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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 寺院建築

如法寺禅堂 愛媛県指定文化財 大洲市柚木 如法寺

 大洲市に流れる肱川河畔の冨土山中腹にあって、大洲二代藩主加藤泰興が寛文九年(一六六九)に盤珪禅師を開山として建立した臨済宗妙心寺派に属する寺院である。
 この建物は桁行五間、梁間四間、平屋建入母屋造、本瓦葺である。寛文一二年(一六七二)に加藤泰興が創建したもので、和様、唐様の様式を巧みに取り入れた建築である。柱は円柱で粽をつけ礎盤を設け、正面に桟唐戸を備えた唐様の特徴を持ち、柱上の組物に出組を用い、柱間に蟇股をおくなど和様の手法がある。内部の土間は甎(平瓦)敷となり、来迎柱に架す大虹梁を左右の海老虹梁につなぐ手法など江戸時代の優秀な寺院建築である。

霊岩寺薬師堂内厨子及び須弥壇 愛媛県指定文化財 伊予郡砥部町岩谷口 霊岩寺

 砥部町岩屋口の山麓に建つ霊岩寺は右手に庫裡、左手に苔むす茅葺の薬師堂がある。その中に安置される厨子は桁行一一五㎝、梁間七五㎝、棟高二七九㎝、入母屋造で、柱は粽をつけた丸柱、軒は二重の扇棰、斗栱、肘木などの手法から典型的な唐様で全体は清楚な感じである。昭和三六年に解体修理が施された時、扇の鏡板裏に慶安四年(一六五一)建立の文字が見出されて、江戸初期の製作が明らかとなった。
 須弥壇は、幅二三六㎝、奥行一二五㎝、高さ九〇㎝で、幾重かの繰形が格狭間の上下対称に配され、高欄は中央の切れる端に架木をうねらせた蕨手型に止めている。これは禅宗様式で、厨子の様式と調和させたもので、総体に精巧な作である。

禅蔵寺薬師堂 愛媛県指定文化財 北宇和郡津島町上畑地 禅蔵寺

 津島町岩松より国道五六号を南下して間もなく右手の法林山の山懐ろにある一見草庵風の素朴なこの薬師堂は、天文九年(一五四〇)頃鶴ヶ森の鶴御前のため津島城主越智通孝が祈願寺として建立したと伝えられている。創建当時の室町末期の様式を残して江戸中期に再建されたと推定される。
 建物は方三間(五・六一m角)の方形造、軒一重疎棰、茅葺である。外回りは二方に濡縁を巡らし、柱上には組物は無く柱、軒、外板壁など極めて簡素な構えで、意匠的には正面入口両脇に禅宗様の火燈窓と簡単な向拝が張り出すだけで、室町末期から起きた茶席の民家風の名残りを偲ばせる。しかし、内部は唐様仏堂に見られるごとく、伝統的構造で、正面の来迎丸柱に大虹梁を架け大瓶束を立て、側柱に海老虹梁で繋ぎ、内陣は詰組の斗栱の上に組入天井を備えた立派な建物である。厨子は御堂再建頃の江戸中期の作で間口七二㎝、奥行五〇㎝、入母屋造桧皮葺、脇厨子を置き均整のとれた精巧な唐様の作で、高欄は鶴御前の寄進と伝えている。

松平定行の霊廟 愛媛県指定史跡 松山市祝谷東町 常信寺内

 松山藩松平家の初代藩主である松平定行を祀るこの霊廟は、松山市祝谷の常信寺の山腹にある。段々に高くなった奥の神域には瓦葺で菱狭間のついた連子唐塀を巡らし、その中に重厚な霊堂が建っている。建物は桁行梁間とも三間、入母屋造本瓦葺、妻入りの正面に唐破風をあしらい、内法長押に飾金物をつけ、三手先出組の上は軒支輪を回すなど和様を基調に唐様を取り入れた江戸初期の壮麗な霊廟建築を代表するものである。霊堂の前の拝堂も同じ様式で、平入り、前面に高欄をつけ、唐破風の向拝が一間張り出している。周りには数多くの石燈籠を配し、厚い築地塀が二重に境内を取り囲んで森厳な雰囲気を醸し出している。
 定行は伊勢桑名より松山一五万石に移封されて以来殖産に意を注ぎ、製茶、製紙を盛んにし領民から敬慕され、後年は東野の別荘に移り住んで勝山と号し自適の生活に入り、寛文八年(一六六八)八二歳で逝去した。

松平定政の霊廟 愛媛県指定史跡 松山市祝谷東町 常信寺内

 松平定政は定行の実弟で資性極めて高邁の士で、将軍家光に仕え能登守に任ぜられたが、家光の死去で家綱が立つと、定政は幕政改革の建白書を提出するとともに領地返上を申し出て上野寛永寺に隠棲した。幕府はこの行動を狂気のわざとして処断し、領地を没収し、身柄を兄の定行に預けて謹慎を命じた。松山での定政は、悠々自適の風雅な生活を楽しみ、不白と号し、東野御殿に隣接して吟松庵を営み、和歌茶道に余生を過ごし寛文一一年(一六七一)に没した。定行の霊廟に接して一間角の方形屋根でごく簡素な小廟が建立された。