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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 先史時代の遺構

縄文時代

 愛媛に住むわれわれの祖先はいつ頃からどんな住居で生活していたのだろうか、愛媛の建築のルーツを知る上にも興味深いものがある。昭和三六年に四国山脈中の美川村上黒岩岩陰に遺跡が発見され、その洞穴に約一万二〇〇〇年前には我々の祖先が住んでいたことが判明したが、住まいは岩陰を利用した穴居生活で家屋らしいものはまだなかった。
 その後八〇〇〇年前頃は山奥の不便さと食料確保のため山麓に降りて住むようになった。山すそ台地にあたる砥部町の土壇原から四m四方の竪穴住居跡が発見されるなどし、三五〇〇年前の縄文後期になると県下各所に遺跡が急増して、二~三戸を単位とする集落が散在するようになった。当時の食料は狩漁の獲物や採取した木の実などにたより、住居も簡素な小屋であった。竪穴式住居といっても、約四m平方の狭い生活面で地面を五〇㎝ほど掘り下げて数本の掘立柱を建て、その上に井桁を組み、四方から垂木丸太を寄せかけて寄棟屋根を作り、その草葺が地面まで蔽った簡単な構造で、全国的な形式と同じものであった。この庶民の住居型は長く奈良時代まで続き、万葉集に「伏いほ」とか「醜や」と呼ばれたものである。現在でも農家の仕事場となっている土間(にわ)に其の名残りをとどめている。

弥生時代

 紀元前三世紀頃からの弥生時代になると、大陸より稲作の農耕と青銅・鉄器類が伝わった。人々の生活は飛躍的に向上し、人口は増加し、低湿地に定住することになった集落は次第に発達し、古代文化への黎明期に入った。
 この弥生時代に竪穴式住居と異なった高床式の建物の形式が全国的に発生し、その後の日本建築に重要な影響を与える事となった。県下にも県総合運動公園付近の遺跡調査で、四~五棟の住居跡に附属して高床式倉庫一棟が発掘され、これが基本的単位となった集落が各所に発見された。この倉庫は穀類の貯蔵と湿気や鼠害を防ぐために床を地面より高く上げ階段を設けた構えで南方系の建物に似ている。
 静岡県の登呂遺跡には弥生時代の代表的集落の竪穴住居や高床式倉庫が見事に復元された。むろん当時の建物は残っていないが、考古学上の調査や、各地より出土した銅鐸、鏡、埴輪等に表れた建物の形態を検討した上、当時の住居や生活を再現したものである。西条市武丈公園の東の八堂山一帯に弥生時代後期の住居跡三棟と倉庫一棟が発見され、当時の住居と倉庫を復元している。

古墳時代

 紀元三世紀頃から古墳時代に入り、農耕生活が進むに従い集落が発達し、その指導力を持つ長が生まれ、それらを支配する豪族が勢力を得て各地に小国家を形成するようになった。その王者たちの死後においても地上の権威を誇示しようとして記念的な大きな墳墓を造るようになった。そして、古墳の副葬品からその時代の建築に関連する貴重な資料も得られるのである。例えば群馬県茶臼山古墳より出土した八個の家形埴輪は、粘土製素焼の模型で実物とやや異なってはいるが建物の立体感がよく分かり、奈良県佐味田古墳出土の家屋文鏡には竪穴住居や高床式家屋が稚拙な表現で浮き彫りされ屋根や壁に使った材料まで識別される。香川県出土の銅鐸に簡単な抽象画のように刻まれた家屋の図には高い床に階段を設け、伊勢神宮の神別造の特徴である棟持柱を鮮明に表現している。これらの資料は原始時代の住居建物や古墳時代に形成された神社建築の原型を推定するに足る貴重なものである。