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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 松山藩の能

 六〇〇余年の伝統を誇る能楽は、江戸時代に武家の式楽となり、幕府は四座一流(観世・宝生・金春・金剛・喜多)の能役者を扶持して保護し、各藩もこれにならった。池内信嘉『能楽盛衰記』に依れば、慶応二年(一八六六)の幕府能役者分限調で扶持方能役者は総勢二二六人であり、その給与は扶持方一二二六人分、配当米三四九三石、地方一〇一四石余、切米一五八〇俵、金三九枚に上っており、この内配当米は諸大名に割当徴収したもので、禄高一万石について関東一石六斗五升、関西三石、北国二石五斗であった。弘化二年(一八四五)の配当米は、一六七大名、総額合米四四四一石七斗五升で、松平隠岐守(松山藩)四五石、伊達遠江守(宇和島藩)三〇石であった。幕府は将軍宣下や婚礼などの祝事には、数日間の能を催し、初日には町人に観能を許し「町入能」と呼ばれた。後には諸大名も祝って老中等を招請して能を催し、豪奢な接待をする様になり、荻生徂徠は「政談」の中で大いに苦言を述べている。
 幕府が観世流を筆頭としたので松山藩は遠慮してシテには喜多流を採り、ワキ下掛宝生流、大鼓葛野流、小鼓幸流、太鼓観世流、笛森田流、狂言大蔵流八右衛門派とした。一一代藩主松平定通は何の故か下掛宝生流を好み奨励したので、後には能の地謡まで同流で謡われるようになった。度々の将軍宣下を祝って老中らを招請し、また藩の祝事にも能を催し、藩主は幕府御能や将軍自身の演能を拝見し、元禄一一年(一六九八)二月二五日には四代定直が将軍綱吉の命に依て御前能に「小鍛冶」を舞い褒美をもらっている。これらは江戸でのことであるが、地元松山でもしばしば能を催し、定通の代には家中七〇歳以上の者を集めて能を見せること一〇回にも及んでおり、その度に料理や酒を下賜している。

招請能

 宝暦六年(一七五六)八月十五日、七代定喬が江戸城溜之間詰を命じられたのを祝い、翌年同席の大名らを招いて能を催し接待している。「丑十月廿六日 御同席様 御招請記」(内山家文書-愛媛県立図書館蔵)で、招待の大名、能役者、藩邸各部屋の飾り付けから料理献立まで細かく記されている。招待正客は溜之間詰同席松平讃岐守、井伊掃部頭以下一六名で、参上能役者は宝生大夫(一〇代九郎友通?)、喜多十大夫(七代員能?)、宝生新之丞らの外錚々たる人達である。能役者は囃子三番、小舞二番、一調六番、仕舞一〇番を勤め、招待の大名も仕舞、囃子を五番舞っている。家例に従って接待したとあるが、その内容から見て大名が客を招待して能を催すのは大行事で、その準備始末が如何に大変なことであったかその様子が判る。

町入能

 幕府が町人に観能を許したのを真似て、松山藩でも何回も町人能が行われた。中でも宝暦九年(一七五九)八月七日~一五日の五日間、松山城三の丸能舞台で行われた時、目付から町奉行へ達せられた書付の写は次の通りである。

  御溜間詰為御祝儀御能被仰付組之者井町方之者共江も見物被仰付候 左之通卯刻過より罷出可申旨           (長屋家文書-愛媛県立図書館蔵)

 右に続き五日間に分けて小頭、大年寄、御用聞町人、組方、寺院社人、山伏の人数及び神官氏名が記され、町方の者は二日間卯刻(午前六時)前に町会所へ集まり点検を受けた上で三の丸舞台へ罷り出で、張出しと白砂に区分されて拝見したことが記されており、両日共中入には料理・赤飯・餅・御酒を下されたとある。期間中の注意も達せられており、町方安穏・火の用心第一と心得、八月六日から一四日まで町々の夜回り警備が命じられている。演能は藩抱えの能役者だけでは手不足だった様で町方の者にお手伝いが命じられ、村上玄仙(笛)、高津勘九郎(鼓)の他、シテツレ四人、地謡五人の名が記されており、村上玄仙は七番、高津勘九郎は六番の能を囃しているから相当の腕達者であったものと思われる。五日間とも上天気で毎日能五番、狂言二番が演じられている。シテ高橋甚七は四代定直の元禄一三年(一七〇〇)正月、堤松斎が老年のため能方御免となり、替わって高橋が命じられており、宇高四郎三郎は正徳二年(一七一二)三月父喜太夫とともに能太夫に採用されて三〇人扶持大小姓番人を命じられた記録がある。ワキ吉田新助は世襲のワキ師で、初日の切能猩々のワキ吉田千之助はその子と思われ、明治前期まで生存した吉田寛古の幼名であろう。
 拝見が終わると町方重役連が、月番家老や奉行所へ御礼に参上し、記録は触状とともに箱に入れて町会所の倉へ保管されたと記されている。

下掛宝生流高浜本他

 高浜虚子の曽祖父雄蔵高年は、江戸留守居役在勤中に下掛宝生流六代家元の宝生新之丞に学び、能役者ではなかったが藩能の地頭を勤めたという。能筆で藩次祐筆も勤め、たくさんの謡本を書き残し後年高浜本と呼ばれて同流謡本刊行の定本とされたといい、その一部が次の如く愛媛県立図書館に保管されている。謡本六冊、乱曲一冊・百番冬至謡一冊・独吟抜書一冊・宝生新之丞流謡名寄一冊である。巻首、巻末等に署名があり、たとえば百番冬至謡巻首には「高浜雄蔵 天保十亥十一月改 百番冬至謡 天保十一子年四月江戸より□来」とある。全曲節付けがなされ所々型付け、装束付けも朱入りで記入された貴重な資料である。

大倉流衣裳附・全

 天明二年(一七八二)に玉井宗兌が、江戸で家元から書き写した狂言の装束付けの本で巻尾に次の署名がある。

  右狂言秘書於東、武大蔵八右衛門 以正本寫之 一切他見 有間敷者也于時天明二才寅歳季冬中旬 玉井宗兌  于時天保丑午歳二月上旬 竹田博方所持   (古川七郎氏蔵)

 筆者は家元から正本筆写を許された程の人故、狂言方として相当の実力者であり、藩抱えの狂言方以外には考えられず、前掲町人能の番組面に見える玉井某は当人であるかも知れない。所持者竹田博方については、幕末狂言方に竹田博文の名があり明治前期まで武術・神伝流水練でも名を残した人だが、年代的には博文の父が博方で玉井宗兌の弟子と思われる。内容は大半が狂言各曲の装束付けであり、他に名寄、所要人数、習物、間狂言などの分類も記されている。全曲で一六七番、各役の装束が詳しく書かれ、区別の為に朱引きが施され、作物(道具)は絵入りで形、寸法、配置まで精密に描かれている。この資料は、後年竹田博文の子文平が狂言を継承しなかったため、死蔵を惜しみ古川家へ寄贈したもので、日本で一流をなした狂言大蔵流八右衛門派の秘伝書として貴重なものである。

東雲神社の能狂言面等

 久松家代々を祀った東雲神社には、藩能に用いられた能狂言面、装束、道具類が保存されている。これは明治七年に寄附された(経緯後述)もので、古くは京極・蒲生家旧蔵の桃山時代のものも含まれている。愛媛県立博物館編の『愛媛県博物館資料総合目録-第2集』(昭和五四年)に依ればその所蔵状況の大要は次の如くで、大部分は県指定文化財である。
 能面(一五三面)―作者は世阿弥時代に既に名人といわれた小牛、下って江戸初期から中期の慈雲院、仲孝(下間少進)、是閑、友閑、洞白、河内、源助、近江等面打名人の秀作があり、中でも大獅子口(赤鶴作・鎌倉時代)は、京極家老臣堤氏が加藤清正から拝領したとの裏銘がある。しかしこれらも、別に青山御所へ献上された五〇面以外の残りである。
 狂言面(三九面)ー大部分作者は判らないが、桃山から江戸中期にかけての秀作が多く、特にうそふき、白蔵主(釣狐用)は小牛作との銘があり、後者には河野氏寄進の銘がある。
 能装束(一一〇点)―白朱子地椿樹万字ツナギ文様縫箔(桃山後期)、紅萌黄段花車蝶文様唐織(江戸初期)を初め江戸中期までの逸品が多い。
 その他―桃山~江戸時代の鬘帯(三六本)、腰桶(ニツ)、笛(二本)、腰帯(十数本)がある。

堀井仙助座の松山興行

 江戸時代四座一流の能は町人には縁遠かったが、元禄(一七〇〇)頃から関心が高まりこれに応じて「辻能」が現れた。その名の通り町の辻や寺社で興行したもので、大衆向きの趣向を取り入れて大好評を博し、能役者や歌舞伎役者が恐慌を来した程であった。初めは座の数も多かったが、宝暦(一七五〇)頃以後は大坂出身の堀井仙助座が主となり、「仙助能」の名さえ起こった。能役者と確執があり、嘉永四年(一八五一)若年寄の名で、江戸・京・大坂三都での勧進興行禁止の通達さえ出されている。松山地方へも再三巡業しており、高浜雄蔵が書いたと思われるその能番組が愛媛県立図書館に所蔵されている。概要を一覧表にすれば上記の如くで、五二年間に八回に上っている。興行場所の内、松前浜は伊予郡松前町と思われ、文化四年三津口興行の後では山越長建寺で一日別興行を打っている。味酒社は現在の阿沼美神社(松山市味酒町)で文化一三年には改築があり、一一月七日に遷宮があった。五穀神は、宝暦二年(一七五一)大林寺南側へ護穀神を造立した記録があるからこれを意味するもので、この天保で一二年時やはり改築があったのか、九月一〇日午刻(正午)棟上げ、申刻(午後四時)遷宮式と記されている。木戸銭は判らないが他の資料(三鷹市片桐登の発表)によれば、京都で桟敷一間金一歩百文、平場一畳二朱百文、一人割百二〇文とあるから、松山も似たものであろう。しかし二週間以上もの興行ができる程好評であったとすれば、松山地方の町方の能楽関心も相当高かったものと推測される。設備は小屋掛の様で随所に雨天での中止や延引が見られる。各興行に座員名簿があるが、平均して一五~六人で一日能五番、狂言三~四番を演じているから一人数役を勤め、中には一曲の中で三役を勤めている例もある。堀井仙助の確かな身元は判らないが、江戸の能役者であったともいい、宝生流家元へ下男奉公をしていて密かに秘伝をも習い覚えたとの説もある。九代目仙助が明治三六年に七六歳で没している通り、代々仙助名を継いでおり、松山興行は五、六、七代にわたっている。皆芸達者で石橋・道成寺などの大曲を年に五、六〇回も舞うほどで、歴代隠居名を金森惣右衛門と称している。

町方観世流

 安永五年(一七七六)味酒神社で町方の者が神能を催した記録があるが、藩士族の喜多流、下掛宝生流に対して、町方では観世流が謡われ、黒田鷺谷・黒田弥七郎・石手屋某(後出、藤井源次郎の祖父)らが中心であった。あるとき黒田弥七郎が京観世の名門片山九郎右衛門の謡を聞き、松山と大いに異なるのを知って片山に請い、その若き門弟津田多造(茂尚)に春秋の出稽古を受ける様になったのが嘉永四年(一八五一)ころであった。津田は若年ながら活動家で、早速有力な弟子達を糾合して唱平社を作り、味酒神社に能舞台を造って能装束も新調し演能を計画した。藩士族の能楽人達は町方の分際で不届なりとして色々圧迫を加えたが、津田らは屈せず家元からも応援を請い、京都から狂言名家の茂山忠三郎(初代義直?)を招き、道成寺・乱などの大曲を演じて好評を得た。しばらく津田の出稽古が続いたが、津田の都合で明治九年まで途絶えることとなった。

表2-1 堀井仙助座松山地方興行概要

表2-1 堀井仙助座松山地方興行概要