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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 近代演劇と常設劇場

 定小屋が本格的な建築となるのは明治一〇年代以後で、それまでは小規模な仮建築であった。明治一一年頃、三代目中村仲蔵一座が阪東三津五郎・中村梅太郎・尾上梅堂・実川勇次郎・尾上多賀之亟・相島小六・市川蝦太郎らの名を連ねて松山での最初の町内興行を打ったのは西堀端大神宮付近での小屋掛けであった。これが契機となって、翌年、仲田某らが魚町に松玉座を、次いで白川親応が三番町東栄座(のち、白川座・寿座・国伎座・国際劇場)を建築した。東栄座の柿落しには市川蝦三郎・中村駒之助・中村芦雁・嵐鱗昇らの千両役者を招いた。一説に尾上多見蔵が石川五右衛門を演じたともいう。一五年ごろ道後八幡宮(伊佐爾波神社)下に蜂須賀兵蔵が松ヶ枝座を設け、二〇年一〇月には佐治仙太郎らが小唐人町に本格的な劇場として新栄座を開いた。柿落しには市川右団次・市川鰕太郎・中村芝之助・市川右田作一座が来演し、一三日から二〇間、一〇回の芸題替りで橋供養文覚上人・加賀騒動再度梅鉢・四谷怪談などを演じ、連日大入りを続けた。東栄座開設と前後して府中町の簡野席、小唐人町の遠山席の寄席ができた。遠山席は少年正岡子規が講談を聞きに行った寄席で、のち改良座となり、二二年に壮士芝居川上音二郎が来演し、改良落語として末広鉄腸の『雪中梅』を題材にして話したが、人気を博したのはオッペケペー節であった。二四年にはヘラヘラ節の落語家桂文治、その後、三遊亭円朝なども来演した。他に魚の棚の城野席などもできたが、いずれも明治末年には姿を消した。松前町(松山市)に劇場朝日座(のち、遊亀座)ができたのは二六年で、柿落しには市川右太次をはじめ嵐橘三郎・市川荒五郎・尾上多見之助・中村七賀之助らが来演して大当たりをとった。壮士芝居が松山に来演したのは二五年で、上田宗太郎が芸題に「思ひきや親子の再会」を掲げ歌舞伎芸題になじんだ観客に新鮮味を与えた。松山市駅の東に大西座が開場した。柿落しには市川右団次が松山三度目の来演であった。四二年七月改造して末広座と改称した。三〇年四月、新派大橋鉄舟らの敷島義団一座が新栄座に来演したとき、砥部町の小坂勇一少年は加入を懇願し許されて小坂幸二と名乗って舞台を踏んだ。のちの井上正夫である。明治二一年一〇月二一日付「豫讃新報」の「芝居だより}は「さきに新栄座にて興行せし木村新演劇の顧問たりし藤井一郎は今度座頭として一座を率ひ且つ東京より五名大阪より五名の俳優を加へ宇和島市大手通り融通座にて興行することとなり昨日同地へ乗込みたり四十余名の同地有志家及び侠客三十余名の芸妓は同地波止場に一座を迎へし筈なり△松山三番町の時子一座は休業中の処昨日開演せり折柄雨天のため休養中の兵士等見物に行く者多く却々好景気なりき」と県下の演劇情報を載せ、「吉田片言」(北宇和郡)欄には「△浮れ節 昨卅一日より当町裡町劇場に於て興行好人気なり」と伝えている。
 特異な演劇場に別子銅山の小足谷劇場があった。別子山村旧別子の目出度町に明治三一年に建てられ、毎年五月の山神祭礼三日間は歌舞伎の名題をはるばる京都より招聘して上演し、二〇〇〇人の鉱夫たちをうならせたという。いま、旧別子のすべては廃墟となり、鬼哭啾啾として岩肌と礫を残すのみである。明治期、松山に来演した大芝居に、阪東太郎・市川市十郎一座、市川左団次・阪東秀調・中村又五郎・市川寿美蔵・市川松蔦らの一座がある。川上音二郎一座は三八年にハムレット、四〇年にはオセロを新栄座で上演した。三八年の来演時、音二郎は病気であったので高知から駕で来松したが山本喜一が代役を務めたという。ちらしには「セーキスビヤ四大悲劇之内土肥春曙氏山岸花葉氏翻案ハムレット六幕九場」とある。巌谷小波作の喜劇「うかれ胡弓」はわが国における児童劇の祖といわれるお伽劇で、貞奴が少年に扮して登場し喝采を博した。「玉手箱」と差替上演であった。「開幕時間の如きは一分の差もなく又入場料は一人の價と極め候に付」と定刻開演・桝席買切不必要を告げている。明治初期の遊芸稼人と挙げられた「小唄 浄瑠璃 笛 尺八 太鼓 琴三弦 琵琶 舞手踊 軍談 落語 チョンガリ 人形遣手ヅマ(明治一二年県予算雑種税)」の庶民娯楽の頂点に位置する本格的演劇は歌舞伎・新国劇であった。人形浄瑠璃も根強い支持があった。『愛媛県警察史』(第一巻)は明治後半期の諸芸「興行度数」を掲げている。明治期来演の大芝居一座に阪東太郎・市川市十郎の一座があり、市川左団次・阪東秀調・中村又五郎・市川寿美蔵・市川松蔦らの一座があった。大正期に入ると、市川千成(融通座)井上正夫一座(新栄座)近代劇協会(上山草人ら・寿座)芸術座(島村抱月 松井須磨子・新栄座)新国劇(沢村正二郎・新栄座)中村雁次郎・松本幸四郎一座(新栄座)などが来演した。
 「愛媛新報」は大正二年の井上正夫一座来演について

   「五日を初日として興行=(五月三日付)腹で見せる井上の藝風△飾る故郷の錦(紀伊旅館主人談)=(五月五日付) 想ひ出多き故郷の自然△錦を飾る井上正夫……十七の歳に故郷を飛出して今年三十二歳の井上正夫は十六年振りに懐かしい故郷を訪れた、四日の午後船が高濱港に着いて遥かに若葉茂るたばこ山の天守閣を仰いだ時には情に脆ひ藝術の子の血は燃へた。汽車で森松駅まで乗通し一分間でも好いから故郷の土「顔写真」が踏みたいと云ふのであったが、松山の歓迎準備もあるので其日は松山に一泊し、翌る五日矢の如き帰心を青麥吹く風の心路好き俥に乗せ、松山街道を砥部に走らすのであった、伊豫郡砥部村の有志數十名は此の誇りある若い藝術家を迎ふ可く早朝より歓迎旗を翻して森松駅に待受け、俥を連ねて華やかに砥部へ帰った、十年一昔昔桑田蒼海の変に井上の新しい感想は深かったであらふ、嬉しきは夫よりも郷土を飾る成功の人を迎ふる人の心である。井上の幼な友達の語る處に依れば今日の成功は其の幼い時分から閃いて居たので、歳十二、三の頃同村の橋田陶器店商へ寄寓して居た事がある、家人が一寸油断すれば直ぐと井上が姿を隠ので不思議に思ひ窃かに様子を窺って居ると裏の倉庫の中へ隠れ蓆つって獨り一生懸命に勘平の腹切を稽古して居る事もあれば、屋根の上に寝轉んで浄瑠璃本を耽讀して居る事もあった、彼れは斯の如く天性ひて芝居好きであったのであるが彼を商人にして立身せしめんと考へ居る彼の父は深く之れを憂ひ膝下に呼びつけ激しく叱り飛した事もあれば河原乞食の真似をして何うすると泣いて苦諌した事も一再では無かった、籬の花も時来れば咲く、天性は壓迫する事は出来ぬ、彼れが再三なる父の干渉に耐へ兼ね、必ず立派な俳優に成って見せると奮然起って郷關を去ったのは十七の春であった、爾来数年の放浪生活に現世の古惨を十分に嘗め尽し大阪へ出て初めて高田の書生になり天満座の奮闘に大いに腕を磨き、東京の劇壇を慕って木綿の着物に絣の羽織で上京し、伊井蓉峰の門下に加って真砂座に「女夫波」の秀夫を演じて東都の劇團を驚倒させ、尚ほ最近は日本の演劇史上に特筆大書すべき新時代劇協會設立の苦心に至るまでの径路は立志傅中を飾る美談である、彼れは斯う云う譽れを荷うて思出多き故郷へ帰ったのであるが、彼れの父も母も既に現世の人では無かった。彼れが澤山の郷党に擁せられ小さな墓石の前に立った時、地下に眠れる両親の霊も欣んだか、風無きに手向けの花がらがらと動いた、内藤鳴雪翁は同郷の縁故により「墓拂ふそれも涼しや舞壹顔」と云ふ一句を贐として送りたり

と記し、「海南新聞」も次のように報じている。

初日の藝題並びに役割左の如し△一番目露國文豪トルストイ『疑』全五場〈役割…略〉 △二番目エルクマン、シヤトリマン合作、桝清詳『ペルス』五勘〈役割…略〉△三番目益田太郎冠者作喜劇(女天下)四場〈役割…略〉※朝日座大操人形芝居吉田傅次郎一座六日目藝題假名手本忠臣蔵通し=(五月六日付) 故郷に飾る錦藝術家として成功せる……井上正夫 ※壽座政之助、延鶴、眼若一座の歌舞伎芝居本日よりの替り藝題前狂言肥後駒下駄大序より打かえし迄中幕生さぬ中四幕切狂言合邦辻合邦家の段=(五月七日付) 故郷に飾る錦(承前)

 さらに、「愛媛新報社本社新築落成式余興(松山公会堂)井上正夫一座喜劇『保険嫌ひ』〈筋書・配役…省略〉」(「愛媛新報」五月八日付)・「『疑』と『ベルス』(上)新栄座の井上木村劇新しい劇の見どころ」(「海南新聞」五月九日付) 「『疑』と『ベルス』(下) ・『鈴』の鈴の音△底力の強ひ井上の村長」(「海南新聞」五月一〇日付) の記事もある。
 大芝居一座の地方興行は、それを願望する観客の期待とそれを可能ならしめる事業的採算のうえに成り立ったのであるが、具体的には松山をはじめとする県下の各地に常設演劇場が建築されたことが直接の要因である。誓座(土居) 寿美栄座・大江座・いろは座(新居浜)栄座・常盤座(西条)大和座(伯方)寿座(吉海)塩楽座・延寿座(菊間)新世界・今治座(今治)大正座・磯之若松座・柳楽座(北条)旭座(重信)名越座(川内)萬栄座・寿楽座(伊豫)鉱栄座(広田)福井座(久万)金壷座(小田)太陽座・朝日座(大洲)新富座(長浜)内子座(内子)天満座(五十崎)寿座(八幡浜)偕楽座・大黒座(保内町)港座(伊方町)中村座(三崎)朝日座(三瓶)栄座・明間劇場(宇和)天神座・蓬莱座(野村)衆楽館(城川)融通座・福井座(宇和島)丸井座(吉田)古藤福座・清家座(三間)巴座(松野)日吉座(日吉)などが規模こそ異なるが近代的設備を持つ演劇場として、明治の末から大正の初めにかけて建築・改築された。地方演劇場は活動写真の創生後映画館を兼ねることとなり、併せて政見演説や各種の集会場としても利用された。
 人形芝居は明治・大正期以降昭和に至るまで都市の劇場で興行したほか、農山漁村では小屋掛けで開演し「麦うらし」と称せられて親しまれた。阿波・淡路の吉田伝次郎・市村源之丞・市村六之丞・中村久米太夫・小林六太夫・上村源之丞らの一座は県下各地にその名をとどめ、ことに市村六之丞・上村源之丞一座は昭和一八年まで県下を巡業した。
 安倍能成(一八八四~一九六六)は、大街道新栄座で市川右団次の芝居を、少し長じて「へらへら踊り」をみたことをその著『我が生ひ立ち』(少年と演芸)に、早坂暁(北条市出身・脚本家・一九二九~)は「わが大正座」と題し「私の父は、四国の田舎町ながら一軒の劇場を持っていた。劇場と書くのは少し面映いのだが、木造二階建て、定員は七百名、花道はもちろん、廻り舞台まで備えた本格的芝居小屋だから、瀬戸内海に面した人口七千の町にとっては堂々たる劇場である。「小屋元」と言えば、私はタダで入場でき、舞台上手に近い、一段高い桝席に坐れた。その一桝が劇場主の専用席となっている。」(『小説新潮』昭和五九年一一月号「ダウンタウン・ヒーローズ〈日本巷的諸英雄〉」) と、また佐山五郎は「父は、かつて、わが家に浄瑠璃の師匠を招き、父を頭に村内の愛好者を毎夜集めて稽古した。いわば、わが家は浄瑠璃道場だった。それが昭和十二年、日華事変の勃発で、やむなく中断していたが、終戦になると、父は早速同好者に呼びかけて、わが家は再び賑やかな浄瑠璃道場となった。そのうえ、父は劇場を借り上げて、自ら歌舞伎の役者となって主演をし、本場の歌舞伎と見紛うような立派な演技を披露して、大喝采を博したものである。」(『大砲と車椅子』)と、それぞれの思い出を書いている。長浜町の長浜高校前に「二十三人慰霊碑」がある。明治三〇年四月一六日朝、京都の女歌舞伎一座(男八・女一五)が郡中港から長浜港に向かう途中、荒天怒涛のため肱川河口で全員遭難したのである。こうした悲話も演劇の一駒であるが、いまや語り継ぐことも少なくなった。三六年には松山に来る途中の東京新吉原芸妓の東婦人音楽隊一一名も芸予連絡船早速丸が沈没し溺死した。

表7-1 諸興行度数

表7-1 諸興行度数