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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

五 文化財保護法の制定

文化財保護法

 昭和二四年に起こった奈良県法隆寺金堂の壁画焼失を一つの契機として、翌二五年五月三〇日に法律第二一四号をして「文化財保護法」が制定された。「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的」としたもので、従来の文化的行政が、国宝・重要美術品・史蹟名勝天然紀念物と区々に行ってきたものを統合一本化するという抜本的な改革が加えられたものである。「文化財」という用語も、ここに初めて市民権を得たわけであり、そこに示された定義や分類については既に触れたとおりである。
 同法においては、文化財保護委員会に関すること、有形文化財の指定・管理・保護・公開・調査に関すること、埋蔵文化財・無形文化財・史跡名勝天然記念物に関すること、および補則・罰則が定められるとともに、それまでの国宝保存法や史蹟名勝天然紀念物保存法・重要美術品等の保存に関する法律など文化財保護に関する旧来の法律・勅令・政令八つが廃止された。その後、同法には二六年一二月、二七年七月、二九年五月、五〇年七月の全体的な改正のほか部分改正が加えられ、現行の文化財保護法が形成されているわけである。

愛媛県文化財保護条例

 文化財保護法においては、「地方公共団体は、条例の定めるところにより、重要文化財、重要無形文化財、重要有形民俗文化財、重要無形民俗文化財及び史跡名勝天然記念物以外の文化財で当該地方公共団体の区域内に存するもののうち重要なものを指定して、その保存及び活用のため必要な措置を講ずることができる。」(第九八条2)と規定されている。これを受けて、愛媛県の区域内に存する文化財について保存および活用のため必要な措置を講じ、県民の文化的向上に資することを目的とする「愛媛県文化財保護条例」が公布されたのは、昭和二八年一二月二五日(条例第六六号)であった。これは、その後の文化財保護法の改正に伴い、三二年三月二九日に全面改正(条例第一一号)され、さらに五〇年一二月二三日にも大幅改正が加えられて今日に至っている。また、その規定内容は文化財保護法に做ったもので、凡そ総則・県文化財保護審議会(もとの文化財専門委員に関する規程を改正)・県指定有形文化財・同無形文化財・同有形民俗文化財および無形民俗文化財・同史跡名勝天然記念物・県選定保存技術・補則および罰則で構成される。
 ともあれ、愛媛県ではこの保護条例を受けて、先ず二九年一一月二四日に愛媛県指定重要文化財(現在、有形文化財)一五件と史跡名勝天然記念物七件が指定された。もっとも、後者については二二年の愛媛県史蹟名勝天然紀念物保存顕彰規定に基づく指定物件六八件が、すでに自動的に認定されていた。その後、途中で国指定に移管されたものもあるが、今日県が指定した文化財件数は、有形文化財一四四件、記念物一四四件、無形文化財一件、有形民俗文化財六件、無形民俗文化財二二件の合計三一七件である(昭和六〇年九月一日現在)。
 また、各市町村においても市部では三〇年代半ばから、町村では三〇年代末から五〇年代にかけて文化財保護条例が定められ、現在ではすべての市町村に条例とともに文化財の保護審議組織が設置されている。そこでの文化財指定数は、六六市町村で一五二七件・平均二三件余であるが、五〇件以上が七市町あって、最多は北宇和郡松野町の一三四件となっている(昭和六〇年九月一日現在)。市町村の規模や文化財保有量の差異もあって必ずしも一様には判断できないが、ところによっては文化財指定基準の曖昧さも窺われ、過剰指定とみられる自治体も存するようである。文化財保護行政の今後における一つの課題であろう。

文化財保護の啓蒙活動

 文化財保護法やそれに続く県条例が出され、文化財の概念も人々に身近な存在のものにまで拡大されていったものの、当初は文化財そのものやその保護に関する啓蒙的な活動は未しであった。しかし、戦災によって損傷した松山城の建造物が二一年から二七年にかけた修復工事によって甦ったり、松山市太山寺本堂の解体復元修理(二七年一月~三〇年三月)、大山祇神社本殿の解体復元修理(二八年一〇月圭二〇年七月)をはじめとして、大山祇神社所蔵甲冑刀剣類の修理研磨が行われるなど、文化財保護のための修理事業が少しずつ展開されていくなかで、人々の文化財に対する関心も次第に高まっていった。一方、松山城筒井門の焼失事件などを教訓に防災施設の整備も行われ、国宝や重要文化財の建造物その他が集中する松山市の石手寺や松山城、丹原町興隆寺その他に貯水槽が設置されていくのであった。
 このような保護行政の進展と併行して、文化財に対する関心を喚起させるための啓蒙的活動も推進され、三〇年三月には、県条例に基づいて指定された県指定文化財の概要その他をまとめた『えひめの文化財』が県教育委員会より刊行された。文化財保護の実状や用語の解説、協力と要望事項などを盛り込み、人々に広く文化財への関心を促そうとするものであった。さらに三三年には、国および県指定文化財の総合的な解説書である『愛媛県の文化財』を写真入りで編集刊行した。これは、のちに四四年・五七年と改訂新版が刊行され、最も手近な概説書となっている。市町村においても、松山市や宇和島市をはじめとして、野村町、城川町、明浜町など南予地方を中心に解説書や手引き書が編集発刊されており、指定物件の概要を把握することができる状況になった。
 その他、県教育委員会では、年とともに老朽化する有形文化財の保存修理や伝承者の減少する無形の文化財の保存伝習活動にも意を注ぎ、また文化財愛護モデル地区を定めて文化財教室を開くなど愛護精神の普及に努めるとともに、文化財の保全環境にも注意が払われることとなる。国・県指定の文化財が集中している地域、考古学上特異な地域、歴史上特筆すべき人物などにゆかりの地域など本県の文化にとって重要と認められる地域を「文化の里」として選定し、集中的に環境を整備して文化財の愛護活用を図ることとなり、四七年度にはそのための実態調査が実施された。これによって四八年六月には、能島水軍の里(宮窪町)・岩陰文化の里(美川村)・宇和文化の里(宇和町)が選定されて整備が図られる。さらに、石垣の家文化の里(西海町)・木蝋と白壁の町並文化の里(内子町)が加えられ、説明板の設置や石垣の補修、遊歩道整備などの事業を行っている。また、ふるさとの文化財や史跡を徒歩でめぐるコースを市町村単位に定め、身近な文化財に親しみ伝統文化を継承活用することで文化財の愛護を図ることを目指して、「ふるさとこみち」の設定が進められた。五三~五年度にかけて各教育事務所単位にまとめられ、解説書『えひめのふるさとこみち』(全五冊)も刊行されている。こうして、本県においてもしだいに総合的・多面的な文化財の保護や保護思想高揚のための施策が施行されるようになってきたのである。
 さて、こうした保護のための施策として愛媛県が全国に先がけて実施したものに「文化財保護指導員」の制度がある。昭和四八年六月、「県内に所在する国指定の重要建造物及び史跡・名勝・天然記念物並びに重要な埋蔵文化財包蔵地の保存保護、望ましい環境の維持並びに活用をはがるための情報の提供及び愛護思想の普及をはかる」ことを目的として、各教育事務所単位に計一五名の「愛媛県文化財巡視員」を設置したのが始まりである。そして、この目的に則って文化財保存保護の現状と必要性、埋蔵文化財などに関する法令上の取扱い等について指導を行ってきた。その後、文化財保護法においても五〇年の改正によって文化財保護指導委員の活動が制度化され、本県でもこれに合わせて六〇年より愛媛県文化財保護指導員と改称し、今日に至っている。
 なお、昭和四〇年三月には、(社)愛媛県文化財保護協会が設立され、一般県民が積極的に文化財の保存保護に関与する方途が開かれた。同協会は、「県内文化財保護思想普及のため、関係機関及び団体等との連けいをはかり、本県文化財の保存活用を通じ、相互の協力と理解を深め、もって県民文化の向上に資する」ことを目的とし、当初は県社会教育課内に事務局が置かれた。そして、行政の及ばないところをカバーする文化財愛護組織として県下市町村に支部を置き、大きな役割を果たしてきた。会員数は約二〇〇〇人、機関誌『愛媛の文化』を発刊する。

文化財の調査研究

 文化財の指定は、保護活動の一環として行われるものであるが、そのためには対象となる文化財に関する調査研究を通した実態の把握が充分になされなければならない。したがって、文化財の調査をいかに進めるかは、文化財保護行政の最も基本となるところであり、その出発点である。しかし、それには相応の時間と労力と経費および専門的な知識を伴うために、県および市町村においても決して進展しているとはいえない状況である。
 さて、愛媛県において初めて本格的な文化財総合調査が実施されたのは、昭和三九年のことであった。文部省文化財保護委員会による文化財集中地区の特別総合調査(第一次五ヶ年計画)中の「四国八十八箇所を中心とする文化財総合調査」が、県教育委員会との共催により五月一一日から一〇日間実施されたものである。文部省美術工芸課の担当官一三名と県および地元関係者が参加して、札所寺院を中心に社寺などに保存される絵画・工芸・彫刻・書跡の各分野に亘る調査が、南予・松山市周辺・東予・大三島の四ブロックに分けて行われ、大きな成果を収めた。同時に、地域を限らず県下全域に及ぶ総合調査であったところに一つの特色があった。そして、この調査結果をもとにして、四〇年代前半には幾つかの国および県指定文化財が誕生したのである。なお、調査成果は、『四国八十八箇所を中心とする文化財―愛媛県下』として文部省より刊行された。
 その後、県教育委員会では、四四~八年度にかけて愛媛県文化財総合調査を各教育事務所単位に実施し、『文化財総合調査報告書』(全六冊)に概要をまとめている。また、歴史資料などについては伊予水軍関係文化財調査や県内古文書所在調査(総務部)が数年次をかけて行われ、五八年度からは大山祇神社文書調査が進められている。さらに五九年度からは、中世城館跡の実態調査も進行している。
 また、埋蔵文化財については、三七年度に最初の埋蔵文化財包蔵地調査が行われて七二二か所を確認したのち四七年にも再調査をなして一九九三か所に及ぶ遺跡分布図が作成されたが、なお不充分な点も多く残されている。また、緊急発掘のほか行政発掘も、伊予国府跡その他で試みられており、五二年六月には急増する土地開発に対処するために(財)愛媛県埋蔵文化財調査センターも設立された。
 その他、民俗文化財については、昭和三八年度に文部省の指導による県下三〇地区の緊急民俗調査が実施されてより、四八年度までに七回の地域調査報告をまとめている。さらに、年中行事調査、民謡調査・民俗文化財分布調査、民俗芸能調査と続けられ、県下の民俗分布の概略を把握しうるようになったところである。
 ともかくも、こうした文化財調査の積み重ねによって、県内文化財の分布や数量的な概要を知ることができるようになった。しかし、個々の文化財の適確な把握と総合的な位置づけなど、残された課題も多い。なお、本県の文化財行政は、戦前は内務部社寺兵事課などが担任したが、戦後は教育委員会社会教育課を長らく主管課とし、四八年には文化課が設置され、さらに五六年四月からは文化振興局に組織がえしてこれに含まれている。