データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 放送のあゆみ

NHK松山放送局

 日本放送協会の松山放送局は昭和一六年三月九日、松山市小栗町に開局、「JOVG」のコールサインでスタート、初代局長は小西次郎だった。同局の松山誘致に関しては、一〇年前にさかのぼる昭和六年から地元商工業者が中心になって運動を始めており、翌七年五月には伊豫鉄道社長の井上要を会長とする「松山放送局開設期成同盟会」が結成され、関係方面への働きかけが行われていた。これによって一三年春に内認可がおり、局舎用地は地元が提供することになり市当局を中心に検討した結果、小栗町の雄郡小学校跡に局舎が新築された。しかし開局したものの、間もなく太平洋戦争が勃発した。このためラジオの電波は発射地点を隠す必要から松山と広島が同一周波数となり、敵飛行機誘導の恐れがある天気予報もなく、ローカル放送はほとんど出来ない状態のまま二〇年八月の終戦を迎えた。この年一月、松山放送局は中央放送局に昇格していた。
 戦後、ローカル放送は活発化し、二二年五月には一般大衆の声を電波にのせる「街頭録音」が発足したが、二六年一〇月「八幡浜街録事件」が起こった。同月一八日、松山放送局は八幡浜市新町通りの路上で「明るい町をきずくには」の街頭録音を実施したが、その際、西宇和郡内の小学校教頭が「警察の取り締まりはコソ泥を捕らえるが大ドロは見逃し、町の顔役と慣れ合っている」という趣旨の八幡浜市警察署を非難する発言をした。同署はこの発言を「警察を誹謗するもの」との理由で、後日教頭に出頭を求めて取り調べを行った。このことに関し松山放送局では「言論・報道の自由に対する警察権の介入」という立場をとり、事件の真相を世論に訴えるべく報道活動を開始して全国放送番組の「時の動き」で流すとともに、一一月には再び八幡浜市で「街録事件をどう思うか」の街頭録音を行った。やがてこの事件は憲法が保障する言論の自由にかかわる問題として参議院地方行政委員会の取り上げるところとなり、八幡浜市警察署長を召喚して事情を質すとともに、警察官全体の反省を要望する申入書を大橋法務総裁以下の警察関係諸機関に手渡した。一方、八幡浜市警察署側は警察の威信にかけて終始その立場を譲ることがなかったが、やがて署長が陳謝して一か月に亘って世論を沸かした事件も決着した。この事件は日本の真の民主化が叫ばれていた時期において松山放送局が言論の自由を守る厳しい姿勢を見せたものとして評価された。翌二七年一〇月、松山放送局は二八年に松山を中心に開かれる第八回国体秋季大会に備え、主会場となる堀之内に演奏所を新築、とりあえず放送部の一部と技術部が小栗より移転、三一年には同所に松山放送会館が落成し、三二年に松山テレビジョン局が開局している。カラーテレビの本放送が東京・大阪で開始されたのは三五年九月からだが、その全国放送網完成は四一年三月、翌四一年一一月には新しい松山放送会館が落成、同局のローカルニュースがカラーで放送開始されたのは四四年一二月だった。そして四六年七月、松山中央放送局は「NHK四国本部」と改称された。
 昭和四八年はテレビ放送開始二〇周年になり、管内のカラーテレビ普及率が五〇%を突破、ローカル三〇分番組「チャンネル四国」が午後七時三〇分のゴールデンアワーに登場、愛媛県下のカラーテレビ受信契約数も二〇万台を突破した。この年の一〇月、第四次中東戦争が起こり、オイルショックで諸物価高騰の中で翌四九年早々からテレビ放送時間が短縮される。五〇年二月には四国本部制作のドキュメンタリー「皿の碑」が第一回放送文化基金金賞の番組部門で奨励賞を受け、五五年有料受信契約数は一〇〇万台突破、四月から「ニュースワイドえひめ」がスタートした。この年七月、NHKの組織改正があり、NHK四国本部は「四国管内担当松山放送局」に改称された。五六年の松山放送局開局四〇周年では、一月から記念番組「人間・正岡子規」の放送を開始、翌五七年一二月から音声多重放送を、五九年五月には衛星放送試験放送が開始されたが、六〇年以降は、衛星放送の本放送・文字多重放送・緊急警報放送などの開始に向けて取り組むことになった。

民放各社の登場

 愛媛県における最初の民間放送として、南海放送が本放送の第一声を発したのは昭和二八年一〇月一日、コールサイン「JOAF」、周波数一一二〇キロサイクルであった。本社は松山市松前町三○番地(現、松山市大手町一丁目)、送信所は温泉郡余土村大字市坪(現、松山市市坪)である。
 この年一月、愛媛新聞社内に「南海放送創立事務所」が開設され、同社長の平田陽一郎を発起人代表とする放送免許の申請が郵政省電波管理局に出されていた。九月には創立総会に続いて取締役会を開き、会長に伊豫鉄道社長武智鼎、社長に平田陽一郎が選ばれ、開局前日になって本免許が交付された。最初の番組は「愛媛新聞ニュース」だったが、本格的な報道はその月の二二日から松山市を中心に開催された第八回国民体育大会の実況放送であった。開局三周年の三一年には新居浜・宇和島の両ラジオ局が同時開局したが、創業時からの構想であったテレビ局の開局に取り組み、三二年には松山のテレビ局に予備免許がおりた。しかし、予備免許交付の条件に「新聞社の代表権を有する役員が南海放送の代表権を有する役員を兼ねないこと」があり、平田は社長を辞任して代表権をもたない会長となり、代わって取締役の山中義貞が二代目社長に就任した。山中は代議士、終戦時の愛媛新聞社長を務めたことがあるなど、県政財界・マスコミ経営にも豊富な経験があった。こうして翌三三年一二月、城山中腹に完成したテレビ局舎で南海放送テレビ(JOAFーTV)が誕生、一年後にはラジオとテレビの収入が逆転し、早くも経営は軌道に乗った。
 三八年に創立一〇周年を迎えた南海放送は、松山市道後樋又に新しい放送会館の建設に着手、翌三九年落成して、ラジオ・テレビともにこの新しい会館で放送を開始した。これを機会に企業体質の刷新が図られ、報道内容も充実、同年一〇月にはネット番組のカラー放送も開始、創立一五周年の四三年には初の海外取材班を東南アジアに送り込み「アジアに生きるえひめ」のシリーズ番組を制作した。この間、三七年の知事選に立候補のため会長を辞任していた平田は、四一年、山中社長の会長就任に伴い再び社長に復帰している。
 四八年一〇月には創立二〇周年を迎えたが、五一年には西塀端の一角に地上九階、地下一階の「南海放送本町会館」を建設、さらに五七年の創立三〇周年記念事業として、井門町の送信所用地内にあった「アンテナ公園」に「南海放送サンパーク」を建設、情報文化産業の多角経営に乗り出した。こうして六〇年代を迎えた南海放送は、ニューメディア時代に対応すべく、さらに情報化社会の基盤づくりに向けて新たなるスタートを切った。この間、五三年には平田社長が会長となり、後任社長に副社長の門田圭三が就任、平田は五六年に愛媛県功労賞を受賞、翌五七年末には会長を辞任している。
 南海放送は、創立以来三〇年に及ぶ報道活動の中で、数多くの優れた番組を制作して各種の賞を受賞しているが、ラジオ部門では三四年の「内海連絡船」が第七回民放大会賞で会長賞を受けたのをはじめとして、テレビ部門でも四五年の「ぷりんす号乗っ取り事件」が初めてNTV年間優秀番組の特別賞になるなど、主要受賞作品は五〇点を超える。
 一方、県内の民放事業は、昭和四四年一〇月四日、極超短波(UHF)テレビ局の愛媛放送が伊豫市の行道山送信所から試験電波を発射して第二の民放局として発足した。
 これより先の四二年、小林郵政大臣は「年内にUHF民放テレビ局数局を認可する」と発言。これに対して全国各地から新局免許の申請が殺到、愛媛県内でも一四社が四国電波管理局に開局申請していた。郵政省は四二年の第一次UHFテレビ電波の割り当てに続き、一県一民放地区の全部に電波を割り当てる方針を予定したため、県内でも申請一本化の対応が迫られ、知事久松定武と県議会議長佐々木弘吉が一四社の調停に乗り出した。一本化調整は申請各社間の思惑もからんで難航したが、最終的に新会社「愛媛放送」を設立することに決し、野村馬社長(元県副知事)以下の取締役員が決定、四四年一一月に予備免許が交付されて開局の運びとなった。コールサイン「JOEI-TV」、愛称「テレビ愛媛」。一一月には松山市真砂町に本社社屋が落成、開局の年は第三二回衆議院議員選挙の開票速報で慌ただしく過ぎ去った。
 「県域放送」として豊かなローカル性を打ち出したテレビ愛媛は、少数精鋭主義をもって番組編成、ニュース制作に当たったが、開局当初からの自主制作「日曜ローカル」「くらしと県政」などが地域のニーズに応える番組として好評、四七年には初の海外取材をグアム島で行い、「還らざる英霊一〇〇〇柱」の報道特番として放映した。このころから先進の南海放送に「追いつけ、追いこせ」の合言葉が実績となって表れはじめ、経営状態も好転している。経営陣では初代社長の野村が五〇年に健康上の理由で退いたあと、後任社長には副社長の野本茂がなり、さらに五二年には取締役の佐々木弘吉と交代、同時に社屋の増改築に着手した。この年、長期シリーズの番組「えひめ人その風土」がスタート、開局一〇周年の五四年には記念キャンペーン「美しいえひめ」を実施したが、七月に旧日本海軍戦闘機「紫電改」引き揚げを取材していたセスナ機が墜落、取材中の記者二人が殉職するという痛ましい事故が発生した。
 このころ、民放業界ではFM放送をめぐって全国的に新しい動きが進んでいる。愛媛県では五四年五月、松山地区に割り当てられたFMチャンネルの免許申請が三三社に及び、その一本化調整が知事白石春樹を中心に進められた結果、五六年一月になって免許申請は株式会社エフエム愛媛に一本化され、二月に予備免許が交付された。こうしてエフエム愛媛は五七年二月一日、民放FM局として開局、本社を松山市藤原町に建設した。社長は喜安虎夫。
 こうして愛媛県の放送局はNHK・南海放送・愛媛放送・エフエム愛媛の四つが競争する多局時代を迎えたのである。