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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 藩政期から昭和初期

隆盛の庶民道場

 藩政のころ、伊予八藩は松山藩・明教館、宇和島藩・明倫館、大洲藩・明倫堂、吉田藩・時観堂、新谷藩・求道軒、西条藩・択善堂、小松藩・養正館、今治藩・克明館があり、藩士子弟の文武両道教育に力を注いだ。剣術、弓術、柔術、馬術、水練、鉄砲術など、それぞれの藩の教育に特徴があった。ただ、このような藩お声掛かりの道場より庶民一般に開放した町道場が隆盛を極め、一時は七〇を超えたことも見逃せない現象である。松山の常盤同郷会、西条藤田家の岡城館、宇摩郡土居町の山中家の鉾石館などがそれで、今も現存している。しかし、どうしても剣術指南が表看板で、他の武技修練は付随したものとして見下されたのは致し方なかった。弓術は松山藩御用の日置流が主流だったが鉄砲伝来で次第に儀式化し上流社会で栄えた。

学校剣道

 維新後、一時、文明開化の風潮に流され、武技は衰微しかけたが。世情が平静をとり戻した頃、松山中学校長草間時福は明治一二年(一八七九)武科を設け、武技を通じ教育の実践を試み学校剣道の先駆者となった。同二九年には久松旧藩主のお声掛かりで松山同郷会道場が造られ、前後して松山・西条・宇和島・大洲・今治の県立中学校、愛媛師範学校および私立北予中学校が剣術、柔術を奨励し始めた。このように武術を学校科目に採用される運動は早くから起こったが明治四四年随意科となり、昭和六年、漸く正科必修に文部省が採り上げたほど遅れたのである。

近代柔道の鼻祖

 柔術から近代柔道へ定着させた人は愛媛柔道の鼻祖、河東叡太郎・衛藤勝三郎・中田安市の三人。殊に河東五段は講道館主嘉納治五郎の直系門下生として母校松山中の教師をはじめ各学校、警察で柔道を指導し明治三四年から昭和四年まで柔道ひとすじ「伊豫の小天狗」の異名をとった。俳人河東碧梧桐の甥でもあった。しかし同三六年、松山市持田に武徳殿が建てられ記念演武会が催されたとき、演武種目は剣術四七組、武術四組と、まだまだ剣術に比べれば武術は低かった。大正四年、持田から出淵町の警察横に武徳殿が移転してからは警察・学校・青年一般が合同稽古に励み、練武復興の風潮となった。

野球開山・正岡子規

 そのかたわら、明治中期ごろからボート(端艇)、ペースボール(野球)、テニス(庭球)、サッカー(蹴球)など外来スポーツ競技が外国人宣教師や語学教授らによって伝えられ、たちまち上流階級の子弟たちをトリコにした。殊に愛媛の野球は明治二二年第一高等学校在学中の正岡子規が野球を覚え、松山に帰省し、伝えたのが最初とされ、同二五年に松山中学、前後し愛媛師範に野球部が誕生したのが草創期である。同三五年には野球に魅せられた松山中学生が創立早々の松山商業に転入学して野球部を創り、以来、一高や早・明各大学のOB達が育て上げ、愛媛を王国の象徴に仕上げた。かくて愛媛の野球はおよそ九〇年間、松山商を中心に、あるいは打倒目標として球史が刻まれていった。

ボート一○○年

 ボートは、明治二二年松山中学に端艇部が結成されたのを皮切りに宇和島・西条両中学にも創られ、同三四年、その三校が高浜沖折り返し八〇〇米コースで県下初のレースを競った。結局、松山中学が宇和島中学・西条中学を制したが、敗れた宇和島クルー本田正一が敗戦の悲憤を吐露した「思えば過ぎし夏の末」が現宇和島東高校ボート部歌として広く唄われている。翌三五年、今度は松山中学が宇和島樺島沖、直線一〇〇〇米コースで宇和島中学に雪辱を許し、その無念を東俊造・山本静野が「秋風そよぐ宇和島の」をつくり、これが現松山東高校のボート部歌として親しまれている。やがて今治中学が加わり大正一四年から始まった松山高校主催第一回近県中等競漕大会で香川・広島の県外クルーも交えて互いに覇を競い、さらに瀬田川・琵琶湖など全国大会制覇を目指していくのである。

相撲熱の盛り上がり

 学校体育として、いち早くドイツ・スウェーデン主流の体操科は置かれたが徒手体操、競走などが主で器械体操はまだ曲芸的として採用されなかった。日本古来の相撲も力自慢の見世物的として正式教科課程に程遠い受け取りかたであった。しかし地方祭礼、神社奉納相撲などは盛んに行われ、明治三五年には宇和島商業で体育の一環として正式に取り上げられ、同四四年一一月二五日に県立松山農業で中学相撲大会が開催された。
 大正二年(一九一三)には宇和島中学に角力課が設けられ、北予中学・松山農業・愛媛師範・松山商業・松山中学などにも相次いで相撲部が生まれ、さらに各地の青年会が学校以上に力を注いだ。北予中学は白川福義校長が自らマワシをつけての陣頭指揮で、相撲熱は全校挙げての盛り上がりであった。また先進の南予は大洲中学・八幡浜商業などでも小学生相撲大会が盛んに開催され賑わった。変り種では紳士相撲と称する会も流行し県庁、郵便局、宇和島正卯会、砥部体育会などが互いに対抗戦を挑んだ。近年。中予の高校で殆んど部が消滅したのは寂しい限りであるが、男女共学も衰微の一因であろうか。

相原正一郎

 明治四二年五月二日、道後公園外馬場を二〇周する「一一マイル長距離競走大会」が開かれ、並み居る職業人を尻目に愛媛師範学校生の武市通計が一位でゴールインしたことは愛媛のスポーツにとって画期的な出来事だった。なぜならば、この優勝を機に大正二年六月、愛媛師範に駆走部が誕生し県下第一号として計画的練習を始めたことが一つ。もう一つ、武市通計は、その後、景浦姓を名乗り、若き体育教師の相原正一郎を見出した。温泉郡三内第二小学校訓導であった相原を再三にわたり戸山学校における体育研修に派遣し、近代競技の理論と実践を学ばせたのである。その相原の熱情と研究心と体育ひとすじの人柄を高く評価した松山高校長由比質が、景浦通計に相原を同校体育教師に迎えたい旨、要請した。この全く異例の破格人事が実現し、青年相原は、愛媛の指導者として、以後大正・昭和にかけて愛媛のスポーツにカツを入れ、存分に腕を振るい象徴的存在となったのである。

県下初の総体開催

 大正八年開校したばかりの松山高校は持田町に翌九年、新校舎とともに四百米トラックがとれる県下唯一のグラウンドを造った。一一月二八日完成記念陸上競技大会が開かれ、翌一〇年一二月四日には第一回温泉郡小学校教員・児童陸上競技大会が開催された。参加選手一千人、観衆一万人、運営委員長はもちろん相原正一郎、大会長景浦通計であった。三津浜町少年音楽隊の演奏で、校旗を先頭に堂々の入場行進を展開、県下初の総合体育大会の開会式は大成功。フィールド競技の測定は尺貫法で、走り幅跳び一五尺八寸といった調子である。翌一一年の第二回は閑院宮殿下がご臨場になり参加者、観衆は倍増し、一二年第三回からメートル法が採用された。

道後運動場の完成

 大正一三年一一月一七日、伊豫鉄道が、かねて着工の祝谷一万三千坪に全国でも稀に見るスケールの総合大運動場を開設した。きっかけは同社役員会で井上要社長の甥で愛称井上の平さんが壮大なるスポーツセンター計画を提案し、自らの退職金を充当してくれと申し出たことによる。始めは誰も取り合わなかったが、最後は社長決断で実現した。まさに自由人平さんの面目躍如、といったところである。一般競技場(二五十米トラック)球技場(テニス、バスケットボール、バレーボール)水泳プール(五十米、飛び込み台付き)公認野球場(ラグビー、サッカーも)児童遊戯場などで総経費一二万円也。同グラウンドの管理・運営を委託された形で、愛媛県体育協会が組織化され、初代会長由比質(松山高校長)事務局長相原正一郎(松山高校教師)。それまで城北練兵場や道後公園広場、松高グラウンドなどで催された地域的、全県的スポーツ行事は以後、殆んど、この道後グラウンドで行われるようになった。かくて、昭和一六、七年までのおよそ二〇年間、まさに愛媛の総合スポーツセンターとして大きな役目を果たした。

「金ひげ」と「渋うちわ」

 女子体育の指導に情熱を注いだ金井滋雄(松山高等女学校)と竹田直一(済美高等女学校)の両教師は公立、私立のライバル意識を体育向上にうまく結び付け、そのハードトレーニングは有名で、県女の「金ひげ」済美の「渋うちわ」と仇名され男子校も震え上がるほどであった。そのため陸上競技、軟式庭球、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)などいずれも全国水準に達し、数々の全国優勝を成しとげた。大正一四年四月一二日、第二回日本オリンピック大会で済美高女は陸上の部走り高跳びで伊多美代子が優勝、同砲丸投げで清水文子は八米○三の日本新で優勝し、また前年六月の第一回大会軟式庭球で済美の田中サツヨ・渡辺晴子組が初の全国優勝を成しとげたことが大きな刺激となっている。戦後、女子スポーツが国体や各競技大会で男子を圧倒するパワーを発揮している源流はここに始まっている。

松高と高商

 大正八年開校の松山高校グラウンド・講堂・二五米プールなどは陸上・水泳・柔道・剣道・庭球の近県大会に活用され、県内外の中学生徒の水準向上に大きな役割を果たした。自らも松山高校水泳部が上田治・村上・稲葉秀三・村上真夫(旧姓三宅)など水泳日本一を輩出し、また全国高校大会で庭球、サッカー、柔道で優勝するなど県内チームに大いなる刺激を与えた。同一一年一一月三日神宮大会柔道個人で銅金一が全国優勝し松高スーパースターが誕生したが肝腎の団体戦で決勝進出六たびを数えるも宿敵六高に今一歩で涙をのみ昭和四年、創部一二年の雌伏を経て宿願の優勝をとげるや三連勝。その臥薪嘗胆の精進ぶりは今も語り伝えられる。大正一二年開校の松山高商は剣道で早くから全国高専大会で頭角を現し、昭和四年初優勝するや翌五年は九大、京大主催の両大会で二冠を果たし、同六年京大主催全国高専で二連勝、同一一年東大主催でも全国制覇をとげ名声大いに上がる。松山高商の柔道は剣道に比して雌伏の年月長く一五年、中部戦で同志社高商を降し全国高専決勝で強豪九州医専に染次の奮戦で快勝、十数年目にして初優勝をとげた。庭球、野球も数々の栄光に輝いた。

愛媛師範陸上駆走部

 大正二年、県下で最初に陸上駆走部を作った愛媛師範は大正初期から昭和初期まで松山中の後塵を拝していたが、昭和五年から黄金期が芽生え、県内はもちろん全国師範学校大会でも幾多の栄冠を勝ち得た。短距離の真木、山口、清家、ハードルの亀井、棒高跳びの多和、西田、三段跳びの田名後など陸上で鍛えられた選手たちは卒業後各地で指導者として活躍し後進を育てたから頼もしい限りである。

水泳の北中体操の松商

 松山高校・松山高商・愛媛師範の主催する各競技大会で力と技を磨いた中学生選手は、それぞれ全国大会に出場、好成績を収めた。水泳では昭和一三年全国中等水上二百米背泳ぎで松本進(松山商業)が初優勝、その前、同九年の全国中等水上東西対抗戦に門屋桂(北予中学)が選ばれ、この年女子では城北高女に水泳部が誕生した。体操は昭和一三年、篠永信忠部長率いる松山商業体操部が黄金期で種目別徒手で近藤操が優勝、同一四年西日本中等選手権大会で団体優勝を成しとげた。卓球は昭和九年から全国中等大会で大活躍の相田キミエ(済美)の名は高く、三年連続出場して同一一年一一月四日の伏見宮妃殿下台覧試合で快勝、同一五年には後輩田中時恵・高市恵美組がついに全国制覇をとげたのである。

龍球の済美

 女子籠球(バスケットボール)界で全国に名を上げたのは済美である。昭和二年日本女子オリンピックに再三出場し、同六年七月ついに宿敵の愛知淑徳を破り優勝した深夜に亘る熱戦は今も語り草となっている。済美はこの年日本代表として訪韓し、一二戦全勝で親善の役を果たした。こうみると、やはり男子の活躍は中等野球が派手にアピールし、一般競技は女子の健闘が目立った。

サッカー

 松山高校のサッカーは大正一一年に部結成、一四年の第二回全国高校大会で初優勝し暫らく鳴りを潜めていたが、昭和一五年、第一七回大会では決勝で六高を破り一五年ぶりに二度目の優勝をとげた。この間、松山中学は石橋、愛媛師範・松山商業は「ノッさん」こと野沢浩の指導で中等学校の水準も著しく向上した。

ラグビー

 昭和五年、ラグビー競技がサッカーより約一〇年遅れて移入された。松山中学-三高-京都大学の名ラガー二宮晋二が病を得て帰省、まず松山クラブを同好の士で創立した。藤井謙三、鮒田忠一ら多くの友人たちにより松山中学、愛媛師範、松山商業、松山高校、松山高商、北予中学と次第に輪が広がっていった。四国では愛媛に移入されたのが最も遅く、一番早く移入された徳島に四国支部があり、全国中等ラグビー四国予選は常に徳島市で行われた。先進県である徳島県では脇町中学・徳島中学が強く、全国高校四国予選は高知高校が四国の雄であった。この四国の力べを破る戦いは八年がかりで、まず昭和一二年高専大会で松山高商が高知高校を破り、翌一三年中等大会で松山中学が徳島中学を破ってそれぞれ、花園、南甲子園への道を初めて拓いた。以後、松山中学・愛媛師範・松山商業がしのぎを削った。戦後は高校は新田、大学は松山商大が独占出場の形である。

鉄人走者

 昭和七年、全国中等陸上で前記の鉄人清家武夫(愛媛師範)は八百米で2分5秒2、千五百米で4分27秒2、千六百米リレーでも愛媛師範チーム(清家・小坂・亀井・山口)3分41秒8で、それぞれ優勝、清家は一人三種目優勝するスーパーぶり。さらに清家は東西対抗八百米で2分O秒Oの日本中等新記録を樹立、中村清の2分2秒2を破った。前年の六年全盛の松山中柔道部は全国大会で寝技の強豪津山中と引き分け優勝を果たした。同一〇年日本女子オリンピック水泳大会で城北高女が大活躍二百米自由形で越智幹子が一位、百五十米メドレーリレーでも、城北チーム(佐伯・恩地・藤田)が優勝し夕陽ケ丘と総合得点で同点一位を分ける奮闘を示したのも特記されるべきだろう。

ボートの全国制覇

 全国中等漕艇大会で宇和島中学の初優勝は大正一四年、昭和九年には今治中学が初優勝、さらに同一〇年、松山中学が宿敵米子中を降し初優勝を果たした。戦前すでに三たび全国制覇、ボート愛媛の伝統は築かれていた。