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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 大正期の建築

大正の建築

 第一次世界大戦は日本の資本主義体制を一層充実させ、商工業も目覚しく発展し、新興国家としての自覚が強まってきた。今まで西洋に追従して来た建築界は煉瓦造の洋風建築の学習と模倣に明け暮れしたが、大正期は自主的発展を目指し、新しい鉄骨、鉄筋コンクリート構造の出現によって本格的な近代化の時代といえる。学習を終えた建築家が外国人の手を借りずに活躍し、工事業者も企業的に成長して大規模な官公庁や、学校、工場などの建築が隆盛になった。大正一二年の関東大震災を契機にして、都市の不燃化が奨励され、耐震耐火構造法の研究改良が進み、制定された規準法は諸外国を凌駕するまでに至った。
 大正期の特徴となるのは建築界も成長し、大規模な建築に対応できるようになった、アメリカから高層ビルと百貨店建築が移入され、東京海上ビル(大正九年)をきっかけに丸ビルや三越などの建設が盛んとなり大都市はビルラッシュに賑わったことである。
 様式の主流は依然として西洋折衷主義の様式建築を引き継いだが、既に欧米で流行していた新傾向のゼツェション派や表現派の影響を受け、若い建築家の中に分離派と称する運動があり、過去の様式から離脱し、煩琑な古典装飾を破棄して簡潔明快な近代人の造型感覚にマッチした表現を提唱した。日本の象徴となる国会議事堂が大正九年より着工するまでその外観様式につき深刻な討議が交わされたが、結局は洋風折衷主義に決した。明治神宮絵画館(大正一五年)も同様な様式であるが次第に明治調からみると、近代的な合理主義のめざす簡明な意匠に移行した。一方、国家意識が高揚して、日本の伝統様式を生かした歌舞伎座(大正一三年)や神宮宝物殿(大正九年)の国粋建築が出現したが、重厚な唐破風の屋根を軽快な構造法の鉄筋コンクリートで模する建築的矛盾に対し轟々たる非難を受けたものである。

愛媛県の大正建築

 県下に初めての鉄筋コンクリート造として大正一一年に萬翠荘が建った。久松定謨の別邸であり、社交場にも当てられ、フランス風の優美な建築で県の文化財に指定されている。設計者の木子七郎(一八八四~一九五五)は、明治四四年に東京帝国大学造家学科を卒業したのち松山市出身の実業家である新田長次郎の長女と結婚したことから愛媛県内にも多くの作品を残し、石崎汽船本社(大正一四年)や県立図書館、松山高等商業講堂を建て、愛媛県庁(昭和四年)を手がけて愛媛の近代化に活躍した建築家として特筆に値する。これらの木子の作品には大正期の新しい分離派の様式に進む過渡期の様相が見受けられる。
 また県下の学校建築も次第に鉄筋化され、最も古い旧越智中学(今治南高校)が大正一五年に建設された。木造ではあるが大正一一年に建てた旧松山高等学校講堂が一棟だけ戦災をのがれ、現在は愛媛大学附属中学校の講堂に活用されている。他にホールがなかった当時は、講演や音楽会に利用され文化の殿堂としてアメリカコロニヤル式の端正な美しい姿で市民に親しまれていた。特殊な建物としては大正五年に建った内子座がある。回舞台を備えた歌舞伎調の和風の芝居小屋は今では稀少なものとなり、昭和六〇年に復元された。先に伝統的建造物群として国指定を受けた内子町八日市・護国の町並みとともに地元は積極的に保存と活用に熱意を見せている。
 宇和町には大正一五年、宣教師フランクの構想と地元の人望家清水伴三郎が私財を投じて建てた日本メソジスト教会がある。幼稚園を附属した清楚な洋風建物で、三階建の尖塔に高く掲げた十字架か古くから盛んであった町のキリスト教の歴史を物語っている。現在遺構はないが、大正六年に松山市古町に高層の大丸百貨店が開設された。東京三越本店がやっと大正三年に鉄骨造五階建て建築されて僅か三年後である。なお、驚くことは四階建築は鉄骨か鉄筋造りでないと許されないが木造で建てられたことである。エレベーターのある百貨店ということで松山の名所となったが、一〇年後に閉店し廃屋のまま戦災で焼失した。松山市の中心街が移動したことと、近代化の先取りを早まり過ぎたことが原因である。こうした街の盛衰は激動の時代には各地に起き、それを物語る人もやがていなくなることであろう。

萬翠荘

 松山城の南麓、当時としては市街を一望する小高い所に、深い緑に包まれ静かにたたずむフランス風の美しい洋館である萬翠荘が建っている。松山城を築いた後家老格の屋敷が建ち、明治二八年夏目漱石が松山中学校赴任の際この敷地に建った離れ愛松亭に二か月ばかり下宿したという。大正一一年、陸軍中将久松定謨が退役後ここに現在の別邸を建て、天皇初め皇族方が御来県の際の御宿泊所に当てられた由緒深い建物である。戦後、米軍将校宿舎に接収されたのち、松山商工会議所、家庭裁判所、愛媛県郷土芸術館となり、昭和五四年から県立美術館郷土美術館分館となり、愛媛の文化の殿堂として活用され、春にはバラ展、秋には菊花展が華やかに催されて県民に親しまれている。
 建築は三階建地下一階、フランスのネオルネッサンス様式で明治の文明開化期に風靡した西洋館を偲ぶ県下で最古の鉄筋コンクリート造である。屋根は鉄骨トラス構造マンサード型で頂部は緑にさびた銅板葺、腰屋根は天然スレート葺、外壁は白色タイル張り腰部は御影石洗出しでバランスのとれた端正な姿である。正面中央にバルコニーをのせたアーチ型の車寄りが張り出し、四方にコリント式の石柱を飾り立て外観を引きしめている。右隅は尖塔の形で聳え左右均衡の定型を敢てくずして新味をもたせている。久松家紋を嵌めた玄関扉を開くと広いホールに堂々たる万成石のギリシヤ式丸柱が建ち並び、正面に細緻彫刻をほどこしたチーク材階段があり、その踊場の壁一面に取り付けたハワイ特注の帆船模様のステンドグラスがまず眼を見張らせる。右の扉を開くと、最も見映えのする華美な客用広間と食堂がある。広間の壁はおそらく緞子張りと思える優雅な雰囲気、食堂は壁天井ともにチーク材のパネル造作の重厚さで、各室それぞれに大理石の媛炉や大型のシャンデリヤ、ロココ風の調度を配して当時の華やかな社交界を想い起こさせる。
 二階は独立した洋風の小室が配置され、一階に準じた内装をほどこし、バルコニー、化粧室、浴室が附属している。三階は鉄骨トラスが架かる小屋畏であるが、広い家財倉庫や空調機械室として利用している。設計者は木子七郎である。(愛媛県指定文化財)

旧制松山高等学校講堂

 松山市持田に旧制松山高等学校があった。その講堂が現在の愛媛大学附属中学校の校舎の中に残っている。当時は他にホールを持たなかった松山市民はこの講堂を唯一の音楽堂とし、愛好家に親しまれた。
 大正一一年竣工した木造二階建、屋根日本瓦葺のこの建物の設計者は不詳であるが、よく均整のとれた軽快なアメリカ風な近代洋風建築は、学問の殿堂にふさわしい秀逸な作品である。正面は簡素な八本の丸柱に支えられた車寄をゆったりと前面に張出し、表玄関を中心に両脇には階段塔をあしらい、全体の外観を端正なシンメトリにまとめ、ドイツ下見板張の外壁に上げ下げ窓が整然と並び、装飾的なものが余り見られないだけに清純さが感じられる。
 講堂内部は天井高八・五m、ステージを見降ろす二階ギャラリーが三方に張り出し、その支柱や手摺りなど幾可学的意匠をほどこし、広い内部空間を豊かにしている。当時の学生が破れ帽子に白い鼻緒の高下駄姿で「瀬戸の島山春たけて」の校歌を謳歌した叫びが今も響いてくるようである。

旧葵誠図書館

 陣屋として栄えた西条の陣屋跡は、現在周りに濠を巡らし、老樹に囲まれた西条高校の敷地となっている。古風な大手門を入ってすぐ右手に旧葵誠図書館(道前会館)があった。
 この建物は大正一三年に旧制西条中学創立二五周年記念として建てられたもので、旧藩主松平頼和によって葵誠図書館と命名された。その後、視聴覚教室、会議室と用途を変え、現在は一階が集会室、二階が和室として使用されており、名称も「道前会館」と呼ばれ、在校生、卒業生に親しまれていた。設計は当時の校長が松山工業の校長に依頼したと伝えられているが設計者は明らかではない。
 建物は木造総二階建(延べ二二九・五㎡)、屋根は寄棟天然スレート葺、小規模で単純な矩形の洋館である。明治期の洋風模倣時代が過ぎ、装飾的建築から近代化の合理主義に指向する傾向が台頭する時代で外部意匠は単純化されている。アーチ型のたて長い上げ下げ窓を一、二階に通して縦のラインを生かし、空いた壁面をタイルや吹付模様で埋めて外観に潤いを持たすことに苦心を払った瀟洒な建築であったが、昭和六〇年に新しく建てかえられた。

歴史的町並み保存

 日本は戦災復興、とくに高度経済成長期の野放図な都市開発の名のもとに、古い伝統的な建物を中心とする町並みや歴史的な景観の破壊が後を絶たなかったため、政府は昭和四三年に新しく文化庁を発足させ、保護行政を強化した。昭和五〇年には重要伝統的建造物群保存法の大改正があり、いわゆる歴史的町並みの価値と保存を、従来の単独の建物から建物群の醸す環境の面として拡げた点は画期的といえる。無秩序な個性喪失の町並みや集落から、調和と親しみある伝統を生かした町の保存修景が可能となったのである。既に京都、金沢、倉敷、妻籠など地元の積極的な町並み保存計画の実施と国の指導と補助を得て見事な開発の成果を挙げている。
 本県においても、喜多郡内子町はその伝統的景観を残す八日市の町並みに対して昭和五一年に町並み保存会を結成し、五二年から鈴木充(広島大学)にその調査を依頼した。その結果、全国屈指の歴史的町並みであると評価され、翌年に内子町は町を挙げて積極的な保存対策事業を推進した。五七年には文化庁より重要伝統的建造物群保存地区として四国では初めての指定を受けた。愛媛県もその地区を含む八日市の中心街一帯を「木蝋と白壁の町並み」と称する文化の里に指定したのである。

内子の町並み保存

 内子町の町役場などのある新興市街地(国道五六号)から山側の旧街道に入ると、古めかしい白い土蔵壁の家が軒を連ねている。この約七〇〇mにわたる八日市・護国地区が重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けた町並みである。内子町内子は中世から松山、大洲間の宿場町として開け、江戸中期より和紙と木蝋の生産で発展した。特に木蝋は新製法を発明し海外に輸出する盛大さで、町は繁栄し、本芳我邸(明治一七年建築)などの豪商の屋敷が目立っている。大正期に入ってパラフィンの普及で衰退し、県、国道が別に開通して一層閑静な住宅地となり、町の開発の破壊から逃れ、江戸、明治の伝統の香り高い面影がそのまま残って、指定の対象となったのである。
 内子町並み景観の主要な要素である古い建築の外観的な特色といえば、外面は軒裏、妻側に至るまで白い漆喰で塗り込め、壁面には様々の遥かに見通す線を引き、各戸の軒下の白い漆喰壁が散見してバラエティに富んだ町並みの風情を現していることである。一般の町家は長屋のように密接しているが、隣家の間に路地や測溝の空間を一mほど離して妻屋根が折り重なって見渡せるのは、内子の町ならではの眺めである。二階建が多く古い家は軒高が低く物置に使ったようだが、江戸後期からは天井を高くとり、二階座敷を設け、連子窓や塗り込め格子窓の意匠にこったり、両脇の妻壁にウダツを張り出し防火的配慮も見られる。特に袖腰壁にナマコ壁を多く使用しているのも顕著な特色といえる。これは漆喰壁が雨で流れるのを防ぐため瓦を貼りつけ、目地を塗り固めたものであるが、菱形、亀甲形の連続模様は単調な壁に鮮やかな装飾となる。豪華な本芳我邸には妻飾りに鶴や龍の彫刻を嵌めこみ、窓回りに波型の飾りをあしらうなど、昔の名人芸の亡んだ現今では真似のできないものである。その他古き時代の蔀戸や回転しておろす揚縁を家の表に取り付け、建築の時代性をよく表し、一戸一戸が個性を持つた町並みを演出している。