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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 宇和島藩その他の能

一〇万石の格式

 宇和島藩伊達家は吉田藩三万石分知で実質七万石になったが、一〇万石以上国持大名並の格式を張っていて内情は苦しかった。寛文三年(一六六三)五月一二日付けの次の記録がある。

 保生太夫勧進能二付御桟敷之義中出、日光御参詣被成候付、御取被成間敷旨二而、御聴合有之、追々御掛合在之、御老中より四品以上十万石以上御取被成候様ニと在之、何事も国大名衆並二被成来候間、桟敷為御取可然等申来、桟敷御取被成、殿様ニも七月廿四日御出被成、唐桟厚板一重、銀廿枚、太刀折紙、太夫江被下。御掛合其外委記在之、
               (伊達家史料「宗利公御代記録書抜」)

 江戸時代の勧進能には諸大名への桟敷割(指定席)があるのが慣例の様であったが、この時の宝生太夫の勧進能に、日光参詣をするので桟敷は取るまいと思うがと幕府へ問い合わせた所、老中から「伊達家は従来何事も国持大名並みの格式であったから桟敷を取った方が宜しかろう」とのことで仕方無く取り、藩主も観能に出かけ太夫に引出物を与えて物要りだったと言うのである。七万石の身代で常に一〇万石の付き合いをせねばならず、内情は苦しい有り様がうかがわれる。

幕府の配当米

 既述の通り幕府抱えの能役者は、諸大名への割当配当米がその給与の半ばを占めており、宇和島藩の配当米は弘化二年(一八四五)には一〇万石大名並の三〇石であった。この配当米に関して、やはり寛文三年一〇月に次の記録がある。

  四座之猿楽御配当米、自今金壱両ニ米壱石五斗之直段、金ニ而可被納旨(彳に卯)出、(伊達家史料「宗利公御代記録書抜」)

 すなわち金一両=米一石五斗の割合で金納せよと幕府から命令が出たということであるから、寛文年間の配当米と同じ三〇石であったとすれば、以後金二〇両を納めよとの指令であった訳である。

宇和島藩の能

 他藩と同様に将軍宣下等を祝って大老、老中らを招請しているが、能楽接待の記録はないが、当時の実情から推せば能も催されたのではないかと思われる。三代藩主宗贇は、元禄一〇年(一六九七)二月一〇日江戸城中将軍綱吉の前で「天鼓」の能を演じており、地元宇和島では後日それを祝って家中惣出仕が行われている。天明元年(一七八一)一一月には金春惣右衛門(江戸・太鼓金春流家元)から来春四月大坂での勧進能について願い出があったが、その内容、処置については判っていない。五代村候は度々一宮(宇和津彦神社)、和霊神社へ参詣して奉納能や法楽能を催し、元文二年(一七三七)一二月武芸・学問と並んで囃子方の者が芸宜しき弟子を取り立てた時には弟子扶持を与えるとの触れを出している。六代村壽・七代宗紀には家臣に狂言相手をさせた記録があるが、果たして能狂言であったのか確認はできていない。なお宗紀は鼓を能くしたらしく、文政一二年(一八二九)四月と七月、家臣を相手に高砂・忠度・融の囃子と忠度・玉葛・融の能、一調松虫の鼓を打ち、天保二年(一八三一)九月大屋形様(隠居六代村壽)の古稀七〇の祝に老松・春栄・猩々の囃子を奏している。藩例で毎年正月三日、野追とともに謡初が現市内来村にあった御薬園で行われ、年男が選ばれ下賜品があったが、後には城中で行われる様になった。城中には舞台之間があり、別荘の浜御屋敷とともにたびたび催能の場となっており、能舞台があったかと思われるがその規模や様子は判らない。藩の祝や藩主のお好み、更には家臣宅へも赴いて能を催し、侍中惣見やいわゆる町入能として寺社・町年寄・御用聞町人・吉田衆等が拝見を仰せ付けられてもいる。藩能役者についての明確な記録はないが、元禄一四年小鼓打山崎藤八が御歩行役に登用され、安永六年(一七七七)田北十右衛門が八〇余歳まで数十年間よく藩主の乱舞相手をしたとて虎之間出仕を命ぜられ、天保一二年(一八四一)東條弥平太が自作の笛を献上して感状をもらっている。また文政末年から天保初年にかけて、大洲にいた大供七之助という者が大屋形様(隠居六代村壽)の囃相手の家臣に稽古をつけていたが、費用がかさみ稽古が続きそうもないというので、家臣達へ毎年銀札五〇〇目ずつ与えられている。この大供は、のち宇和島へ移住したようで、藩から金剛太夫への手前を取り繕ってもらい藩主への目通りが叶っている。後には藩から費用として晒・袴・肩衣などを整える代金百四三匁が与えられている。これを見ると宇和島藩の能は、金剛流に何らかの関係があったものと思われる。この他藩主の狂言相手、乱舞相手を命じられた者は多いが、果たして能役者であったかどうかは明確ではない。

西条藩内の神能

 西条藩松平家の支配地新居郡沢津組の大庄屋小野家の文書(愛媛県立図書館蔵)の中に御神能番組がある。神能とあるから沢津組内のどこかの神社への奉納能であったものだろうが判っていない。時は安永二年(一七七三)頃以後のことと思われ、能は小塩・経政・鉢木・枕慈童・葵上、狂言は附子・入間川・法師母・かま腹が演じられており、能役者は名前ばかりで姓が記されておらず、いかなる能役者か、何流かも判らない。西条藩にどのような能楽基盤があったものか今後の解明を俟ちたい。

大洲藩の能

 二代藩主加藤泰興は観世暮久を、三代泰恒は観世玄用を江戸から招き、ともにその道に長じたという(北藤録)。しかし、観世暮久なる人は観世家系に無く、九代家元観世黒雪の孫に藤十郎が剃髪して暮休と号しているから年代的にもこの人の可能性が強く、暮久・玄用は同一人ではないかと思われる。泰恒は将軍綱吉が柳沢邸へ赴いた時、所望されて舟弁慶を舞ったといい、歴代藩主皆相当に能楽を嗜んだという。なお江戸の観世大夫勧進能には、入場札は必ず大洲藩で特別に漉き立てた紙が用いられるのが例で、初日から千秋楽まで各日毎に漉き入れた草木の葉が異なっていたという。

今治藩の能

 享保年間(一七一六~三五)観世織部太夫の直弟子で謡・太鼓を能くした木村初右衛門正俊という者がいたとのことである(今治夜話)。また三代藩主定陳は能楽を好み自らもしばしば舞ったが、刃傷改易となった浅野内匠頭の遺品能面・能装束を悉く買い取り愛蔵したという(対揚遺芳)。