データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 洋画の発展

1 洋画の先駆

 近代愛媛の絵画で最も華々しい発展をとげたのは洋画である。明治文明開花の波に乗り、本県における洋画発展の口火を切った先駆者は下村為山、続いて中川八郎である。

下村為山

 為山は慶応元年(一八六五)、松山藩士下村純嘏の二男として生まれ、本名を純孝という。幼少より絵を好み、明治一五年一八歳で上京。初め岡松甕谷の紹成書院に漢学を学び、後、本多錦吉郎の画塾彰技堂に入塾。さらに、二三歳で当時洋画教育の中心人物である小山正太郎の不同舎に入り、引き続き洋画を専修する。明治二三年、第三回内国勧業博覧会に「慈悲者殺生」を出品し二等妙技賞を受賞。さらに、二四年の明治美術会春季展に「池辺秋暁」、同秋季展に「敗荷鴛海図」を連続出品し好評を博し、中村不折らと同門の四天王また双璧とうたわれ大いに将来を嘱望される。
 ところが、そのころ同郷の正岡子規と親しくなり、俳句については門弟、絵に関しては師匠格で互いに協力、啓発し合う仲となる。子規も幼少から絵を好んだが、子規の持論である南画優位論を、為山は徹底的に論破する。子規も負けずその論争はしばらく続くが、新鋭洋画家の専門理論には子規も歯がたたず、ついに屈服する。その時、為山の説いた写生論がやがて後年、子規畢生の事業である文学革新の旗印となる。一方、為山は子規の南画礼賛論を見事に粉砕したものの、その後俳画の研究に没頭し、改めて南画を見直し、次第に日本の伝統絵画にひかれ、ついに本業の洋画を投げうち日本画に回帰することとなる。彼は、従来の南画や伝統的な水墨画を徹底的に分析解体し、近代洋画の視点からそれを再構成して、独自の水墨画を創りだす。以後彼は一切の画流から孤立し、世評を外にその水墨を追い続け、現代日本水墨画の創始者といわれながら、戦後の混迷期、疎開先の富山県で、昭和二四年七月一〇日、八五歳で没す。

中川八郎

 八郎は明治一〇年(一八七七)喜多郡五十崎町に生まれる。幼少のころ父母を失い叔父に引き取られ大阪で育つ。初め州山と号し日本画を学ぶが、明治二八年、京都の勧業博覧会で日清戦争の油絵に感動し、洋画に転向する。大阪の松原三五郎に手ほどきを受けるが、二九年に上京、為山と同じく小山正太郎の不同舎に学ぶ。その後、画友吉田博とともにアメリカに渡り、個展で好評を博し、旅費を得てさらに渡欧、各地を歴訪して三四年に帰国。太平洋画会結成に参画し評議員となる。三六年に再度渡欧し、三九年帰国。明治四〇年第一回文展から第三回まで「夏の光」「北国の冬」「瀬戸内海」と連続三等入賞を重ね、第四回「岩壁」で二等賞を獲得。明治リアリズムの正道を行く風景画家として名声を博し、翌年三六歳の若さで文展審査員となる。大正一一年、三回目の渡欧中、ナポリで病にかかり帰途香港で重体となる。神戸入港三日後、大正一一年八月三日、四六歳の若さで没す。

2 洋画の先達

 為山・八郎の中央画壇における華々しい活躍は、郷土の洋画指向を刺激し、その指標とはなったが、為山は若くして日本画に回帰し、八郎も画業途中の病没で、郷土画壇への直接の影響は少なく、愛媛洋画の発展は次の世代を待たなければならなかった。やがて、その役を果たす人々は、東京美術学校卒業後この地に定住の塩月桃甫であり、それに続く教え子の藤谷庸夫、松原一、牧田嘉一郎らである。

塩月桃甫

 桃甫は明治一九年(一八八六)宮崎県西都市に生まれ、本名を善吉、木兆とも号す。明治四五年東京美術学校を卒業。大阪の小学校教師を経て、大正四年、愛媛師範学校の美術教師として松山に来住。翌五年、石鎚山を描いた「山越しの風」が第一〇回文展に入選、当時まだ揺籃期の当地洋画界に決定的な影響を及ぼす。彼の在任期間は以後わずか六年間であるが、後に本県洋画壇の中心人物となる藤谷庸夫、松原一らを育て、本県洋画発展の基盤を築く。彼はその後大正一〇年台北高等学校教授に転任、同地美術の指導者として活躍。戦後郷里に帰り、宮崎大学講師、宮崎県文化賞を受賞。昭和二九年、六九歳で没す。
 彼の作風は、若いころ、穏健な写実の傾向が多く、年とともに強烈な色彩でフォーブの傾向を帯び、晩年はルオーを思わせる重厚な作柄に大きく変化する。彼は、熱情家で、各地の文人墨客とも交友多く、奇行に富み、瓢逸洒脱、特に若い学徒の信頼を集め、教え子の藤谷・松原両名を母校東京美術学校へ送り込んで後継者とし、さらに牧田・三好ら本県洋画の後進たちに決定的な影響を与え、やがてその人たちにより、愛媛洋画の主流が形成される。

藤谷庸央

 明治二九年(一八九六)、伊豫市稲荷に生まれる。大正五年、愛媛師範学校を卒業。在学中から塩月桃甫の薫陶を受け、同八年東京美術学校に入学。卒業後、佐賀県三養基中学を経て、大正一三年母校愛媛師範に帰任する。その前年、第一回伊予美術展が開催され、その官展臭を批判して、牧田・三好ら在野系作家の対立展の動きもあり、愛媛の洋画は、ようやく活発な動きを見せ始めた時である。そこへ桃甫の衣鉢を受け継ぐ彼の帰任は、その動きに一層の拍車をかけることとなる。昭和四年、彼の第一〇回帝展の出品作「金扇」はそうした中で好評を博し、愛媛洋画壇における不動の地歩を確立する。以後、愛媛師範は大学に移行し、彼は定年までの三〇余年間、多くの後進を指導し、人材輩出。県美術界の主流を形成。その最高指導者として活躍を続ける。その間、白塔社・蒼原会愛媛支部・金葉会・愛媛美術協会・愛媛美術教育研究会(後に連盟)の創設および運営の中核となり、愛媛美術の振興に尽くした功績は極めて大きく、二七年、愛媛県美術会の創設とともにその最初の名誉会員に推され、昭和三〇年愛媛県教育文化賞を受賞する。
 彼の画風は穏健な写実、豊潤な色感で、人物・風景・静物いずれもよく、晩年は具象・抽象の接点をさぐり、また、仏像に傾倒し、典雅な画境を形成する。その人となりは、純逸直情、詩文をよくし、歌に絵に放逸洒脱、多くの教え子から親父と慕われ、昭和三八年一一月二五日、六八歳で没す。

松原 一

 明治二九年(一八九六)松山市山越町に生まれる。愛媛師範学校を卒業、塩月桃甫の薫陶を受け、東京美術学校に学び、卒業後、鹿児島第二師範学校教諭を経て、昭和二年郷里松山中学校図画教師として帰任。以後二二年間多くの俊英を中央画壇に送り出し、愛媛美術の振興に尽くす。愛媛美術工芸展の審査運営委員、二虹会主宰、松原洋画研究所主宰など本県洋画の重鎮として活躍し、愛媛県美術会創立とともに名誉会員に推挙さる。
 彼の画風は穏健な自然主義的写実、四国遍路を題材の作など、郷土に根をおろした絵画探求の姿勢がうかがわれ、その長身痩躯、飄々とした人柄とともに郷土人士に親しまれ、昭和四〇年七月二二日、七〇歳で没す。

牧田嘉一郎

 明治二七年(一八九四)、松山市萱町に生まれる。北予中学卒業後、叔父の和田英作をたより上京。同舟舎で小林万吾の指導を受け、帰郷後松山商業学校図画教師・松山高等学校講師として美術教育に当たる。昭和元年「六月の風景」が二科展に初入選。同三年三好計加、越智恒孝らと「青鳥社」を結成、湊町の米周呉服店で県下初の公募展を開催するなど、愛媛洋画の揺籃期に在野系の画流を導入し、活発な活動を展開する。当時、愛媛の洋画は塩月桃甫の影響を受けた藤谷庸夫を中心とする官展系(師範系)が次第に勢力をもち主流を形成していく。それに対し、彼らを中心とする在野系も劣らず、互いに対立・融合を繰り返しながら飛躍的な発展をとげる。彼は、いわばその一方の旗頭として、愛媛洋画の発展に大きい功績を残す。昭和二七年、愛媛県美術会創立とともに名誉会員に推され、三五年愛媛県教育文化賞を受賞、同年一〇月一一日六三歳で没す。

三好計加

 明治二九年(一八九六)松山市道後湯之町に生まれる。北予中学生時代から水彩画をよくし、二年間の東京遊学中も特定の師をもたず独学で通し、帰郷後は同志とはかり扶桑会展を開催。昭和三年牧田嘉一郎らと青鳥社を結成、松山洋画研究所を主宰するなど愛媛洋画の揺籃期に活発な活動を展開する。また、県下初の総合美術展である伊予美術展、愛媛美術工芸展の運営委員として、本県洋画の発展、後進の指導に尽くした功績は大きい。
 彼の画風は初期のフォーブ的表現から晩年の詩情あふれる牧歌的作柄まで変化に富み、その飄々の人柄は〝道後の仙人〟といわれ、地域の人々に惜しまれながら、昭和二一年、五一歳で没す。

越智恒孝

 明治二七年(一八九四)伊予郡砥部町に生まれる。大正三年愛媛師範学校を卒業、小学校訓導を経て同九年から昭和二四年まで県立松山高等女学校図画教師を務める。昭和三年牧田嘉一郎・三好計加らと青鳥社を結成。同五年、愛媛美術工芸展創設に参画。同年第一七回二科展に人選、同一〇年愛媛蒼原会結成に参画。同二二年愛媛美術協会創設委員・常任理事など本県洋画揺籃期の先達として活躍し、昭和二五年に没す。

河本一男

 明治三九年(一九〇六)松山市東野町に生まれる。小学校卒業後朝鮮に渡り、家具販売の兄を手伝いながら油絵を学ぶ。大正一四年、朝鮮美術展で特選受賞。昭和二年、東京に出て太平洋画研究所で中村不折に師事。同年最年少で第八回帝展に初入選。四年、太平洋画会準会員となる。以後松山に住み、玩具店を営みながら製作活動を続ける。二科展に二度入選、一八年以降創元会に所属。二一年愛媛美術協会の創設、運営に参画。二六年、同会役員四七名と連結脱退、愛媛美術連盟を結成、翌年合体して愛媛県美術会を結成。その間愛媛美術会の紛糾収拾に尽力する。二八年から県美術会の理事長を勤め、現在の県展盛況の基盤を築く。彼の画風は清新な写実、その穏健着実な人柄とともに、後進に慕われながら、昭和三七年二月二五日、脳溢血のため五七歳で急逝する。

木村八郎

 明治三六年(一九〇三)八幡浜に生まれる。大正一〇年上京。本郷絵画研究所に学び、岡田三郎助に師事。春台展、帝展、光風会で活躍。昭和一七年、文展出品作で岡田賞受賞、無鑑査となる。同一九年、大戦激化のため郷里八幡浜に疎開。八幡浜美術会を結成し地域美術の発展、後進の指導に努める。昭和二七年、愛媛大学講師、愛媛県美術会創設に当たり、初代理事長に推され、戦後愛媛美術の発展に大きい足跡を残す。
 画風は徹底した写実、それに独自の点描を加味し穏健重厚。豪快な酒、勇壮な談話で若者たちを魅了し、多くの俊英に慕われながら、昭和五四年六月二八日、七七歳で没する。

3 県外で活躍の洋画家

中野和高

 明治二九年(一八九六)、東京に生まれる。本姓は北野、仙台第一中学校卒。大正三年上京し、葵橋洋画研究所に学び、一〇年東京美術学校を卒業、同年帝展に入選。在学中、大洲中野家を継ぎ中野姓を名乗る。大正一二年から昭和二年までパリに留学。帰朝後、前田寛治・里見勝蔵ら創立の「一九三〇年協会」に参加。帝展にも出品して特選を重ね、昭和七年審査員となる。一五年、創元会を創立主宰し、戦後日展評議員を務め、昭和三二年の日展出品作「少女」で芸術院賞を受賞。その作風は色彩・形態の単純化、明快新鮮な画面構成を特色とし、人物画に独自の境地を開く。本県洋画の重鎮藤谷庸夫、河本一男らと親交を結び、本県出身の創元会会員、会友も多く、また、郷里大洲にも再三足を運び、面河・石鎚など県内各地を写生。本県の洋画に大きい影響を及ぼす。昭和四〇年三月八日、七〇歳で没す。

野間仁根

 明治三四年(一九〇一)越智郡吉海町に生まれる。大正八年上京、翌年東京美術学校に入学。在学中から童顔社など研究グループを結成し活躍。昭和三年、第一五回二科展で「夜の床」が樗牛賞、同四年、第一六回展で二科賞を受賞。五年に二科会友、八年に会員となる。そのころから「魔法の森」「かぶと牛と話す牛」など、童話的幻想表現で画壇の注目を集め、多面的な活躍をするが、大戦激化にともない、昭和一九年、郷里吉海町に疎開。瀬戸内海・星座・魚・貝などの快作を残す。昭和二七年再び上京し、改組された日展審査員を務める。三〇年、二科会を脱退、一陽会を結成主宰する。以後、森の妖精・外房風景・瀬戸内海・森シリーズ等、作風はますます絢爛、色彩は輝きを増し、日本の洋画に異彩を放つ。また、坪田譲治、佐藤春夫、火野葦平、石川達三、獅子文六らの小説挿絵にも自在の画境で好評を博す。昭和五四年一二月三〇日、七九歳で没す。
 彼の活躍舞台は、多くは中央画壇であったが、昭和一九年から二七年までの戦中・戦後の激動期を郷里吉海町に疎開、その明朗間達な人柄で郷土人士に大きい影響を与える。昭和二一年、戦後の美術活動再開に当たり、郷土在住作家とともに愛媛美術懇話会を結成、愛媛県代表美術展を開催、さらに続いて愛媛美術協会の結成にも参画。その識見と斬新な画風は郷土美術に新風を吹き込み、大きい足跡を残す。

八木彩霞

 明治一九年(一八八六)松山市に生まれる。愛媛県師範学校を卒業後、県内で教壇に立ち、大正六年横浜に転出。ドイツ人画家リデルスタインに師事。大正一四年フランスに留学、ソルボンヌ大学、グランショミール美術院に学び、サロン入選三回。帰国後は無所属作家として活躍、宮中の御用命も数度に及び、旧久松邸(現、愛媛県立美術館分館)の壁画も彼の作。昭和四四年一二月一四日、八四歳で没す。

柳瀬正夢

 明治三三年(一九〇〇)松山市に生まれ、本名正六。小学校入学前に畳一枚大の鍾馗の絵をかき、人々を驚かす。四四年、父とともに門司に移住。高等小学校の時、三宅克己洋画展に啓発され、独学で絵を学ぶ。一五歳で院展に初入選。日本水彩画展にも出品。村山槐多を知り、詩・小説にも手を染める。また長谷川如是閑の知遇を得て雑誌「我等」に挿絵をかく。その後読売新聞に入社し、時事漫画をかく。第二次「種蒔く人」同人。未来派美術協会、劇団「先駆座」への参加。村山知義らと美術「マヴォ」結成。関東大震災後プロレタリア芸術運動へ傾斜、無産者新聞・雑誌・戦記等に痛烈な社会批評漫画をかく。木槿の小枝をペンに使い、ねじ釘のサインの漫画は労働者・農民を励まし、各方面から熱烈な支持を得たが、昭和七年治安維持法違反で拘留され拷問を受ける。保釈後、油絵に戻り、東京・北京・奉天などで個展を開催。阿部里雪に習い俳句もよくす。東京空襲の時、新宿駅に居合わせ焼夷弾を受け即死する。昭和二〇年五月二五日、四六歳であった。
 穏やかな人柄、明るい童顔がだれからも愛され、雑誌の表紙絵、挿絵、単行本の装丁などおびただしい数にのぼる。戦時中多くの美術家は戦争協力の絵を書くが、彼は終始反戦の気骨を貫き通す。著書に『ゲオルゲ・グロス』『柳瀬正夢画集』等がある。

4 その他の画家

杉浦非水

 明治九年(一八七六)温泉郡重信町に生まれる。本姓は白石、母の実家を継ぎ杉浦と名乗る。愛媛県尋常中学校(現、松山東高等学校)で松浦巌暉に日本画を学び、東京美術学校日本画科で川端玉章に師事。黒田清輝につき油絵も学ぶ。アール・ヌーボー様式の図案にひかれ、大阪三和印刷所図案部主任となり、内国勧業博覧会の雑誌「三十六年」の表紙に我が国初のアール・ヌーボー式の図案をかく。東京中央新聞社を経て東京三越本店の嘱託となり、宣伝誌「三越タイムス」「三越」表紙を一三年間描き続ける。明治四五年光風会創立に参画。大正一三年、フランスから帰り、我が国初の商業美術団体「七人社」を設立。昭和二年ポスター研究誌「アフィッシュ」を創刊。帝国美術学校工芸科長、同一〇年辞任し多摩美術学校を創立。二八年多摩美術大学理事長兼図案科教授となり、日本グラフィックデザイン開拓の元老として活躍する。著書に『非水百花譜』『非水創作図案集』がある。たばこの「響」「パロマ」「桃山」「光」などのデザインのほか、改造社版『現代日本文学全集』はじめ多くの装丁を手がけ、四〇年芸術院恩賜賞を受賞。昭和四〇年八月八日、九〇歳の高齢で没す。

高畠華宵

 明治二一年(一八八八)宇和島市に生まれ、本名幸吉。幼少から絵を好み、明治三六年京都市立美術工芸学校日本画科に入学。途中父の死により退学、同三八年再入学。同三九年上京し生計に苦しみながら修業。同四三年華宵と号し、描いた中将湯広告画で一躍有名となる。大正二年から「講談倶楽部」「少年倶楽部」「面白倶楽部」「婦人倶楽部」「現代」など諸雑誌の挿絵をかき、独自の美少年、美少女を創り出し、大正から昭和初期にかけ一世を風靡する。大正一五年、華宵便箋・封筒が売り出されいっそう反響を呼び、「銀座行進曲」で華宵好みの君も行くとうたわれるまでに至る。南予出身の画家には、村上天心ら画壇から離れ、風変わりの個性派が多いようだが、華宵もまたその一人といえよう。昭和四一年七月三一日、七九歳で没す。東京都文京区の私邸を華宵記念会館と称し、彼の力作・大作の大部分を収蔵・展観している。

木和村創爾郎

 明治三三年(一九〇〇)松山市に生まれ、本名正次郎。京都絵画専門学校を卒業。西山翠嶂に師事し院展で活躍するが、後版画に転向。繊細な感性、豊かな色彩で多色の木版画を手がけ、日展・国画会・光風会などへ相次いで発表、全国各地の「渓谷シリーズ」は特によく知られている。四四年以後、ル・サロンに日本の風景版画を出品し、銅賞・銀賞・金賞を連続受賞、無鑑査となる。昭和四八年一一月六日、七四歳で没す。