藩領に進駐した時も,何らの事変もおこらなかった。明治4年(1871)彼は三上学寮と称する私塾を開いて,後進の指導に当たった。同9年12月に年58歳で病没し,宝塔寺に葬られた。

 三神 仲太 (みかみ ちゅうた)
 安政3年~昭和12年(1856~1937)地方政治家。松山市助役。安政3年5月1日萱町に生まれる。明治10年,学区の世話係になったのをはじめ,第13大区47小区組頭兼戸長補助や松山市街西組用係,松山市街第7組戸長,温泉郡魚町3丁目外27か町戸長を歴任する。同23年,市会議員に当選するが,3か月で退職して松山市の書記となる。同29年収入役に就任,同33年助役に就任して大正9年任期満了まで実に20年あまり助役を続け,松山市政の生字引と称せられた。昭和12年5月8日死去,81歳。

 三木 左三 (みき さぞう)
 文政6年~明治2年(1823~1869)医師,勤皇家。宇摩郡蕪崎村(現土居町)医師三木良平の子として生まれた。幼名を宗吉と呼んだ。 13歳で医師の叔父を頼って大坂に出る。薬舗等の使丁として働いたが帰郷した。 16歳で再度大坂に出る。程なく紀州に移り,名医華岡氏の塾に入って医学を修めた。21歳のとき父が亡くなったため,帰郷して父の医業を継いだ。安政2年33歳のとき,新居郡垣生村(現新居浜市)に移る。当時幕府が開国に踏み切ったことから,尊王攘夷論が払底した。左三は早くからこの方面に関心を持っていた。文久3年の政変・七卿落ち,そして生野の変で倒幕計画は失敗した。このとき倒幕の首班に挙げられたのが沢宣嘉であった。沢卿はいち早く伊予に逃がれ,左三はこれを入院患者に装ってかくまった。翌年元治元年尾崎山人(宇摩郡北野村)ら在郷の同志と共に馬関(現下関)に護衛した。応3年10月大政奉還が実現するや直ちに上洛し,沢卿不在中は留守宅を守り,翌年帰還してからは執事を務めた。また鳥羽・伏見の戦には,薩長予備軍の密使を務めるなどの活躍をした。明治2年沢卿の東京転居を前にして,多忙が原因で遂に病臥することになり,同年7月27日没した。明治36年特旨をもって従五位を贈られた。

 三品 容斎 (みしな ようさい)
 明和6年~弘化4年(1769~1847)西条藩の儒者。高橋甚内の次男として宇摩郡小林村(土居町)に生まれる。諱は崇,通称隆甫・宅平,容斎と号した。近藤篤山の実弟で,西条藩士三品為道(茂林)の養子。『西条誌』の編者日野和煦は義兄に当たる。6歳の時家が破産して,父甚内は別子銅山に勤務することになったが,容斎は学問の道に進み,天明8年上坂して苦学しながらも尾藤二洲に師事した。帰郷後は西条藩校択善堂の教授となり,江戸では六代頼啓・七代頼学の侍読として重用された。彼は約50年にわたって藩士の教育に携わり,その功績を評価されて馬廻組頭格となった。これは儒者としては破格の厚遇であった。弘化4年8月20日,78歳で没し,西条町の古御堂に葬られた。

 三島 春洞 (みしま しゅんどう)
 慶応3年~大正10年(1867~1921)僧侶。慶応3年越智郡宮浦村(現大三島町)に生まれる。青洲,墨禅とも号した。壮年上京,曹洞宗の大学に入学,のち郷里の人達に懇望されて帰郷し大通寺の住職となる。書は長三州に学び「薬屋五兵衛彰徳碑」ほか島内各所に明快暢達な筆蹟が残されている。大正10年1月19日,54歳で死去。

 三島 安久 (みしま やすひさ)
 大正4年~昭和57年(1915~1982)神官。越智郡大三島町生まれで,大山祇神社宮司。国宝の島と呼ばれ,日本総鎮守とよばれる大山祇神社は,越智郡大三島にある。その八十代目の宮司である。三島は大祝家の四十八代目でもある。大祝とは,神社に奉仕して,祭祀に当たる神職のひとつ祝の最上位者を意味する。大山祇神社は最高の神官で,代々この大祝職を出す一族を大祝家といったが,江戸時代に大祝姓を三島と改めた。地元の宮浦小学校卒業後上京,日本中学をへて国学院大学史学科を出る。卒業後,内務省の神社局に勤め,群馬県貫前神社,神祇院考証課,明治神宮などをへて昭和17年大山祇神社に帰り宮司となる。大山祇神社には,建造物,神像,武具類,美術工芸品,古文書等の文化財が多く所蔵され,とくに鎧兜は全国の国宝,重要文化財の8割を占めるといわれている。
 これらの民族の遺産と伝統を守る宮司の責任は大きい。特に終戦直後の混乱期には,占領軍に没収されないよう,宝物をひそかに地中に埋め隠すなど苦労をしたようである。大山祇神社の宮司以外にも,県神社庁長や神社本庁理事,県文化財保護協会理事,大三島海事博物館理事長など要職を兼ねる。昭和57年10月31日,67歳で死去。

 三瀬 俊蔵 (みせ しゅんぞう)
 慶応4年~昭和11年(1868~1936)大谷村長・県会議員。慶応4年8月27日,喜多郡大谷村(現肱川町)里正三瀬通綱の三男に生まれた。明治35年~大正7年大谷村長を務めて村政を担当,畜牛の改良発展に尽力した。明治44年9月~大正4年9月県会議員に在職して政友会に所属した。大正11年再び大谷村長に選任された。昭和11年12月15日,68歳で没した。

 三瀬 甚一 (みせ じんいち)
 慶応元年~大正6年(1865~1917)双岩村長・地方改良功労者。慶応元年12月8日,宇和郡若山村(現八幡浜市)で生まれた。 19年小学校授業生,20年若山村外4か村戸長役場用係,23年双岩村書記,26年同村収入役,34年同村助役を経て,38年2月同村長に就任,42年まで在任した。多年の役場勤めの経験により諸般の事務に精通,至誠をもって事を処し,里道の改修,勤倹貯金組合の設置,学校記念林の造成など公共事業に尽力した。明治42年第1回地方改良功労者として県知事表彰を受けた。大正6年3月10日51歳で没した。長男三瀬利孝も昭和12~18年双岩村長を務めて,村勢の伸展に貢献した。

 三瀬 諸淵 (みせ もろぶち)
 天保10年~明治11年(1839~1878)蘭医。天保10年10月1日大洲中町の塩問屋麓屋半兵衛の子として生れる。幼名弁次郎,後に周三,字は諸渕。母は蘭医二宮敬作の姉。5歳で百人一首を諳んじ,9歳で四書の素読を受け,14歳で古学堂に入門,常盤井厳戈から古道の講義を受けて立志。安政2年17歳の時卯之町で開業していた叔父に蘭医学を学んだが,藩医となった叔父に伴われて宇和島へ移り,村田蔵六に入門し蘭学を学んだ。翌年叔父の長崎での開業に同行し,助手を勤めるいっぽう川島再助に入門し蘭学を研鑽した。同5年長崎から大洲に帰郷した際,持ち帰った電信機械の実験をしてみた。恩師常盤井厳戈の協力を得て,古学堂と肱川畔の川水亭との間に銅線を架設して,実験に成功した。我が国では最初のことであった。翌6年長崎へ行き,再来したシーボルトに2か年余教えを受け,シーボルト最後の弟子となった。この間に日本文典の蘭訳・日蘭英仏対辞典,日本歴史の蘭訳等の訳書を著し,わが国洋学界に貢献した。シーボルトが幕府の懇請により外交顧問に就任した際,弟子の諸淵を通訳に推薦し成功した。しかし,文久元年外交の機密を漏らしたと誤解され,4か月間投獄されたが,出獄後大洲藩に召し抱えられた後,28歳で宇和島藩の3人扶持下士に登用され,松根家老の司式でシーボルトの孫娘高子と結婚した。明治元年大坂に医学校兼病院を開設したが,翌年政府の命により大学小助教となった。同4年政府が東京医学校を創設した時,文部中助教となった。同7年には東京~横浜間の鉄道敷設に関係したことで,土木寮出仕となり,同10年には大坂病院一等医を拝命したが,翌11年10月29日,39歳の若さで没す。大洲大禅寺に墓がある。

 三並  良 (みなみ はじめ)
 慶応元年~昭和15年(1865~1940)牧師,哲学者。漢学者歌原邁の子として慶応元年10月13日松山城下湊町(現松山市)に生まれる。正岡子規の母の従弟。幼少の頃から子規とは兄弟の如く,大原観山塾へも共に通った。五友の一人。松山変則中学校で草間時福のもと自由民権の気風を養う。県立医学校に転じ,明治16年上京。独逸学協会に入りドイツ普通福音新教伝道会宣教師W・シュピンナーの感化を受け,20年新教神学校に入学,同年有志とともに普久福音教会の設立に参加。機関紙「真理」の編集発刊に当たる。 24年,壱岐坂(上富坂)教会牧師となったが,33年同派から離れ,日本ゆにてりあん協会機関誌「六合雑誌」の編集に加わり,同協会牧師となる。自由キリスト教の立場から,聖書を相対的,合理的,歴史的,批判的に解した。大正8年(1919),松山高等学校創立の際,第一高等学校から転任し第二代教頭となる。 12年病気退職まで,優秀な語学力と豊かな学殖で生徒を指導した。その間,万国自由宗教大会に出席し世界的な評価を受けたが,半身不随の晩年18年間は,闘病しながら月刊誌「信仰の真理」を出版し続けた。主な著書に『日本における自由基督教と其先駆者』(昭和10年刊)がある。昭和15年10月27日死去。75歳。

 三宅 棹舟 (みやけ さおふね)
 文政7年~明治20年ころ(1824~1887ころ)俳人。宇摩郡土居村(現土居町)の人で,名は利平,康正という。号は柳泊園と称し紺屋を業としていたが,のち県会議員にもなる。地方の宗匠として門人多く,「俳諧花の曙」「ままひろい」「山城名勝風月集」などに好句を残す。 63歳で死去。

 三宅 千代二 (みやけ ちよじ)
 明治33年~昭和58年(1900~1983)郷土史家。宇摩郡土居町土居三宅三木蔵次男として明治33年1月4日出生。文部省図書館職員養成所(現・国立図書館大学)卒。昭和12年県立図書館に入り,同28~35年同館長を勤める。米軍接収解除後の図書館の整備拡充に貢献,約3000点の俳諧文庫の収集に意を注ぎ,図書館の諸資料目録などの編集のほか県史編纂委員長として,旧版「愛媛県史」及び「愛媛県編年史」の編集を達成。「愛媛文化」なるパンフレットを主宰刊行。晩年病床にて明治初期県政の研究に努め,『愛媛県各藩沿革史略』『愛媛県郷村変遷史』『愛媛県と近代国家の成立』などをまとめて出版する。在任中から郷土資料の保存に献身し,郷土考古資料館の構想をもち,収集品は現在松山市立東雲小学校資料館にその一斑を見ることができる。昭和58年12月26日没, 83歳。

 三宅 芳松 (みやけ よしまつ)
 慶応4年~昭和19年(1868~1944)郷土史家。慶応4年2月19日宇摩郡豊岡村大町(現伊予三島市)で出生。号自得。明治16年愛媛県師範学校卒業。小学校訓導,校長を経て,同25年宇摩郡書記,同33年愛媛県属・学務課社寺兵事課長,定年退職後大正8年,伊予史談会会計幹事を務めると共にこの間に「神武天皇御東遷と伊予」「続木君樵小伝」「黄蘗千秋寺小史」などを「伊予史談」に寄稿。また積極的に県下ことに東予地方の歴史的研究に意を用いて斯界に貢献したことが「伊予史談」中に見える。昭和19年12月没,76歳。

 三宅 良治 (みやけ りょうじ)
 安政4年~大正5年(1857~1916)土居村長・県会議員。安政4年5月2日宇摩郡土居村(現土居町)で生まれた。明治9年大区会議員,10年5月特設県会議員に選ばれた。 12年宇摩郡役所書記になり,15年8月~17年県会議員に在職し,また天満村外1か村戸長に任ぜられた。 23年2月合田福太郎の後任で土居村長に就任,以来大正初めまで任を重ねて町政を担当,村内融和に意を用い,小学校建築や山村の植樹を励行した。その間,23年2月~27年3月再度県会議員に在職した。大正5年7月7日,59歳で没した。

 三由 淡紅 (みよし たんこう)
 明治12年~昭和34年(1879~1959)俳人。明治12年2月12日風早郡北条村(現北条市)に生まれる。名は忠太郎。5歳で父と死別し,15歳で今出絣株式会社に店員として入る。同社の頭取村上霽月から毎夜『日本外史』などの講義を受け,やがて俳句の手ほどきを受けた。日露戦争に出征し,帰国後は絣仲買いを生業とする傍ら,句作と鹿島の開発に力を注いだ。鹿島の難所に橋をかけたり,周遊道路の足がかりを私財を投げうって取り組んだ。俳人仲間から「鹿島探題」「鹿島狂」といわれるほど,鹿島開発に打ち込んだ。昭和34年10月20日死去,80歳。

 三好 応山 (みよし おうざん)
 寛政4年~嘉永2年(1792~1849)絵師。宇和島本町の代々町頭役紺屋頭取の家に生まれる。本名は三郎兵衛,応山と号す。幼時から絵を好み,家業のかたわら土佐派の春日鉄山について絵を習い,自ら京風の画工をもって任じ,藩の求めにも応じ風土派を形成する。二子があり長男に家督をつがせ,次男又八郎(号応岸)に画業をつがせ分家させる。応山・応岸の作は多く残っているが,宇和島の伊吹八幡神社の「高砂図」「神功皇后図」などの絵馬が知られている。

 三好 国輝 (みよし くにてる)
 享保9年~寛政2年(1724~1790)松山藩の刀匠で,本名は久太郎,父は村井清次郎でその次男である。代々三好家は松山藩の刀匠として10石3人扶持をうけ,藤四郎を名乗り襲名した。国輝は九代目で和泉大橡に任ぜられた。寛政2年10月12日66歳で没す,墓は松山市来迎寺にある。藤四郎の初代長国は山城の刀匠長谷部国信十代の孫で三好藤四郎の初代を名乗り,加藤嘉明に隨従して来松したもので十三代まで続き,国輝を称するものも数多く,和泉大橡または陸奥大橡に任ぜられる。

 三好 計加 (みよし けいか)
 明治29年~昭和21年(1896~1946)画人。明治29年1月9日温泉郡道後湯の町(現松山市道後湯之町)に生まれる。北予中学校(現松山北高校)在学中から水彩画が得意で卒業後東京に遊学。ほとんど独学で修業。大正8年(1919)愛媛洋画の揺藍期にグループを結成,扶桑会展を開催する。昭和3年牧田嘉一郎らと青他社を結成,さらに松山洋画研究所を主宰し後進の指導に当たる。大正12年の伊予美術展,昭和2年の愛媛美術工芸展の企画・運営に参画するなど郷土洋画の発展に尽した功績は大きい。第2回国際美術展・春陽会展出品の初期の作にはフォーブ的表現が多く,後期の作は牧歌的簡潔な筆致で詩情をただよわせる作が多い。瓢々とした風貌と人間味で「道後の仙人」と呼ばれ大勢の人々から親しまれた。昭和21年11月17日,50歳で死没。

 三好 庄太郎 (みよし しょうたろう)
 明治21年~昭和32年(1888~1957)湯山村長・県会議員。明治21年2月23日温泉郡湯山村食場(現松山市)で生まれた。村会議員・郡会議員になり,政友会に属して政党活動に従事した。昭和9年5月県会議員に当選して14年9月まで在職,16年9月補欠選挙で再び県会に返り咲き,21年10月まで在職した。昭和13年湯山村長になって戦時下の村政を担当,大政翼賛会温泉郡支部長にも就任した。昭和32年9月29日,69歳で没した。

 三好 竹陰 (みよし ちくいん)
 文化12年~明治22年(1815~1889)医師。宇和島の藩医であり能書家でもあった。名は周伯,順庵と称したが,のち順風と改めた。幼少のときから書が巧みで,南昌老公(伊達村寿)が彼を召して揮毫せしめ,激賞したという。医師としてより書家として有名になり,竹陰の使い古した大小の筆を埋めて筆塚をつくることが,左氏珠山ら雅人によって計画され,土居通夫らによって宇和津彦神社の境内に建てられたという。明治22年12月24日死去,74歳。

 三好 風人 (みよし ふうじん)
 明治18年~昭和3年(1885~1928)俳人。温泉郡高岡村(現松山市高岡町)に明治18年8月18日に生まれる。本名は陣太郎。明治37年,松山中学4年で中退し,はじめ絵を志して各地を放浪したが,のち,村上霽月,青木月斗に師事して俳句に精進する。絵は洋画をはじめ習っていたが,雪舟,蕪村などの古画の模写をやっているうちに俳画に長じた。大正11年,大阪に出て,大阪府池田市に住み,つとにその英才をうたわれたが,芸術上の悩みから投身自殺をする。昭和3年1月18日,42歳で死去。池田市大広寺,大阪住吉臨南寺に句碑,記念碑が建てられている。

 三好 牧太郎 (みよし まきたろう)
 文久元年~大正5年(1861~1916)三瓶・三島村長,県会議員。文久元年12年7日,宇和郡下泊浦(現西宇和郡三瓶町)で網元三好儀八の長男に生まれた。漁業に励みほうたれ漁を営み,網の改善などに励んだ。明治23年4月~27年1月三瓶村長,35年2月~36年3月三島村長, 44年7月~大正2年10月三瓶村長を歴任して村政を担当した。明治36年~44年西宇和郡会議員,その間38年2月~40年9月郡会会長に推され,下泊・田之浜間の境界争いを調停した。明治44年9月~大正4年9月県会議員に在職,政友会に所属した。大正5年11月5日,54歳で没した。

 三好 保徳 (みよし やすのり)
 文久2年~明治38年(1862~1905)果樹園芸功労者。本県中予地区における果樹栽培の先覚者であり,自らの経営はもとより,広く苗木の養成や果樹栽培の啓蒙勧奨に多大の力を尽した。また本県特産の伊予柑の導入者としても知られている。文久2年,4月21日温泉郡道後村大字持田(現松山市持田)に生まれる。農業に志して特に農家の副業に関心をもち,早くから諸県を視診し,明治16年山口県萩より夏ミカンを持ち帰り試植を行い,吏に明治22年再び萩より穴戸ミカンの穂木を求めて苗木の養成をはじめるとともに付近に頒与した。これが本県特産の伊予柑である。明治25年温泉郡湯山村溝辺(現松山市溝辺町)に10aを開墾,和梨(赤龍)300本余りを植栽した。翌26年さらに榛芥を開墾し,3haに桃,リンゴ,梨を栽培し,明治29年には,温泉郡小野村横原(現松山市北梅本町)の山林7haを開墾してリンゴを植栽した。これらの果樹経営の傍ら,温泉郡長の委嘱を受け,余暇を見ては東奔西走して多くの人々に果樹栽培の有利性を説いて勧奨につとめ,本県果樹発展の基礎を築いた。その外道後村農会長,温泉郡農会副会長として,農事一般の指導にも尽した。明治38年3月18日死没し,墓は道後義安寺にある。明治43年果樹栽培功労者として,伊沢知事より追賞された。松山市の道後公園内には,大正10年建立の頌功碑がある。

 三好 藍石 (みよし らんせき)
 天保9年~大正12年(1838~1923)県会議員,画人。天保9年1月徳島県池田町に生まれ,後,川之江の三好家の養子となる。名は信,字を子貞,通称旦三といい,藍石の号のほか金江,螺翁とも称す。三好家は代々酒造業を営む素封家で,藍石は30歳を過ぎる頃の明治初年の激動期に村会議員,さらに県会議員となり政界にのり出す一方,産業開発にも関心を示し,製陶,海運,養豚にまで手を広げるがすべて失敗に終る。彼は元来無欲恬淡で,詩文,書画を好む学識高い文化人であり,県内外から大勢の文人墨客が出入りする三好家は,文化交流の一大サロンの状態にあった。近郷の続木君樵や村上鏑村などもその常連であり,互いに画業を深めあっている。藍石は伊予画人中最も文人画家と呼ばれ得るものの一人であるが,政治や実業の場に対する失望の念が,後に一層専門画人としての道にかりたてている。当時宇摩郡長を勤める手島石泉ら多くの門弟達のすすめで,藍石は明治35年,60歳を越える頃一大決心,大阪に出る。以後在阪20年,各地の画人と交流,多くの名作を残し,当地南画界の雄として,生涯で最も充実した画人生活を送っている。しかし80歳を過ぎる頃には郷里川之江に帰り,城山裾の寓居小画禅堂で画禅三昧の老境を過ごし,86歳で没している。川之江城中腹には,格調高い石文の「藍石翁寿像碑」あり人々の追慕の厚さを今に伝えている。川之江を中心に彼の遺墨は多く,南画の伝統画法にのっとった流麗な山容と巧みな雲煙との緊密な協合によって,超現実的な独特の神仙境を描出している。代表作に,明治26年,シカゴにおけるコロンブス記念博覧会に出品の「寒霞渓秋景図」(川之江文化センター蔵)やその翌年の作「祖谷山蔓橋真景」(個人蔵)などがある。

 三輪 執斎 (みわ しっさい)
 生没年不詳 儒者。大洲第五代藩主泰温は好学で,陽明学者三輪執斎を江戸藩邸に招いて聴講し,ついで大洲へ招請しようとしたが,病軀老齢の故で固辞し,代わって高弟川田雄琴を推せんする。その折,彼の学舎明倫堂を大洲に建立することを寄託した。雄琴は藩士教化のため学校建設を必要として藩主泰温に進言したが,当時大洲藩の財政は窮乏して容易には実現しなかった。延享元年(1744)学校建立の命を発したが,翌年泰温の死で中絶,第六代泰衑は遺志をついで,延享4年8月完成した。これは伊予八藩中最初の藩校となった。祠堂明倫堂(正面に藤樹家蔵の孔子像,左右に王陽明・中江藤樹の画像を祭る)と講堂止善書院とから成り立った学堂,これが藩校として発足した。

 三輪田 米山 (みわた べいざん)
 文政4年~明治41年(1821~1908)神官,書家。文政4年1月10日旧松山藩久米郡久米村(現松山市)日尾八幡宮の神官の家に生まれる。幼名秀雄,長じて常貞,別名を清門,宇は子謙,米山と号し得正軒主人ともいう。米山が書に志したのは17,8歳のころからで,僧明月や藩儒日下伯巌の手本を習っていたが,29歳の時松山の本村家で法帖を見て開眼,以来同家と大庄屋の乃万家から絳帖や淳化閣帖を,期限付きで借り受けて数百回,のちには王義之のみ昼夜習ったという。当時は書家の手本を習うのがあたりまえで,今日のように法帖について学ぶ者はなかった時代である。米山の書は豪快で気宇壮大,特に小字数の大字は造形性に勝れ,近代書の先駆をなすものといえる。米山の書名が上ったのは60歳ころからで,神社の神名石や注連石,幟などに人気が集まり,松山を中心とする中予一帯の神社にこれらの石文が散在し,自然と同調し宇宙にとけ込んでいる。
 晩年に手がけた「かな」は,秋萩帖の影響の濃いものであるが,80歳ころからは草書作品に同化した独自のかな作品となっている。米山は人となり謹厳,潔癖家で,反骨の精神が強く,勤王の志も厚かったから慷慨家でもあったのであろう。好奇心も強く家族や近隣からは偏骨とみられていた。真面目人間の米山が,奔放自在な米山書を完成し得たのは,酒によるところが多い。ほとんど泥酔に近い状態で天真に生き切った時書が成ったという感がある。禁酒を誓いつつ,無酒にては難しと,飲みかつ書きつづけて88年,その数は1万点を下るまいといわれている。明治41年11月3日,享年88歳で死去。

 三輪田 高房 (みわた たかふさ)
 文政6年~明治43年(1823~1910)神職。文政6年10月8日,久米の日尾八幡の神官三輪田清敏の子として生まれる。通称は恒次郎,浪江,平内,豊次郎,号は危行という。米山は兄で,元綱は弟である。幼少より学を好み幕末の江戸に出て苦学すること数年。和漢の学を修め殊に易学に通じた。帰郷して松山に私塾を開き,従学する子弟が非常に沢山いた。武士でありながら算数の学を勉強しないものをみて「数理に通ぜずして,弾薬・兵糧の計をなすことを得んや」と言って,算数の学などを良く学んだのであった。万延2年(1861)藩主松平定昭の侍講となり,のも松山藩の明教館の教授となり,明治5年久松定謨(伯爵・の少年時代)の教導役を勤めた。更にのち東京に出て,明治12年久邇宮朝彦親王の侍講を仰せつけられ,次いで明治12~13年ごろ,学習院に招聘せられて講説したという。明治21年の新春に兄の友人野口光凱の伊佐爾波神社の宮司を勤めるのを賞して長歌を贈り,光凱も返歌を贈っている。
 明治43年11月5日に没した。年齢は87歳であった。『丸仙叢録48冊』 『神代巻』『易啓蒙』などの著書がある。墓は久米浄土寺にある。

 三輪田 真佐子 (みわた まさこ)
 天保14年~昭和2年(1843~1927)女子教育者。真佐子は天保14年,宇田淵の一人子として京都に生まれる。父が梁川星巌の弟子であり,漢学の塾典学舎を開き,時の公卿に進講するほどの学者であったので,4歳のときには四書五経,6歳で左氏伝全巻を筆写するほど男まさりの勉強をさせられた。安政2年11歳のときすでに典学舎で父の代講をしており,星巌夫人紅蘭女史から詩と書と絵画を学び,この夫人の人間的感化は大きかった。明治元年24歳のとき皇后宮の和歌の添削を命じられる程,和歌の道にも錬達であった。明治2年,伊予松山藩士であり,平田門下で国学を修めた勤皇の士,三輪田元綱と結婚する。明治12年35歳のとき夫元綱が死に,あまつさえ多くの借財をかかえ,松山において私塾明倫学舎を開き約8年間苦労をしたが,多くの人材を出した。明治17年,県令関新平から,愛媛県師範学校附属小学校女教場取締を委任され,更に教員に採用された。明治20年,一子元孝を連れて上京し,神田に私塾翠松学舎を開き,男子部,女子部を置いて漢学のほか英語,数学をも教えた。また夜学や専科の制度も設けた。元孝が病死したので,息子の同年齢の香川県から入塾していた山下富五郎という少年を養子にし,元道名のらせた。明治35年,三輪田高等女学校をつくり,58歳の彼女が校長となり,元道に手伝わせた。やがて,高等女学校の中でも三輪田の名は屈指の有名校とな,次第に発展していった。三輪田は女徳を重視し,良妻賢母,徳才兼備をめざし,女傑崇拝を強調して,女子教育の核とする考え方で終始した。著作には『女子の本分丿女子処世論パ女子教育要言』『女訓の栞』『女子の務』がある。また社会的活動としては,愛国婦人会をはじめ多くの教化団体に関係した。明治45年,女子教育の功労によって勲六等宝冠章を受けたが,これは女流教育者として初めてのことである。昭和2年,瑞宝章を受け,同年5月84歳をもって没した。

 三輪田 元綱 (みわだ もとつな)
 文政11年~明治12年(1828~1879)勤皇家,国学者。文政11年6月21日松山久米村の日尾八幡神社祠官三輪田清敏の第3子として出生。長兄は書家の米山。次兄は明教官教授の高房。通称は綱一郎。葛の舎と号す。幼時田内董史に学び,上京して大国隆,さらに江戸に出て平田銕胤に国学を学ぶ。尊王攘夷を唱え,文久3年,師岡節斎ら同志の者と共に,京都の等持院に入り,足利三代(尊氏・義詮・義満)の木像の首を斬り,三条河原にさらした。このため但馬豊岡に幽囚の身となったが,5年後王制復古により許されて松山に帰った。やがて上京した元綱は外務権大丞となり,明治2年従6位に叙せられたが,病のため帰郷。帰っては大山祇神社宮司に任ぜられ,さらに筑前の香惟宮宮司,武蔵国の鳥越神社祠官に任ぜられたが,病いえず帰郷して,明治12年1月14日没した。享年51歳(墓碑は54歳)。歌文集『葛農舎集』『蓬仙日記』には若き時からの元綱の歌や動向かうかがわれる。ほかに『獄中述懐』『元孝への遺言』がある。女子教育家の真佐子とは京都で結婚した。大正5年に従五位を贈られる。

 御木 徳近 (みき とくちか)
 明治33年~昭和58年(1900~1983)宗教家,PL教団2代目教祖。松山市出身。父徳一の開いた「ひとのみち教団」の布教に専念し,昭和21年9月PL教団を開き,「人生は芸術」の教義とパーフェクトリバティー(完全なる自由)を教理として布教に努める。新日本宗教団体連合会の設立に尽力し,発足以来14年にわたって理事長を努めた。昭和30年には宗教世界会議に出席,議長となる。海外布教にも力を入れ,世界各地を回った。ブラジルではリオディジャネイロ市の名誉市民章も贈られている。松山出身のPL教団教祖15年祭を記念して昭和28年,松山にて打ち上げ花火をはじめ,松山市民は夏の名物「PL花火」として親しんできた。郷里を愛し,松山の静かな城下町を懐かしみながら,昭和58年2月2日,82歳で死去。

 御手洗 忠孝 (みたらい ただたか)
 慶応2年~昭和15年(1866~1940)愛媛新報社長,県会議員・松山市長・道後湯之町町長。大正期立憲同志会一憲政会の中心人物であった。慶応2年9月27日,松山城下西町で松山藩士の家に生まれた。少年のころ医学を志し上京して勉学したが,病に侵され帰郷して明治23年愛媛新報社に入って記者となり,不迷と号した。 24年市会議員を経て,29年松山市長白川福儀に懇請さて助役に就任して33年まで勤務した。助役退職後は愛媛新報社で主筆として言論活動を続けた。大正4年9月県会議員に当選,同年立憲同志会幹事長に推された。8年の衆議院議員補欠選挙に立って政敵岩崎一高と激しい一騎打ちを演じたが敗れた。同年6月高須峯造の後を受けて愛媛新報社長に就任した。大正15年8月松山市長に選ばれ,昭和6年10月まで在任して,学校整理と道路拡張,実費診療所・古町公設市場の設置など社会事業に尽くした。市長退職後,道後湯之町の町長を務めた。昭和15年2月11日,73歳で神戸市須磨で没した。

 水木 要太郎 (みずき ようたろう)
 元治2年~昭和13年(1865~1938)考古学者。元治2年正月17日に伊予郡宮ノ下村134(現伊予市)金十郎長男として生まれる。号は十五堂を愛用。 15才で15万石の松山に出た後15年目に15万石の大和郡山に入ったのに因むという。松山中学で松山市長御手洗忠孝と同級。明治16年成績表で彼はその第一席であった。後東京高等師範学校(現筑波大学前身)に進み,卒業後同21年三重県一志郡野本村高等小学校に赴任,23年奈良県尋常師範教員心得となり,30才で生駒郡郡山中学に赴任・豆腐町に住んで豆腐原産の中国地名の淮南を号とし,また生地伊予市茶臼山から茶丘,奈良勤務で南都馬角斎の別号も用う。明治28年『大和名所しるべ』を,同36年『小学大和志』などを著し,奈良女子高等師範創設後,明治44年同校教授となる。大正2年奈良県史蹟勝地調査会委員,同4年帝室博物館学芸員を兼ね,その間今日有名な高松塚古墳を明治時代の『名勝旧蹟取調』で「高市郡阪合村大字平田小字高松塚見取図」として掲出し,また大正5年頃の拓影には大和大野寺磨崖仏の石仏拓影を残すなど「奈良学」の先駆者となり「大和の水木か,水木の大和か」と云われたほどである。しかし,水木は愛媛県史蹟名勝天然記念物調査委員としても活躍し,同調査報告書(大正13年3月)に伊予の「法華尼寺塔礎」を,昭和13年3月改正『愛媛県史蹟名勝天然記念物調査報告書』に「国分寺の塔礎」を正確に現地写真と測図を以って古瓦などと共に報告し,当時の県内調査に範例を示した。その遺品の一部には松山市小野の播磨塚出土と伝えるものもあって,甥の久保水々(俳人)宅に蔵さる。奈良では新納奈良博物館長と共に,来訪のボストン博物館長ワーナー博士に文化財を案内し,大戦中マッカーサーをして奈良京都を爆撃から免れしめたのもその余徳と伝えられる。その日記的な「大福帳」は珍奇貴重な記録で明治39年(42才)から没年まで33年間に及び,自身の写生・聞き書・古文書や書画の模写・面接者の署名も含み,半紙四ツ折り横本で321冊に達し,これらの中には,大正15年来日の瑞典皇太子の正倉院遺宝鑑賞時の姿を描いた浜田耕作博士によるスケッチも収載し,その他考古研究史上史料価値高いものが見られ,またこのサインブックを通し交友の広さをも知ることができる。昭和13年6月1日死去。享年74歳,墓は大和郡山市三松寺に,分骨碑は伊予市宮ノ下長泉寺にある。

 水谷 正太郎 (みずたに しょうたろう)
 明治24年~昭和44年(1891~1969)医師,立問村長・県議会議員,県医師会副会長。明治24年3月12日,北宇和郡成妙村戸雁(現三間町)で生まれた。宇和島中学校を卒業して大正5年医術開業試験に合格した。その後東京帝国大学医科大学で研修,愛媛赤十字病院勤務を経て,立間村医王寺下に医院を開業した。村内唯一の医師として村民の医療に尽瘁,校医として児童の衛生管理を怠らなかった。昭和22年4月立間村長に公選,県議会議員にも選ばれて両者を兼務して26年まで在職した。その後北宇和郡医師会長に推され,33年~37年には県医師会副会長を務めた。また北宇和郡PTA連合会長・県PTA連合会長などを歴任した。 42年勲五等双光旭日章を受けた。昭和44年12月31日,78歳で没した。

 水無 又兵衛 (みずなし またべえ)
 生没年不詳 寛永6年正月18日に蒲生中務大輔忠知の所領予州松山で水無又兵衛という山賊強盗のあぶれ者らが郷民をかたらい総勢1,000人ばかりで一揆をおこし,在々所々の豪家に押し入り財宝穀物を掠奪した。
 代官の力では制し切れず,家老蒲生源左衛門,町野長門守,梅原弥左衛門らの重臣が家臣を率いて鎮定する。又兵衛は生け捕られて磔刑になったという。これは旱害などによる不作と藩主交代による政治の不安定に乗しておこった騒動であったが他に波及することなく鎮定された。

 水野 広徳 (みずの ひろのり)
 明治8年~昭和20年(1875~1945)軍人。松山藩士水野光之の次男として,明治8年5月24日温泉郡三津町(現松山市三津浜)に生まれる。愛媛県尋常中学校(後に松山中学校)を5年で中退,再三挑戦して海軍兵学校に入校し,明治31年同校を卒業した。軍艦乗組・陸戦小隊長などを経て,日露戦争には第41号水雷艇長として,旅順口閉塞や日本海海戦に参加,東郷司令長官より感状を授与された。同39年,海軍軍令部に出仕を命ぜられ,日露戦争海戦史の編巣に従事し,その余暇に『此一戦』を執筆,44年に発刊した。同42年以降,第16艇隊司令・佐世保工廠検査官・海軍省文庫主管を歴任した。大正2年,時局にかんがみ,日米戦争仮想記『次の一戦』を書くが,発表は見合わせていた。たまたま一友人の窮迫を救うためこの原稿を寄与し,同3年「一海軍中佐」の匿名で出版したが,外交の機微にふれる点があり問題となった。その後匿名が発覚し,無認可出版の廉で謹慎を命じられるとともに,同書は絶版となった。同年,当局の認可を得て『戦影』(旅順海戦私記)を発刊するが,この書は書店にほとんどその姿を見せないで煙滅した。同4年以降は「出雲」副長・「肥前」副長を歴任し,同5年から6年にかけ欧州私費留学。帰朝後は軍令部出仕,大佐に昇進して海軍省文庫主管などを務めるかたわら,「中央公論」などに軍国主義的論調の評論を書き続けた。同8年1月から翌9年5月まで二度目の欧州私費留学を行ったが,第一次世界大戦後のフランス戦跡やドイツ国内の惨状を視察し,戦争の幻滅を確認するとともに思想の大転換を来した。帰朝後は再び軍令部に出仕するかたわら,新聞紙上に「軍人心理」を書くが,現役軍人の筆としては露骨に過ぎるとして再び謹慎処分を受けた。このころより軍隊はもはや永住の地にあらずと決意し,同10年8月,現役を退いた。その後も筆を休まぜることなく,同14年には米国海軍大演習に際し,日米両国民の感情的対立激化を憂慮して,「米国海軍の太平洋大演習を中心として」(日米両国民に告ぐ)を「中央公論」に発表,他にも『戦争と軍備問題』『無産階級と国防問題』など多くの著作を世に出した。昭和7年,日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』を出版したが,当局によって発売が禁止された。同12年には『日本名将論』を出版しようとしたが,以降当局の監視きびしく執筆不能となった。同20年,越智郡吉海町に疎開したが,病を得て同年10月16日,今治市の病院で没した。享年70歳。墓所は蓮福寺にある。松山市正宗寺境内には歌碑がある。
  世にこびず人におもねらず我はわが
   正しと思ふ道をすすまむ

 水野 龍門 (みずの りゅうもん)
 天保8年~明治16年(1837~1883)教育者。今治藩士水野武肋の子で名は秀雄,龍門は号である。幼児より読書を好み,長じて昌平黌に遊学,後,水戸に遊んで藤田東湖に経史を学び,豊後に渡って広瀬淡窓に詩を,帆足万里に文を学ぶ。郷里に帰って,松柏村善法寺観照宅で開塾,更に下分村五明院に移り,また,川之江村に移って蓋(先2つに日)塾を開いて子弟の教育に努めた。川之江村に移ったことについては,宇田川楊軒,尾藤二洲,長野豊山,近藤篤山のゆかりの地川之江村を永住の地として考えたふしがみられる。龍門の名を慕って遠く松山・土佐・阿波・讃岐・豊後方面からも学ぶ者が多く来て,その門下生は川之江はもちろんのこと,各地域において中心的な人物となって活躍した。明治16年10月16日46歳で没した。昭和3年,門人がはかって妙蓮寺境内に「水野龍門之墓」を建立している。

 溝端 茂雄 (みぞばた しげお)
 明治31年~昭和49年(1898~1974)吉田町長・県会議員。明治31年7月21日喜多郡大洲町(現大洲市)で政所益五郎の三男に生まれた。大正7年県立大洲中学校を卒業した。13年北宇和郡吉田町溝端豊吉の養子となり,家業の製糸業を経営した。昭和17年7月毛山森太郎の補欠で県会議員になり,21年12月まで在職した。また18年11月~21年11月吉田町長になり,戦時下の町政を担当した。戦後は城南製糸社長に就任した。昭和49年3月12日,75歳で没した。

 三橋 八次郎 (みつはし はちじろう)
 明治31年~昭和59年(1898~1984)農業指導者・参議院議員。明治31年10月10日,青森県の農家に生まれた。苦労の多い農村生活の向上を決意して,大正13年東京農業大学高等科を卒業した。同年愛媛県産業技手として県立農事試験場に勤務,農林技師を経て農事試験場長・県農業改良課長を歴任して30年間本県の農家指導に専念,県下全域を歩き回り「寒暖計ひとつで農業被害がピタリとわかる」と言われるほど農民の信頼を集め,県農業祭の生みの親でもあった。昭和25年6月第2回参議院議員選挙に際し社会党からの懇請を断り切れず愛媛地方区で立候補当選したが,改選期の31年7月選挙には自民党の堀本宜実に敗れ落選した。社会党県連会長におされ,34年1月の県知事選は久松定武三選阻止に立ったが大差で敗北した。昭和59年12月27日86歳で没した。『麦類の銃病に関する研究』『三橋作物病害論集』などの著書がある。

 光田 繁光 (みつだ しげみつ)
 明治32年~昭和47年(1899~1972)教育者。上浮穴郡川瀬村(現久万町大字直瀬)で明治32年10月23日光田卯太郎の長男として生まれ,父は警察官であったため転勤が多く,明治39年伊予郡中山町の中山尋常小学校に入学,大正4年伊予郡伊予尋常高等小学校高等科を卒業,翌5年愛媛県師範学校に入学する。在学中から剣道が優れ,同8年8月京都学生剣道大会で優勝をしている。同9年師範学校を卒業,柚川尋常小学校(面河村)の訓導となり教職につく。昭和5年柳谷村中津尋常小学校長となる。(31歳)昭和29年直瀬小学校長を最後に退職した。 20数年の長い期間校長の責務を果たしている。強い信念を持ち,自己の信ずる道を忠実に実行していく勤勉な校長としての高い評判であった。昭和22年県視学,同23年郡教育事務所長となり,戦後の混乱した教育界の建て直しに尽力した。退職後は,郷里の下直瀬にとどまり,奉仕活動に精励した。特に学生時代からの剣道では,昭和12年上浮穴郡剣道会長になり,郡剣道発展のため尽力した。同35年剣道練土,同42年剣道教士,同45年剣道6段に合格した。繁光が始めた下直瀬剣道大会は30数年現在も続けられている。昭和38年郡の文化財保護委員長となり,下直瀬の八幡神社を県指定の文化財とすることに努力した。同年町議会議員に選出されるなど,郷土のため幅広く実力を発揮した。同46年教育功労者として,勲5等瑞宝章を受けた。同47年2月23日,72歳で死没。

 皆川 治広 (みなかわ はるひろ)
 明治8年,~昭和33年(1875~1958)大審院検事・司法次官・東京控訴院長。明治8年3月7日,松山萱町で士族皆川広生の四男に生まれた。第一高等学校を経て明治36年東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。司法官試補,大阪地方裁判所詰から検事に任官。37年国際法顧問で日露戦争に従軍した。39年小倉区裁判所検事,41年東京地方裁判所検事を歴任して43年欧米に留学した。大正2年大臣官房職員課長,10年大審院検事,11年司法省人事局長,12年広島控訴院検事長,昭和2年名古屋控訴院検事長,6年司法次官,9年東京控訴院長にそれぞれ任,12年退官した。 14年東京市顧問となり,教育局長を兼ねた。かたわら大孝塾を開き,戦時下青年の思想善導に力を注いだ。戦後は弁護士を開業,関東愛媛県人会長などを務めた。兄広量は実業家として名をなした。昭和33年3月7日,83歳で没した。

 皆川 広量 (みながわ ひろかず)
 明治4年~昭和8年(1871~1933)実業家。松山堀之内で士族皆川広生の三男に生まれた。東京神田専修学校を中退して貿易商社大倉組に入り大阪支社外国掛,35年中国の天津支店長に抜擢された。日露戦争時中国にあって軍に尽した功によって勲六等に叙せられた。大正2年中外石油アフファルト会社社長となり,東京建物会社・東京機械製作所のほか10数社の社長・役員を兼ねて実業界に重きをなした。郷里松山の教育機関に援助を惜しまず,済美高等女学校の設立助成や松山夜間中学(現松山城南高校)への資金調達をした。陸軍大将白川義則と親しく,その伝記出版に尽力した。昭和8年5月15日, 62歳で没した。

 南  通方 (みなみ みちかた)
 生年不詳~天正10年(~1582)戦国末期の風早郡(現北条市)の領主。河野氏の一族でその重臣でもあり,美作守の官途を有する。北条市麓に所在する横山城を本拠とする。同城跡には今も,数段にわたって削平された郭,多数の堀切,柱穴の残った巨石などを確認することができ,県指定史跡となっている。通方は元亀3年(1572)阿波三好勢が侵入してきた時,天正元年(1573)喜多郡地蔵嶽城主(現大洲市)大野直之が河野氏に反抗した時,天正3年(1575)伊予勢が毛利氏支援のために中国遠征をした時などに,河野氏の軍中にあって重要な役割をはたした。天正10年(1582)に,同じ風早郡の宅並城主(現北条市小川)栗上氏と分水問題で争い,同氏に攻められて敗死した。跡を忽那通著の子亀寿丸がつぎ,彦四郎通具と名乗った。通具は,宅並城を攻めて栗上氏を自殺させた。天正13年(1585)の小早川隆景の伊予進攻の際,横山城は陥落した。通具は,小早川隆景に降伏した河野通直が,伊予を退去する際伴をした人々の一人である。北条市本谷の雲門寺は南氏の菩提寺である。

 宮内 九右衛門・清兵衛 (みやうち くうえもん・せいべえ)
 生没年不詳 伊予市灘町の開発者。兄弟の父宮内庄右衛門正信(元和5年8月没)は,河野氏の子孫で,先祖以来住んでいた風早郡宮内村から浮穴郡上灘村に移住していた。寛永13年春,兄弟は伊予郡米湊村牛飼原の開発を藩に願って許され,上灘村から移住して,町家の建設につとめ,一族縁者をはじめ居住希望者が増加した。難渋者には木竹を与えるなど援助したので,次第に町並みが形成された。第二代藩主泰興はこの状況をみて喜んで,兄弟の出身地にちなんで町名を灘町,屋号を灘屋とよぶことを許すとともに,この町を諸役御免地として,町の発展をはかった。兄弟は自分らが建立した灘町栄養寺に葬られた。

 宮内 研山 (みやうち けんざん)
 文政7年~明治18年(1824~1885)教育者。旧松山藩士で,名は克崇,通称類之丞。日下伯巌に学び,のも江戸の昌平黌に入って古河侗庵の教えを受けた。帰藩して藩校明教館に勤務し,世子の近習,側役にもなった。廃藩後は准大司教となり,江戸に上り,小学校に奉職した。晩年は伊予郡砥部で地方の青少年の教育にあたる。研山は詩文をよくし,藤野海南は文篇成るごとに研山の校閲を受けたといわれる。明治18年9月砥部の岩屋口で死去,61歳。

 宮内 治三郎 (みやうち じざぶろう)
 安政4年~明治39年(1857~1906)南予鉄道会社創設者・衆議院議員。安政4年10月26日,伊予郡郡中灘町(現伊予市)の酒造家に生まれた。町の有志と計って明治19年郡中銀行を設立し,のち頭取に就任した。 22年1月県会議員になり,25年3月再選されて副議長に選ばれ27年4月まで務めた。 27年9月第4回衆議院議員選挙で第1区から自由党公認で立ち当選, 1期在任した。27年1月には南予鉄道会社を設立して社長になり,29年7月郡中一藤原駅(現松山市駅)間11キロを開通させた。また同年肱川汽船会社を誘致して伊予汽船会社を開業した。明治39年2月13日,48歳で没した。

 宮内  長 (みやうち ちょう)
 明治3年~昭和21年(1870~1946)南伊予村長・県会議員。明治3年10月26日,温泉郡富久村(現松山市)五百本家に生まれ,30年伊予郡下三谷村(現伊予市)宮内禰一郎の養子になった。 32年南伊予村農会長を経て明治40年2月同村長に就任,大正3年4月まで在任して村政を担当,産業組合・信用組合の設立や果樹園芸の奨励に努めた。その間,伊予郡農会長・畜産組合長などに推され,郡中銀行・伊予自動車会社取締役などを歴任した。大正12年9月農会の政治団体農友会推薦で県会議員に当選,昭和2年9月まで在職した。昭和21年4月22日75歳で没した。青木県政の副知事宮内弼は次男である。

 宮内 正友 (みやうち まさとも)
 明治20年~昭和32年(1887~1957)警察官,小野村長・県会議員。明治20年10月7日久米郡北梅本村(現松山市)で生まれた。松山中学校を中退して40年警官になり,大洲などの署長,巡査教習所長を経て警視任官,今治・松山・宇和島の三市署長を歴任した。昭和8年10月兄宮内繁雄の後を受けて小野村長に就任した。昭和10年9月県会議員に選ばれ,21年11月まで2期在職した。昭和32年11月17日,70歳で没した。

 宮内  禰 (みやうち わたる)
 明治36年~昭和61年(1903~1986)内務官僚・県副知事。明治36年7月20日,伊予郡南伊予村下三谷(現伊予市)で宮内長の次男に生まれた。父は農業組合長・県会議員として活躍した。松山中学校・松山高等学校を経て昭和3年九州帝国大学法学部を卒業した。内務省に入り,東京府内務部地方課・佐賀県警察部・秋田県警察部・内務省文書課で勤務,15年満州関東庁に出向して終戦まで要職を歴任した。引き揚げて21年12月広島県民生部長・経済部長になり,22年7月関東庁時代の上司である青木重臣の推挙で愛媛県初代副知事に就任した。青木知事を助けて戦後混乱期の県政を支えたが,26年3月県知事選挙を前に再選を期す青木を支援しなかったとして副知事を罷免された。その後,全国知事会事務局長についた。昭和61年4月28日,82歳で没した。

 宮崎 通之助 (みやざき つうのすけ)
 明治13年~昭和39年(1880~1964)大正期の県知事。明治13年8月6日静岡県安倍郡大里村で生まれた。39年7月東京帝国大学法科大学独逸法律科を卒業,高等文官試験に合格後,鉄道庁書記,京都府属となり,福島県事務官,島根県・宮城県警察部長,北海道庁警察部長・拓殖部長,警視庁警務部長を経て,大正10年5月27日愛媛県知事に就任した。本県在任3年2か月,県会多数派を占める政友会の後援もあって平静な県政運営を推し進めた。その間,12年4月1日から施行となった郡制廃止に伴う事務処理,15か年継続模範林造成事業,今治港湾はじめ諸港湾修築事業などの推進,11年11月の皇太子殿下行啓の奉迎などに当たった。 13年6月24日加藤内閣による地方長官更迭で休職となり,その後内務省土木局長を経て15年6月退官,郷里の静岡市長に就任した。昭和39年9月17日,84歳で没した。

 宮崎 虎一 (みやざき とらいち)
 文久2年~大正4年(1862~1915)寒川村長・県会議員。文久2年11月7日宇摩郡寒川村で生まれた。明治31年から10年間にわたり寒川村長として村政を担当,村の将来を考えて植林事業を奨励した。 33年10月~44年9月県会議員に在職して,愛媛進歩党に所属した。大正4年3月7日52歳で没した。寒川村の植林事業は後任村長高石英三郎に引き継がれ,やがて美林が村の共有財産となった。村民は両先駆者の功労に感謝して,昭和27年新長谷寺門前に頌徳碑を建立した。

 宮崎 春次 (みやざき はるじ)
 生年不詳~明治30年(~1897)北海道東予開拓村の指導者。宇摩郡中之庄村(現伊予三島市)で生まれた。村会議員その他の公職にあったが,北海道開拓の希望を抱いて明治27年11月~28年2月北海道を調査視察,大阪で購入した幻燈器機を携えて中之庄・豊岡・中曽根村を巡歴して北海道集団移住を勧誘した。中之庄村長高倉要の助力もあって,29年3月55戸の東予団体を組織して北海道に渡り,雨龍郡北滝村(現深川市沼田町)の原野を開墾,食料の収穫が出来るまで私財を投じて開拓民の生活を支えた。ようやく開拓村での生活が軌道に乗った明治30年10月心労が重なって没した。残された人々は恩に報いるため団結協力,精励した結果,明治39年9月北海道庁の「移住者成績調査」で東予村は模範農耕地として紹介顕彰されるまでになった。

 宮田 文子 (みやた ふみこ)
 明治21年~昭和41年(1888~1966)旅行記作家。松山市の唐人町(現三番町)に生まれる。旧姓は中平。15歳で京都に移り,府立高等女学校を卒業。父の転勤で上京し,「中央新聞」の記者となったり,新劇女優になるべく芸術座に在籍したりして,〝新しい女〟としてジャーナリズムをにぎわせた。その後,大陸を放浪し,大正9年,作家武林武想庵と結婚してパリに住む。同11年帰国して,資生堂のモード紹介の仕事などをする。関東大震災後再び渡欧し,バーやカフェーを経営したり日本舞踊を踊るなど多彩な活動をした。結婚,離婚を繰り返し,ヨーロッパとの往復,実に18回に及び,〝不死身の妖婦〟と評された。昭和37年には松山へも講演に来県し,若さの秘密を披露したりした。昭和41年6月25日,東京帝国ホテルで急死する。 78歳。著書には『73歳の青春』『わたしの自書』などがある。

 宮田 愛明 (みやた よしあき)
 明治13年~昭和28年(1880~1953)内子町長・県会議員。明治13年7月28日,喜多郡内子町で生まれた。松山中学校を中退して家業に従事,大正4年信用組合理事,7年町会議員,9年郡会議員になった。大正10年3月内子町長に就任,以来18年6か月在職,更に晩年の五城村長を加えると23年にわたり地方自治と産業振興に尽くした。その間,郡農会長・県農会副会長・県養蚕組合連合会長などの要職を務めた。昭和2年9月~6年9月と昭和10年9月~14年9月県会議員に2期在職した。昭和28年2月5日,72歳で没した。

 宮田 喜壽 (みやた よしひさ)
 明治8年~大正9年(1875~1920)喜佐方村長・地方改良功労者。明治8年12月3日,宇和郡沖村(現北宇和郡吉田町)で宮田幸吉の長男に生まれた。宇和島の明倫館中学校(のち宇和島中学校)に学び,小学校教員になり,30年八幡浜駐在巡査に奉職した。 33年喜佐方村書記を経て34年6月同村長に就任,以来大正6年7月まで在任した。村政では,道路政修,蚕業の発達,小学校の振興に尽力した。明治42年第1回地方改良功労者として県知事表彰を受けた。退職後,沖村八幡神社・奥浦神社社掌を兼職,大正8年には有志と図り宇和蚕種会社を設立した。大正9年4月11日,44歳で没した。

 宮之原 健輔 (みやのはら けんすけ)
 明治9年~昭和31年(1876~1956)果樹園芸指導者。本県最初の果樹専門技術者として,果樹の試験研究及び栽培技術体系を確立した功労者である。明治9年鹿児島市新屋敷町126番地に生まれる。東京帝大農学実科を卒業,農林省興津園芸試験場で柑橘を専攻した。大正4年4月,本県の再三の要請に応じて,県農事試験場技師として着任した。本県最初の果樹専門技師として,揺らん期の果樹栽培技術の試験研究ならびに指導,普及にあたり,特に本県温州ミカンの品質向上に尽くした役割りは大きい。また大正11年温泉郡桑原村東野に,農事試験場果樹試験地を特設し,後の県立果樹試験場の基盤をつくった。さらに南予の柑橘試験研究機関設置の要望に対応して,東宇和郡玉津村の南予柑橘分場設立(昭和8年)に貢献した。農事試験場勇退後は,伊予果物同業組合技師として実地指導の第一線で活躍した。昭和17年伊予果物同業組合の解散(戦時統制による法定解散)後は,伊予農業高校で子弟の教育,果樹園での実技訓練にあたっていた。戦時中同校を退き,余生を道後で送り,後さらに下関に移った。昭和31年11月18日,80歳で死去。

 宮原 閑山 (みやはら かんざん)
 天保14年~明治25年(1843~1892)教育者。羽州の画家鈴木月山の子であるが,桑村郡徳田村(現丹原町)宮原瑤月の養子となった。通称は雅一郎,松山の藩儒藤野海南に学び,詩文に長ずるとともに,なかんずく書に秀でていた。愛媛県師範学校に奉職したが,かたわら私塾を開いて青少年を教育する。明治25年1月10日死去,49歳。

 宮原 桐月 (みやはら とうげつ)
 明和6年~天保14年(1769~1843)松山藩の儒官。明和6年,桑村郡高知村(現周桑郡丹原町)に生まれる。字は子体,号を桐月とよぶ。藩儒宮原龍山の実弟である。 18歳のとき大阪に遊学して,尾藤二洲に学び,江戸に出て服部栗斎に師事する,帰郷して松山藩の儒官となる。詩文,書をよくして遺墨も多い。天保14年9月19日死去。 74歳。

 宮原 瑤月 (みやはら ようげつ)
 文化7年~明治11年(1810~1878)儒学者。周桑郡徳田村(現丹原町)に生まれ,名は直清。通称は清助という。初め小松の近藤篤山に学び,後江戸に出て,林述斎の門に入る。帰って松山に住まい,藩老菅氏の子弟などを教授し精励すること20余年,幕府より表彰される。明治11年11月に死去,68歳,松山市素鵞に墓がある。瑶月の後継者に宮原閑山がおり,羽州の画家鈴木月山の子であるが瑤月の養子となる。通称は雅一郎。松山の藩儒藤野海南に学び,詩文をよくし,書にも秀でる。師範学校にも奉職し,傍ら私塾を開いて青少年の教育に当たる。明治25年1月,49歳で没す。

 宮本 作右衛門 (みやもと さくえもん)
 生年不詳~天保2年(~1831)温泉郡湯山村(現松山市)の人。文化年間に,伊勢参りに往き,帰途京都で孟宗竹の苗竹を買って帰り同村杉立に栽培した。これがもとで,この地方が筍(タケノコ)の名産地として有名になったといわれている。天保2年2月24日死去。墓は樽見谷にある。

 宮本 武之輔 (みやもと たけのすけ)
 明治25年~昭和16年(1892~1941)利学技術者。松山市興居島の由良に生まれた。苦学して東京の錦城中学から一高を経て,東大土木学科を大正3年に卒業す。内務省に入り利根川,信濃川の治水工事計画に貢献した。昭和15年にわが国の大陸政策の興亜院技術部長となり,次いで企画院次長に就任した。大陸開発建設を指導したが,激務のため健康を害し,昭和16年12月24日急逝した。彼の死を痛み記念碑が由良の集落の中に建てられている。彼は日本土木学会をおこし,日本技術協会副会長をつとめ科学技術の振興に尽した。工学博士。著書に『治水工学』『河川工学』『大陸建設の課題』などがある。

 宮脇 茲雄 (みやわき これお)
 明治5年~昭和18年(1872~1943)産業組合の先駆者。明治5年6月10日下浮穴郡上野村(現松山市上野)で生まれ,明治23年伊予尋常中学校中退,同29年6月荏原村役場に勤務,同37年7月,収入役に就任。同44年~大正8年6月と,昭和7年5月~同11年5月の2回,村長を勤める。ほかに荏原村村会議員(明治35年)温泉郡会議員(明治32年)として政界に登場し,大正3年に再度郡会議員に当選して2期つとめ,同10年12月から議長となる。大正3年8月,郡内の小地主を糾合して温泉郡米券倉庫組合を設立して組合長となる。大正9年4月に温泉郡購買販売組合連合会を創設して会長となり,のち愛媛県販売購買利用組合連合会の会長に就任す。また愛媛県産業組合更生会会長として弱小産業組合の更生を図り,数々の事績を残す。昭和6年5月に産業組合中央会会頭より,緑綬功労章,同14年5月には紅授功労章を授与された。明治41年から温泉郡農会評議員,大正9年から昭和4年まで温泉郡農会長。昭和7年12月~同10年3月まで県農会副会長。昭和10年4月から荏原村農会長に就任。産業組合のほか農会人として農業の振興,農事の改良発達に功績をとどめ,大正9年と同14年に帝国農会長より表彰される。昭和15年に,紀元2,600年の記念事業として県販売購買利用組合連合会の役職員により氏の頌功碑が建立(同16年4月除幕)された。榎村の名で俳句をよくし,同好者と金平会を組織し多くの名句を残している。昭和18年8月6日,71歳で没す。

 宮脇  先 (みやわき すすむ)
 明治25年~昭和55年(1892~1980)明治25年12月29日下浮穴郡荏原村(現松山市)に生まれる。父茲雄は同44年~大正6年および昭和7年~11年にわたって荏原村村長をつとめた家柄である。伊予鉄道第十代社長。松山中学を経て大正7年慶応義塾大学理財科卒業。三菱商事に入社したが,同11年帰郷して伊予鉄道電気株式会社に入社,昭和17年常務,20年専務,26年副社長をへて昭和30年11月社長に就任。(昭和44年11月まで)同48年まで会長,また54年,まで取締役相談役として社業を見守った。この間,同社の戦後復興,郡中線の電化工事,高浜線の複線復活,バス路線の新設・延長およびバスターミナルの建設,横河原線の電化工事,市内電車本町線の新設および軌道環状線化のほか,航空代理店業務への進出,いよてつそごう百貨店の開業など同社事業の全般にわたって今日の基礎を築いた。とくに社長在任期間の後半はモータリゼーションの進行への対応策に腐心し,森松線の廃止(昭和40年)横河原線電化(昭和42年)はその代表的なものだが,宮脇は地域社会に役立つ公共交通機関としての使命を第一義とし,信念をもってこれらに対処した。人柄は正直で淡泊,気の強い半面情に篤いところがあり,業界関係はもちろん,社会・教育・文化・スポーツ等各方面の役職につき,本県経済界に重きをなした。代表的なものは,日経連常任理事,日本民営鉄道協会副会長,日本バス協会副会長,四国経済連合会理事,四国鉄道協会会長,愛媛県バス協会会長,松山商工会議所会頭(昭和37年~39年)など。このほか愛媛県重量挙協会会長,郵便協力四国連合会会長も長くつとめた。また,前任の武智鼎社長の後を継いで伊予史談会会長を25年の長きにわたってつとめた(昭和30年~55年)。スポーツはゴルフを好み,趣味も広かったが古美術鑑賞,茶道に関しては一家言をもっていたという。昭和55年1月11日,87歳で死去。

 宮脇 通赫 (みやわき みちてる)
 天保6年~大正3年(1835~1914)郷土史家。新谷藩士堀氏に生まれ,宮脇氏を継いだ。名は熊吉,通称は小源太。号は南海。孤山と称した。児玉暉山,矢野玄道,香渡晋らに学び,のち藩に仕え,幕末のときは徴士で,江戸,京都にあって国事に奔走した。維新後,太政官に仕え,太政官外史,権主記になり,神山県属をつとめ,明治12年,新谷に私立神聖校を開設して国漢学を教えた。同23年退官してからは,もっぱら歴史の研究に打ち込み,また詩文を作って楽しんだ。著書には『春秋左氏伝註』『伊予温故録』『愛媛県史談』等多い。大正3年9月9日死去,79歳。

 宮脇 鯉渓 (みやわき りけい)
 嘉永4年~昭和3年(1851~1928)儒者,戸長,県会議員。嘉永4年12月25日,浮穴郡荏原村(現松山市)の庄屋に生まれる。名は信好。幼時より学問を好み,江戸に出て昌平黌に入り,塩谷宕陰,中村敬宇らに学び,さらに古賀茶渓の塾に3年間を過す。帰って松山藩の儒官となる。維新後は県の官職についたが間もなく辞し,荏原村外10数か村の戸長となったり,県会議員も数年勤めた。その後,松山で私塾を開き,もっぱら青年子弟の教育に尽すとともに詩文添削のもとめに応じ,詩作に老後を楽しんだ。昭和3年7月死去,77歳。墓は松山市の道旧寺にある。

 明関 友市 (みょうぜき ともいち)
 明治16年~昭和31年(1883~1956)花かつお製造創始者の1人。明治16年7月5日,伊予郡本郡村(現伊予市本郡)の生まれで,祖父清平は腕の良い大工であり資産家でもあったが,一人息子の伊平の代になって大方の資産をなくした。伊平とその妻クラには4男1女がいたが友市はその次男として育った。成人して畳商を開業し,妻ナツエをめとり,大正の初め妻の親せきをたよって満州へ渡り,畳商を営んだ。その後大正2年満30歳のとき末弟の道太郎に畳商をゆずって日本に帰国した。伊予郡郡中村米湊(現伊予市米湊)において長兄の和三郎が海産物商を営んでいたが,これを帰国した友市にゆずり酒造業に転業した。友市が海産物商を引き継いだときにはすでに削機械3台が設置されていたが,大正7年11月煮干を売りながら削節業を始めた。当時大部分が肥料・や飼料に向けられていた中羽,大羽のいわしを節に製造し,かつお節やその他の雑節とともに削り節を製造したが,珍しさも手伝って好調な売れ行きであった。大正13年の掛売だけですでに1日900袋以上に達した。販路は県内のほか,香川,広島,大阪,下関,福岡,北海道に加へ,遠く満州にまでおよんだ。しかし取引先は現在と異なりごく一部の問屋に限られていた。削機械は手動式,足ふみ式からやっと動力化したが,カンナ刃も1~2枚の簡単なものであったので生産能力も現在とは比較にならぬほど小量なものであった。友市はよく働き人にも愛されたが,企業の経営状態は長びく不況の影響のため困難なものであった。この打開を図るべく親族会を開いた結果,個人企業から明関合名会社に改組した。その後,特約店からの取引も年々増加し,売り上げは順調に伸びていった。しかし,昭和6年の満州事変勃発から昭和20年の太平洋戦争終結までの間は,戦時中で苦難の時代が続いた。しかし,大阪中央市場と業務提携していたことが幸いして,この苦しい時代を何とかきり抜けた。昭和31年には削機も43台にまで増設するに至り経営規模も拡大されるとともに宣伝にも努めた結果,事業成績は順調に推移していった。この間昭和26年には社内で労働争議が発生し約15日間のストライキにより一時操業が停止される事態が発生したが,話し合いで円満解決した。友市は昭和28年東京支店の督励もあって東京に移住したが,昭和31年の正月に体の不調のため郷里の伊予市に帰り静養した。この間も工場に立ち入るなど事業への情熱は人一倍のものがあった。しかし,周囲から惜しまれつつ昭和31年4月1日72歳で不帰の人となった。その後会社は昭和39年11月社名を「マルトモ花かつを株式会社」に改組し,東京支店,大阪営業所を含めて現在1支店2営業所6出張所8駐在所等,本社以外に合計17拠点を持つまでに発展し,41年水産庁長官賞,46年農林大臣賞,日本農林漁業振興会会長賞など数々の栄に浴した。友市の長女チヨエの長男和雄が友市の後を継いで社長に就任し,会社をあげて「温故知新」をモットーとして,苦難にめげず躍進をつづけた創始者を見習って社業に精進している。

 明礼 輝三郎 (みょうれい てるさぶろう)
 明治28年~昭和29年(1895~1954)弁護士,衆議院議員。明治28年1月5日,喜多郡満穂村論田(現内子町)で明礼善助の長男に生まれた。苦学して大正10年日本大学法律科を卒業した。弁護士を開業して昭和11年には東京弁護土会副会長になった。戦後,政界に乗り出し,昭和22年4月の第23回衆議院議員選挙に第3区自由党公認で立候補当選した。 24年1月の選挙では落選,27年10月の第25回選挙で返り咲いたが,28年4月の選挙で再び落選した。捲土重来を期するうちに昭和29年12月16日,59歳で没した。