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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 昭和前期の建築

石崎汽船本社

 文久三年(一八六三)創立の歴史を誇る石崎汽船が三津浜港の近くに大正一四年一月、本社を建設した。当時としては数少ない鉄筋コンクリート構造で、モダンな洋風スタイルが、今もなお風格を備え異彩を放っている。設計者、木子七郎は先に萬翠荘を手がけ三年後にこの建設の設計と施工に当たったもので、派手な様式建築から脱皮したゼツェシオン派のスッキリした近代化への意欲が窺われる大正時代の事務所建築の典型的なものである。
 建物は地下一階地上二階(陸屋根の一部に三階)延ベ一三一〇㎡、外壁は萬翠荘と同じ白色タイル張り、腰人造石洗出し、正面に並んだ柱型を浮き出し、玄関上に小柄な。バルコニー手摺りを張り出し、単純なレリーフをあしらうのみで装飾的なものが少ない。内部一階は天井の高い広い事務室で大理石のカウンターが人目を引く。二階は応接、社長室等に分かれマントルピースやシャンデリヤの飾りで、室内を豊かな意匠に配慮している。

今治南高校本館

 今治市常盤町の国道に面して今治南高校がある。四阪島に移った別子銅山精錬所に対する煙害闘争の賠償を資金に大正一五年に町村組合立越智中学校が創設され、昭和二四年に今の校名に変わった。初代校長が、出身校札幌農大の時計台を是非とも同校のシンボルとして取り入れたいとの希望から、建物の中央塔に掲げた大型時計が半世紀の時を刻み続けている。松山工業学校出身の宮内英一の設計で、二階建三階屋塔付、県下における鉄筋コンクリート造の学校建築の嚆矢であり、最近同窓会を中心に保存の動きが出ている。

日本メソヂスト教団卯之町支部

 宇和文化の里として県指定となった宇和町卯之町の古い伝統の町並みに一際目立った洋館が建っている。大正一五年に建築した教会と附属幼稚園である。大正の初め、進取の気に燃えた卯之町の青年五名がはるばる新島襄を慕って同志社英学校に学んだ中の一人清水伴三郎が自邸と私財を投じて大正一一年に幼稚園を開き、四年後にフランク宣教師の構想をもとに木造洋瓦葺の西洋建築を新築したものである。玄関が四階建の屋塔となり、今も高く掲げた十字架に当時の燃え立つ信仰が象徴されている。清水は一族を挙げて教会事業に尽くし、また町長に選ばれて蚕業の振興や学校建設、町の拡充や福祉事業に心血を注いだ貢献者であった。

伊豫銀行吉田支店

 吉田町本町の商店街の中程にあるこの銀行は、昭和二年に第二九銀行吉田支店として創建され、昭和九年に豫州銀行吉田支店、昭和一六年に現在の伊豫銀行吉田支店と三代の移り変わりのあった南予では最古の鉄筋コンクリート造二階建の近代洋風建築である。設計者は宇和島市旧市庁舎やキリン映画館を手掛けた鈴木丈八郎である。この工事を監理した玉田清(元愛媛建築士会長)の話では、この辺りは一面葦に覆われた沼地であったため、松丸太の杭打基礎を初めて採用した工事だといわれた。一階は営業部で、仕切られた出納室や小使室などの附属室が配置され、二階は吹き抜けで回廊を巡らしている。

松山測候所

 松山市持田の閑静な住宅地、知事公舎の東隣に昭和三年に新築された。当初は愛媛県の所管であったが、昭和一八年に運輸省へ移管し今日に至っている。階段室に掲げられた大理石の記録板に設計者の県技師戸村秀雄の名も刻まれている。珍しく記録文が英語で綴られていることは、気象観測機関が今日国際的な宇宙時代の欠かせない要素として発展することを予期したように受け取られる。
 建物は鉄筋コンクリート造二階建三階屋塔付の斬新な近代洋風スタイルであるが、屋塔の軒飾りや張り出たバルコニーに対応する時計台の枠取りや室内の円柱にローマ風な彫刻の装飾をあしらって様式建築への名残りを止めている。現在も重要な気象観測に活躍を続けている。

川之江郵便局

 国鉄川之江駅の南、国道一一号を北にした旧県道新町通りに南面して昭和三年に建ったこの郵便局は、当時、松山と琴平を結ぶ旧街道沿いに突然現れた近代洋風建築として人々の注目を集めたものである。往時、土佐藩の本陣とされた屋敷跡で、二〇〇年前に築造された練塀の中に旧局舎と局長住宅があったが、局舎を北に移した後に増築したもので、明治の擬似洋風建築の流れから昭和の近代感覚に進展した当時の斬新な姿を残している。建物のファサードは松山の石崎汽船本社の鉄筋コンクリート造によく似て建物の縦線を強調し、木造でスマートな表現を試みた大工や左官の造形意欲に敬意を表したい建物である。

愛媛県庁本館

 県都の中心、官庁街に松山城の緑を背景にして県下の代表的な近代建築の威容を誇る愛媛県庁本館がある。この庁舎は、昭和四年に完成して以来、満州事変・日中戦争・太平洋戦争や戦後の激動の風雪に堪えてきている。建築は中央に特色あるドームを配した左右対称の庁舎の典型的な構えで、外観はネオルネサンス様式が基調の荘重さと優美さを持つ四階建鉄筋コンクリート造である。新しく高層の第一・第二別館が隣設され、議事堂も改築された中にあって、時代の古さはあっても今も見劣りのしない風格ある姿が県政の発展を物語っている。
 正面車寄せから直接二階にアプローチする堂々たる玄関、大理石づくめの広いロビー、三階の正庁や四階の貴賓室等のデザインに折衷様式の繊細な意匠の配慮が払われ、過剰な装飾から脱皮しようとする近代合理主義建築の芽生えが見られる県下の代表的建築である。なお、設計は木子七郎である。

日本キリスト教団八幡浜教会

 八幡浜旧市街にある市庁舎、市民会館に隣接して、当時の牧師坂本師や榎本師の発起により昭和七年に完成された木造二階建、切妻造、洋瓦葺の教会である。設計者は近江八幡市に明治期から活躍した米国人ウイリアム・ボーリスである。建物は清楚な洋風で玄関回りと妻壁に簡単なレリーフをあしらっただけで、華美な装飾はなく、白壁の清浄さと二階礼拝堂の細長い尖頭形の窓が高く天を目指すゴシック様式を加味している点が教会建築の特色を表している。外階段を別に設け、直接二階の礼拝堂に出入が出来る点も機能的に配慮された良きデザインである。内部も祭壇回りや張り出したギャラリー等、室内構成に心くばりが見られ、扉枠、額縁などにも重厚な細工が施されている。半世紀を過ぎる今日、現存している数少ない教会の一つである。

住友倶楽部

 新居浜市北西部の星越山を巧みに借景した閑静な環境に昭和一一年に完成した建物である。同年には新居浜に市制が敷かれ、四国随一の港湾が完成するなど新居浜市の発展は目覚しいものであった。それに伴い住友関連企業も隆盛拡大し、社員や家族も増大して福利厚生施設の必要性が高まり、この住友クラブの建設となったものである。コミュニケーションおよび迎賓館的な場として、談話、食事、読書、会議、娯楽として囲碁や撞球、その他理髪入浴まで至れり尽くせりの設備で、しゃれたフランス料理も味わえ、現在は一般市民にも利用されている。当時としては住友王国を謳歌した贅沢な施設であった。
 建物は木造平家建一部二階、広い敷地に、庭園とのびのびした建物の屋根が広がり、落ち着いた豊かな洋風の外観を見せている。さすがに個性的といわれる長谷部竹腰設計事務所の往年のデザインが異彩を放っていたと思われる。外壁は入念なドイツ下見張り木目出し塗り仕上げや破風の出に方杖で受けた母屋を化粧に表した点、コテイジ風なユニークさが見られる。玄関ロビーには見事な帆船模様のステンドグラスを壁一面に嵌込みまず来訪者の目を奪う。広い食堂ホールの大きな硝子戸を開くと藤棚が覆うテラスに開放され、幾何学模様の庭園を眺めることができる。

愛媛県教育会館

 昭和八年、愛媛県教育会の総会で、県内教職員研修の場を目的とする教育会館の建設を満場一致で可決した。その建設資金は当時県内約六千人の教職員が毎月俸給の千分の一を五年間にわたって分納する寄付金と、松山市と温泉郡に住む教員の特別寄付によって賄う画期的な計画であった。敷地は松山城の東に走る電車通りに近い便利な地を選び、昭和一二年に折しも日中戦争が勃発した年であったが見事に完成した。
 建築は木造三階建に和風屋根を載せた近代洋風式で、一階は事務室、役員室、貴賓室、会議室、食堂兼応接室を配置し三階は張り出し桟敷、教育参考室、図書室があり、三階には張り出し桟敷が設けられている。設計は県庁技師浅香了輔の作である。

新田高校本館

 昭和一三年、古川静夫県知事は松山地区の中学校入学志望者が年々増加するのに既設の二校では対応できないため、当時の内外汽船社長であった新田仲太郎に強く懇請し、ついに昭和一四年、新田は私財を投じて松山市山西町に新田中学を創設したものである。開校当時は戦時体制下にあった影響で、質実剛健が校風となり、「少数のエリートよりも社会に役立つ多くの人材を」が新田理事長のモットーであった。
 敷地一〇万㎡の広さに伸び伸びした前庭をあしらった本館は、二階建一九三〇㎡、正面車寄せは二階まで吹抜けとなり高く並ぶ化粧柱や窓が竪の線を強調し、大理石やタイルや硝子ブロック貼りの端正な洋風建築は、地元の建築家後藤種一の得意とする設計である。玄関見附に勝田主計の揮毫の銘板が今も輝いている。