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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 古代の遺構

飛鳥時代

 飛鳥時代に輸入された仏教建築は五世期頃の中国六朝時代の様式を受け入れたもので、従来の日本の建築に大変革をもたらした。主として造寺関係の渡来人の技術工によって作られ、想像もつかなかった立派な大陸式大伽藍が出現したのである。今までの掘立柱に草葺の屋根のみすぼらしい建物とは天地の差で、基壇の上に堂々たる瓦葺き屋根が聳え立ち、太い丸柱の上には複雑巧緻な組物(雲肘木など)を添え、内部は彩色鮮やかな壁画や金色の仏像が輝き、その壮大華麗な威容を仰いで当時の人々はどんなにか感嘆の眼をみはったことであろう。この時代の代表的な建築は奈良の法隆寺である。創建は推古一五年(六〇七)であるが大火(六七〇年)にあい奈良時代初めの再建とは言え、今日まで一三〇〇年の風雪に耐え、木造で世界最古の建築として厳然として飛鳥様式の壮大重厚な姿を残しているのは全く奇跡といえる。この時代の他の建築は殆ど消滅し、飛鳥寺、四天王寺に其の礎石跡をとどめるだけである。
 周桑郡小松町北川の法安寺境内に県下で最古の寺院趾が発見された。聖徳太子が道後温泉入浴に行啓(五九六年)された際、豪族の越智益躬が創建したと伝えられている。残念ながら今は塔跡とみられる一六個の礎石、金堂跡と推定される一四個の礎石、講堂跡の四個の礎石群が残っているだけである。
 調査によれば、塔、金堂、講堂が一直線上に配置された、いわゆる四天王寺式伽藍配置と推定された。また大量の瓦片が出土し、その様式は飛鳥、奈良、平安の各時代に及んでいるが、その中で素弁八弁蓮華文の軒丸瓦が出土していることから飛鳥時代に創建され、以後補整が重ねられたものと考えられる。本県の古代文化の究明と、地方寺院成立の歴史上極めて貴重な資料として国指定の史跡となっている。

奈良時代

 飛鳥時代に引き続いて寺院建築が全盛を極め、莫大な工事費と労力を要することから、国営化に移っていった。聖武天皇は諸国に国分寺および国分尼寺を建立する詔を発し、その本山として東大寺の壮大な大仏殿の建立が始まった。木造では世界最大の建築であるが、焼失のため現存するものは鎌倉時代の再建である。
 今日、奈良時代の遺構として白鳳時代の薬師寺東塔があり、天平時代の唐招提寺金堂、東大寺の法華堂などがあり、特に小規模ながら八角堂の夢殿や校倉造の正倉院は天平の面影をしのぶに足りる。
 飛鳥の建築の重厚な峻厳さに比べて、奈良時代の建築は日本人の趣向に合う柔軟さと明快な端正さがある。何分にも数少ない遺構による比較であって様式の本筋は飛鳥時代と余り変わっていないと考えられる。我々の祖先は初め異国建築の模倣であったが、その複雑難解な建築技術をよく習得、消化して、その後の日本建築様式の主流となった和様の基本作りに心血を注いだ傑作を残している。当時の工匠達の苦心の努力が窺われ、頭のさがる感がする。
 本県の仏教文化は東予地区と中予地区から発展した。考古学的な調査によれば、小松町や松山市を中心に古代寺院跡が三二か所も発見されている。その中で東予の今治市国分の地に国分寺及び国分尼寺跡がある。聖武天皇が天平一三年(七四一)に国家の安泰と国民の幸福をはかるために全国の国府のある所に仏寺建立の詔を発した事は史実で明らかである。その一五年後の天平勝宝八年頃に伊予国分寺が建立されたものとみられる。調査の結果で塔跡と認められる心礎を含めた一二個の礎石が発見され、また近くに回廊跡と推定される溝状遺構や柱穴が検出され、その他奈良から平安時代にかけての古瓦や土器類の多くが出土された。建築の全体配置や規模構造についてはまだ確認にいたらないが、奈良時代の貴重な寺跡として国の史跡に指定され、創建当時の威容が想像される。現在は金光山最勝院と称し、真言宗に属し四国八十八か所五九番札所国分寺で、江戸期に建立(一七八九)の本堂ほか諸堂が新たに建っている。
 中予の松山市を中心とした地域には飛鳥から奈良時代にかけて八か所の古寺院趾が集中して存在する事が明らかとなった。その中で松山市来住町にある現在長隆寺の境内外にある寺院跡が昭和四二年以来数度の発掘調査の結果、全く別の寺院である事が判明し、国の史跡指定にあたり、当地の地名をとって来住廃寺と呼ぶことになった。出土した遺構は心礎と礎石八個を持つ塔跡のほか、講堂の基壇の一部と玉石組の雨落溝が検出され、また僧房とみられる掘立柱建物跡や、総長八五mに及ぶ西面回廊も見出された。其の諸堂の配置は回廊を巡らした境内に正面が講堂となり、その前の左右に塔と金堂を配する立派な法隆寺式伽藍配置である事が明らかとなった。なお出土物から素弁十弁蓮華文や法隆寺式に類似する複弁八弁蓮華文の軒丸瓦、鴟尾片など多数の古瓦が見出され、七世紀後期の白鳳時代の創立が推定された。さらにこの寺院趾に重複して、六棟の掘立式建物跡が発見されて、弥生式土器の出土もあり、寺よりも古い時代の有力な豪族久米氏の居宅ではないかとの説がある。伊予の仏教文化や民家の発生に極めて貴重な資料を与えるものである。
 前記の如く県下には飛鳥の法安寺、白鳳の来住廃寺、天平期の国分寺と古代寺院が存在した事が明らかとなり、古い歴史を持つ伊予の昔の息吹きを感じるものである。

平安時代

 前期(貞観時代)は壮大な平安京の造営で、宮殿や仏寺の建立が盛んであった。仏教界では最澄と空海が唐より天台、真言宗をもたらし、密教の深厳幽遠な教えを反映して、比叡山、高野山の神秘的な深山に仏寺を営むようになった。特に四国讃岐出身である空海の修道の足跡を辿って後代に開かれた四国八十八か所の霊堂の多くは、この山岳伽藍である。前期の建築は殆ど焼失したため、現存するものは室生寺くらいで極めて少ない。
 後期(藤原時代)は平地伽藍も盛んに建ち、遺構も増してきた。新たに浄土教が流行し、阿弥陀堂建築が各地方にも盛んに普及する事になった。その代表的な建築は平等院と中尊寺で平安時代の特色をよく表している。平等院の鳳凰堂は美しい自然の景観との調和を配慮し、建物の均衡のとれた形に力点をおき、極楽浄土を彷彿させる飛翼形の優雅な建物である。また中尊寺金堂は周りに池や築山を配し、小堂ながら内外を漆塗り、金箔を張り当時の技術の粋を結集して、装飾に重点をおいた文字通りの金色に光る御堂として繊細華麗な建築である。
 本県には平安時代の仏寺の遺構は無く、鎌倉初期の建立である大宝寺に平安調の阿弥陀堂の面影が偲ばれるだけである。
 日本の伝統建築の主流は何といっても仏寺建築であるが、もとは大陸から輸入された異国建築であった。それ以前の日本古来から存在した古式神殿が日本の純粋な固有の建築というべきであろう。神社の最古の型は伊勢神宮の神明造と出雲大社の大社造で、その祖源は古く弥生時代の高床掘立式建物から始まり、古墳時代に形式が成立したものである。式年造替の習わしで一定年限を経ると建て替えられたので、創建当時の姿は明らかでないが、日本固有の素朴で直截簡明な素木造りの様式が神聖な姿を今日まで伝えている。
 飛鳥時代に仏寺建築が初めて伝来して、その壮大華麗さに日本人は驚嘆の眼をみはった。仏教が急激に隆盛をみて、見事な寺院が次々と盛んに建立するに伴い、従来の神社への大きな影響と変化をもたらした。
 奈良時代には神が仏を護るという神仏習合の説が生まれ、神社に神宮寺を設け、仏寺に鎮守社が置かれたり神と仏の結び付きの兆しが表れた。屋根にそりが付き、礎石に土台を廻し斗栱を組み、彩色をほどこすなど仏寺の要素が混入した。
 平安時代からは、神は仏の仮りの姿であると言う本地垂迹の思想からますます神社建築に仏寺の様式を取り入れ、楼門を設け回廊を巡らし、塔を建てるなど、仏寺との差異は殆ど認められないまでになった。神社建築に各種の形式が出現したのは平安時代の後期である。その主なる様式は流造、八幡造、などである。
 愛媛県における古代の代表的神社は、延喜式神明帳によれば、大社七、小社一七の計二四社が国からの奉幣にあずかっていたことが明らかである。古代の遺構は消滅して、すべて室町時代以降の再建であるが、それぞれの時代の様式に倣った姿を今日に残している。
 華麗な社寺建築が盛んに造営された反面庶民の住居は依然として貧しく簡素であったと思われる。しかし、都の貴族住宅や寺の附属家として寝殿造と呼ばれる様式が平安時代に成立したとおぼしき資料が残っている。庭に南面して中央に主人の間の寝殿をおき、左右と北側に廊下で連接する家族用の対屋を配するのが寝殿造の基本平面である。部屋には間仕切は少なく、屏風や几帳を隔てとし、板張り床で人の座する所だけ畳や円座を敷き、南に椽廂を出して、泉庭を眺めるような上流住居が絵巻物によって窺い知ることができる。原形は中国から移入されたと思われ、左右対称形であったが、次第と雁行形に変じ、次代の書院造に転じていく前身となる。