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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 戦後の新聞

よみがえる自由

 昭和二〇年八月一五日、終戦の聖断は下った。翌一六日付の愛媛新聞トップニュースはこれを報じ、一七日のコラム「新々録」で敗戦に打ちひしがれた県民に生きる勇気を訴えたが、新聞自らもまた新しい局面に敢然と立ち向かっていかなければならなかった。
 敗戦後の日本には、連合国軍総司令部(GHQ)による矢継ぎ早の占領政策が発せられ、それはなによりも優先して実施された。新聞に関しては、総司令官マッカーサー元帥が「日本に与える新聞遵則」の中で、報道の真実性を強調し、公安を守る事項、連合国の利益に反する批判、進駐軍に対する破壊的批判を禁止することだけにとどめ、すべての既存紙の継続、新たな新聞を自由に発行することを認めたうえ、新聞に対する過去の拘束を取り除いた。こうして新聞は本来の自由を取り戻したのである。
 愛媛新聞は一〇月一日を期して、朝日・毎日・大阪三紙との持分合同を解除、再び一本立ちの姿に帰った。翌二一年一月、GHQは軍国主義者の公職追放を指令、それの該当には戦争遂行の協力者として全国の新聞社の要職にあった者も含まれていた。愛媛県でも海南新聞社長だった香川熊太郎、伊豫新報社長だった大本貞太郎ら五人が該当者として公職追放となった。そして五月には戦後の民主的な愛媛新聞の新しい経営者として取締役社長に平田陽一郎が就任、その他の取締役陣に沢本勝・高橋士・阿部理平・松本鎮・松本享が選ばれたが、いずれも社員出身の役員であった。また戦災で焼失していた社屋も同年一〇月、旧社屋のあった大手町一丁目に復興した。
 この年、マッカーサー元帥は日本の新聞社が自発的に新聞連合のごときものを組織し、自らが守るべき信条を制定することが望ましいと述べた。この示唆に基づき、七月には社団法人日本新聞協会が設立された。同協会は新聞の使命が高い倫理水準によって結合し、職業の権威を高めるために「新聞綱領」を掲げ、「このプレスコードは、新聞本来の姿を具体化したもので、その言葉は新しいがその精神は古くて不変である。これによって新聞がその鏡を曇らせることさえなければ、新聞の使命は永遠である」とつけ加えた。この新聞綱領は、「新聞の自由」「報道・評論の限界」「評論の態度」「公正」「寛容」「指導・責任・誇り」「品格」の七項目に亘り、新聞が遵守すべき基本的な姿勢を明確にしており、これを実践するために誠意をもって努力することを誓っている。
 この時期、全国各地ではさきのGHQの新聞政策に基づいて新たな新聞発行の動きが活発になっていた。愛媛県においても二一年一〇月に今治市で「新愛媛」が創刊され、同じころに愛媛新聞の姉妹紙として夕刊の「南海タイムス」が宇和島市に本社を置き、松山市の愛媛新聞社で印刷する体制で発行された。しかし、新愛媛はその後経営難が続いて二六年五月には廃刊となる。また南海タイムスも発足後一年足らずして本社と印刷所の移転問題、社外資本と新役員導入をめぐって内部対立が生じ、二四年五月に至って愛媛新聞との合併を前提に廃刊となり、愛媛新聞は同年一〇月、別会社として「夕刊エヒメ」を発行、社長に阿部理平を送り込んだ。そして愛媛新聞との併読政策に成功、これによって愛媛新聞の発行部数は一一万五〇〇〇部を超えて四国一となり、二五年一一月には「夕刊エヒメ」の題字を「夕刊愛媛新聞」と改めた。
 こうして愛媛新聞は県紙としての地位を確立するが、その間、昭和二二年には全国の新聞に先駆けて「新聞週間」を創始、一一月一六日付の社告と社説に「わが国最初の新聞週間を実施」としてその意義を強調した。この試みは日本新聞協会による「新聞週間」制定の一年前のことであり、各方面で高い評価を受けたが、GHQ民間情報教育局長ニュージェント中佐は同紙の見識を称えるメッセージを編集局長あてに送った。これに引き続き、GHQ新聞課長インボデン少佐は、新聞週間中の同月一八日愛媛新聞社を訪れ、「日本に一つの新しいことを創造した。他の新聞はこのすばらしい前例に従うであろう」と賞賛した。愛媛新聞は、さらに二四年には社是を改訂、新聞の公器としての社会的使命を明らかにするとともに新たに次の編集綱領を掲げたのである。

 一、愛媛新聞は民意を体して健全な世論を育成し、平和と正義を基調とする真実の報道により民主社会の発達に奉仕する。
 一、愛媛新聞は普遍的信任機関として権勢にこびず暴力に屈せず恒に中道に立って言論の自由を守る。
 一、愛媛新聞は独立の総力を地方新聞として強く地方の福祉を推進するとともに視野を世界に展げて国民の光明となる。

戦後の愛媛新聞

 昭和二四年、愛媛新聞は戦後の画期的な事業として梅津寺海岸において水泳学校を開校、オリンピックのアムステルダム・ロサンゼルスの各大会で連続優勝をした鶴田義行が校長になり、以後毎年続けられるようになった。また、八月には読者投票による県内の八勝一二景を選定、観光愛媛の先鞭を果たすなど事業活動の面でも社業を振るい立たせた。しかしこの年、アメリカの極東政策が右転回したことに伴い、新聞界にレッド・パージ(赤色分子排除)旋風が吹き荒れ、愛媛新聞社でも八月に組合活動家を中心に八人の社員が解雇されている。
 「愛媛新聞賞」が設定され、県内の文化・政治・経済・社会の各分野にわたる功労者を顕彰することになったのは二六年、これに併せて四九年には「愛媛スポーツ賞」が新設される。また、二八年から『愛媛年鑑』が発行されるようになり、創刊八〇周年の三一年には「産業文化松山博覧会」を道後公園と堀之内の二会場で開催したが、昭和三〇年代は愛媛新聞の技術革新を促す時代でもあった。三五年、漢字テレタイプの全面採用によってそれまでの活字手拾いが姿を消し、新聞製作近代化のスタートが切られる。そしてこの年、全館鉄筋化の四階建て新社屋の新築が始まり翌三六年に完成した。
 昭和三七年一二月、終戦直後から社長の職にあった平田が翌年一月の県知事選に出馬するため社長を辞任、専務取締役の高橋士が社長代行となり、三八年七月社長に昇格、このとき選挙に惜敗した平田が会長に推戴された。平田は八幡浜市出身、戦時中の一七年、大阪毎日新聞から愛媛合同新聞の編集局長として入社、取締役・常務取締役を経て二一年に三七歳の若さで社長に就任、二七年には県下で最初の民間放送「南海放送」設立の推進役となるなど、文化人・財界人としての高い地歩を占めていた。高橋は二〇年に監査役総務局次長として愛媛新聞に入社、総務局長・営業局長・常務取締を経て三三年に専務取締役になり、平田社長の片腕として躍進する同社の基盤を築いていた。
 愛媛新聞創立九〇周年の記念事業として、戦後二回目の「松山博覧会」が愛媛県・松山市との共催で開かれたのは四〇年春だった。この年一一月、全日空YS11型機が松山空港沖で墜落する突発事故が発生したが、速報と詳報の紙面刷新を行い、郷土紙としての有利性を発揮した愛媛新聞の紙面は中央各紙を圧倒していた。
 昭和四〇年代の愛媛新聞は、日本経済の高度成長に支えられ、設備の近代化はさらに進み、紙面の内容も充実、大型事業が毎年のように企画実施される。その主なものは、カラー印刷の開始、第一回から引き続く「愛媛住宅博」、漢字テレファックス設置、社屋の第三期改増築、「愛媛サービスセンター」開業などで、この間、紙面に長期連載されて好評だった『愛媛県政二十年』をはじめ『明治百年歴史の証言台』『愛媛の女性一〇〇年』『古城をゆく』などが相次いで単行本として出版され、その数は十数冊となっていた。
 しかし、四八年末の中東戦争によって世界を襲った石油ショックは、日本の経済にも大打撃を与え、これを契機に高度成長時代は低成長時代へ移行、新聞経営の上にも厳しさが要求されるようになった。それまで唯一の県紙としての地盤を築いてきた愛媛新聞にとっても、五〇年代に向けての展望は容易でなかった。それに加えて、新興紙「日刊新愛媛」の台頭があった。

日刊新愛媛の創刊

 日刊新愛媛は、高知新聞が宇和島市で創刊した「新愛媛」が母体。高知新聞は早くから四国四県のブロック紙になることを目標にしており、その足がかりを愛媛県の南予に求めていた。そのため、二六年に御荘通信部、二七年に宇和島支局、二八年に松山支局を相次いで開設、二九年には「南予版」を発行して本格的な愛媛県への進出を開始した。そして三五年、本社を宇和島とする新愛媛を創刊、社長に宇和島自動車社長の村重嘉三郎を据え、幹部に自社の社員を出向させた。しかし経営は赤字が続き、発行部数も四九年までに二万部を超えることはなかった。さらに地元採用の社員と出向社員との待遇に格差が広がったことから労使対立のストライキが頻発するなどで経営が困難となり、他に譲渡せざるを得なくなった。このため高知新聞は来島ドック社長の坪内寿夫との間で経営権譲渡の交渉に入り、坪内は、本社の松山移転への協力、高知新聞による代行印刷、人員整理、株式の一括引き渡しを条件に経営の肩代わりに応じた。
 新発足した新愛媛は、五一年三月の臨時株主総会で代表取締役社長に坪内企業グループの河野良三、常務取締役編集担当に高知新聞から出向していた橋田幹夫がなった。同年七月、本社を宇和島から松山市西堀端の仮社屋に移転、翌五二年五月、松山市問屋町の新社屋に本社を移し、自社印刷を開始すると同時に題字を「日刊新愛媛」と改めて今日に至っている。
 昭和六〇年代を迎えた新聞業界は「ニューメディア時代」への急速な対応を迫られており、新しい時代に新聞が生き残るための模索が続けられている。県下の新聞も当然この時代の流れの中で自らが歩む道を求めるべく努力を行っているのである。