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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 明治の新風

 維新の動乱もどうやらおさまり、明治も二〇年代になると岡倉天心・フェノロサらの提唱による東京美術学校の開設、日本美術院の創立など明治新日本画の革新運動が活発となり、幕末以来の伝統的な保守画流との対立抗争も激しくなる。また、京都における諸流派も近代絵画の影響を受け、それぞれに革新機運が盛り上がり、新旧世代の交代が激しくなる。そうした中で、明治四〇年の文展開設は一層それに拍車をかけ、中央画壇はますます分裂抗争を繰り返す。
 そうした東京・京都の革新画流が、やがて県出身の画家たちにより導入され、わが愛媛画壇も新旧画流の対立抗争が激しくなり、さらに加えて洋画の台頭も目ざましく、各派入り乱れての群雄割拠の状態となる。大正一二年の伊予美術展の開催は、各派合流、愛媛絵画の近代化を企図する画期的な出来事だが、かえってその分裂を表面化させ結局、大戦突入による美術活動閉塞まで、その対立抗争は続くこととなる。ともあれ、愛媛絵画の近代は、新旧画流、洋画が入り乱れての対立抗争と世代の交代で、徐々に現代絵画に脱皮する過渡の時代といえよう。

1 郷土で活躍の画家

矢野翠鳳

 明治三年(一八七〇)、伊予郡砥部町麻生に生まれる。若いころ近藤元脩、浦屋雲林に漢学を学び、松浦厳暉につき日本画を習う。その後さらに上洛し、竹内栖鳳に師事し、画才を認められ師の一字をゆずり受け翠鳳と号す。帰郷後松山に住み、四条の正系を郷土に伝え、伊予美術協会、愛媛美術工芸展の委員として活躍し、愛媛近代日本画の総帥と仰がれる。動物画に優れ、特に虎を得意とする。昭和一九年二月二九日、七五歳で没す。長男翠堂も跡を継ぎ、父子二代にわたり愛媛画壇の重鎮として郷土画壇を指導する。

矢野翠堂

 (一八九七~一九七三)、本名は芳樹。父翠鳳の跡を継ぎ、上京して川合玉堂の長流画塾に学ぶ。大正一二年関東大震災にあい帰郷。崇徳実科女学校の図画・書道教師となり、伊予美術展、愛媛美術工芸展、愛媛日本画展、愛媛県展に委員として活躍。穏健な人柄と長年の功績により、昭和四五年、県美術会名誉会員に推挙される。『翠鳳・翠堂父子遺作集』がある。

長谷川竹友

 竹友は、明治一八年温泉郡重信町農業平井平衛の四男に生まれ、本名を武次郎、竹友と号す。二三歳で長谷川家を継ぎ、長谷川姓を名乗る。幼少より絵を得意とし、小学卒業後画家を志し上洛。当時京都画壇の精鋭都路華香の内弟子となる。明治四〇、四一年と新古美術展に二回連続受賞、京都画壇の新鋭画家とし将来を嘱望されるが、当時台頭の革新的な絵画摂取のため上京、伝統画流の束縛から脱し、自由な立場で研究を続ける。
 大正五年、三二歳で印度に渡航、各地の仏跡を遍歴して、古代彫刻・絵画の模写、スケッチ旅行を二年間続ける。帰朝後一時大阪に滞在。大正八年郷里松山へ帰り、各種展観に斬新な作風を発表。『印度所感作品』の画集発刊、「伊予の僧克譲」の研究など郷土美術に新風を吹き込む。大正一三年大阪に移転。このころから前後六回の中国写生旅行を続行。昭和一九年再び郷里に帰り、二一年戦後の美術活動再開とともに、日本画部門の重鎮として、県美術懇話会、愛媛日本画研究会、愛媛美術協会の結成に参画。県美術会発足に当たり、名誉会員に推され、昭和三七年一月四日、七八歳で没す。
 彼は、若くして京都画壇に身を挺し、四条派の精鋭都路華香につきその伝統画法を身につけるが、さらにそれを脱却、東京画壇で時流洋画の新風を採り入れる。さらに加えて、全国各地を写生行脚し、遠く印度・中国にも足を伸ばし見聞を広める。その卓見と斬新な画風で直接郷土美術に与えた影響は極めて大きい。当地出身画家で中央の第一線で活躍したものは多い。だが、その人たちが郷土画壇に与えた影響は間接的なものにとどまり、彼のごとく郷土に定住して、直接の大きい指導力を発揮した画家は極めて少ない。
 大正から昭和にかけての愛媛の日本画は、幕末以来の伝統画流が依然と続き、新日本画の動きも出始めたとはいえ、まだまだ保守ムードの強い前近代的様相であった。そこへ彼の新風が投じた波紋は大きく、一種の近代旋風ともいうべきもので、彼の画風は、愛媛画壇近代幕開けの原動力となり、いわば、彼は近代開幕の立役者というべきであろう。

武田耕雪

 明治二二年(一八八九)周桑郡丹原町に生まれ、本名は規太郎。西条中学を経て、京都絵画専門学校に学び、卒業後も引き続き菊地芳文に師事。大正一〇年郷里に帰る。石鎚・面河渓など郷土の風物に独自の画境を示す。伊予美術展、愛媛美術工芸展等の委員とし、戦前・戦後を通じ県日本画壇の重鎮として活躍。昭和四八年、八九歳で没す。

伊賀上雄鳳

 明治二八年(一八九五)松山市井門町に生まれ、本名は静雄。一八歳で上洛し竹内栖鳳門下で学び、師の一字をうけて雄鳳と号す。若くして中国に渡り、王一亭・呉昌碩に師事。戦前は神戸に住み鳳栄画塾を主宰し、大輪画院会員として活躍。戦災にあい、昭和二〇年松山に帰る。終戦直後の愛媛美術懇話会、愛媛日本画研究会の結成、愛媛美術協会結成の発起人として戦後の県日本画の重鎮として活躍する。昭和二三年、五五歳で没す。

玉井安秀

 明治三一年(一八九八)北条市に生まれる。北予中学を中退し南画家佐竹永陵に師事。永春と号したが後に野田九甫に学び、もとの安秀を名乗る。文展、帝展に出品し東京で活躍。戦争のため郷里に疎開。戦後の愛媛美術懇話会、愛媛日本画研究会、愛媛美術協会結成発起人として活躍。異常な熱意で後進を指導、戦後の愛媛日本画に大きい影響を与え、昭和三五年、六三歳で没す。

2 県外で活躍の南画系画家

矢野橋村

 橋村は明治二三年(一八九〇)今治市波止浜町に生まれ、本名を一智という。橋村と号し、知道人、大来山人ともいう。一八歳で志を立てて大阪に出たが、一週間目に事故のため右手を失う。その事故による隻手が契機で画家を志し、南画家永松春洋の門弟となる。大正三年二五歳で文展に初入選、以来毎年入選。昭和三年帝展出品の「慕色蒼々」が特選となり、同八年帝展審査員に推挙される。
 大正一〇年日本南画院設立に尽力し、昭和一一年の解散まで重鎮として活躍。大正一三年大阪美術学校を設立、戦争のため閉校となるまで二〇余年間校長として全力を尽くす。その他乾坤社、主潮社、日月社、日本美術協会等の美術団体の設立発展に尽力。また新聞挿絵にも独自の才能を発揮、すなわち長谷川伸作「紅蝙蝠」、吉川英治作「宮本武蔵」「三国志」、中里介山作「大菩薩峠」等で盛名をはせた。昭和三六年日本芸術院賞を受賞。昭和四〇年、脳出血のため、七六歳で没す。
 彼は志を立て大阪へ出た直後、運命的な事故で隻手となる。やむなく画家を志し身を投じたのが、当時凋落の一途をたどる南画であった。彼の画業はそうして隻手・凋落の二重の責を背負うこととなる。ところが、彼はその苦難を不屈の努力で克服し、南画復活の道を見事に切り開く。かつて、日本南画を切り開き、それを根底で支えた先達たちの性根を「放蕩無頼」とか「不羈奔走」といったが、彼の運命に対する挑戦もその血脈を受け継ぐ不屈の性根というべきか。ともあれ、彼は長い伝統をもつ日本南画に新たな活力を注入し、見事に蘇生させた現代南画の巨匠というべきであろう。

矢野鉄山

 (一八九四~一九七五)橋村の甥に当たり、小室翠雲に師事。大正九年帝展に初入選、以後文展・日展・日本南画院で活躍。全日本水墨画協会を創立しその世話人代表として尽力する。八一歳没。

菊川南楊

 (一八九六~一九三〇)越智郡波方町に生まれ、大阪の南画家姫島竹外に師事、後橋本関雪に学ぶ。昭和元年帝展初入選。その後新南画開拓に精進中、師関雪と同道し那智の滝写生に向かう途中、交通事故で没す。三四歳。

越智東予

 (一八九三~一九六七)越智郡朝倉村に生まれ、京都の田辺竹邦に学び、後、小室翠雲に師事。日本南画院で活躍。七五歳没。

3 県外で活躍の院展系画家

大智勝観

 明治一五年(一八八二)今治市に生まれ、本名恒一。東京美術学校を卒業後、文部省美術展覧会に初出品し三等賞を受賞、新進作家として注目を集める。大正三年日本美術院再興と同時に横山大観門下として同院に所属し同人となり、次第に頭角をあらわす。昭和五年、イタリアにおける日本美術展覧会に横山大観らとともに委員として渡欧、日本美術の紹介普及に努める。昭和三三年八月八日、七七歳で没す。

高橋周桑

 周桑は明治三三年一二月二三日、東予市旦之上に生まれ、本名を千恵松という。一二歳の時に父の事業の失敗で家産を失い、一家挙げて九州の佐賀に移住する。小学校卒業後は五島列島での陶石の採掘、旅館の番頭、菜園の手伝い、炭鉱の鉱夫など、次々仕事を変えながら一家を支える。暗い炭鉱で汗と石炭にまみれる過酷な日々を送っていたが、一八歳の時、速水御舟の絵に接して感激、これこそ自分の進む道と決意し、絵を描き始める。
 二一歳で御舟に入門希望の手紙をかき、やがて許され以後絵に専念し、出身地名にちなみ周桑と号す。入門後七年、院展に「春閑」が初入選。五年の「秋草」で院賞を受け院友となり、続いて七年の「銀座」、九年の「競馬」とその近代感覚が好評を博し、院展作家として順調な歩みを続けるが、翌一〇年、師の速水御舟が腸チフスのため四〇歳の若さで急逝する。当時、院展の最尖鋭作家御舟の夭折は、美術界に大きい衝撃を与えるが、その師一筋に生きてきた彼の生涯にも大きい影響を及ぼすこととなる。
 師の死を乗り越え、続いて院展にも出品。また九皐会・丹光会など新鋭グループ展にも参加。特に昭和二二年院展最後の出品作「陳列室」はその重厚な作柄が激賞され、院展同人に内定といわれていたが、彼はここで大冒険を決意する。即ち、昭和二三年「創造美術」の結成である。そのまま院展に残っておれば同人となり、それなりにいけることは確かであるが、それではいつまでも御舟の亜流といわれることを免れない。そこで、思い切った自己革新への決断をする。創造美術の発足は戦後における日本画革新の画期的な出来事であり、彼はその創立メンバーとして毎回斬新な作を発表、その理論的指導者とし推進役を務める。その創造美術はやがて二六年、新制作協会と合流し、革新の輪を拡げ、彼の画業もいよいよこれからという時、昭和三九年二月二七日病のため没す。画人として正に働き盛りの六三歳であった。
 彼の遺墨は県内にも少なく、一般には親しみ薄いようである、しかし御舟の衣鉢をつぐというだけに、その斬新なフォルムと超現実的な夢幻性がひと目をひく。しかも、それは単なるムードといったものでなく、しっかりした構成で重厚かつ幽玄、他に類例を見ない独自の画境を示している。

4 県外で活躍の官展系画家

松本仙挙

 仙挙は明治一三年(一八八〇)東宇和郡野村町、旧庄屋の長男に生まれ、本名を政興。幼少より絵を好み、家族の反対を押し切って京都市立美術工芸学校へ入学。卒業後円山派の巨匠山元春挙に師事。師の一字をうけ仙挙と号し、大いに将来を期待される。
 大正六年、文展に「静山」を出品以来、「鬼ヶ城山之図」「静寂」「悟道の跡」「旭光」などを文展・帝展に引き続き出品。精力的な制作を続けるが、胃癌にかかり郷里明浜町て療養。昭和七年九月一〇日再発のため病没する。五二歳である。彼の活躍期は大正の中ごろから昭和初期。日本美術院の再興、二科の創立、京都画壇では国画創作協会の設立等で画壇も多様化、個性主義の成熟期であり、そうした中で彼は師春挙の堅実な画風を受け継ぐとともに、独自の創意を加え、新しい抽象化も試みているが、その大成を見ないうち画業途中の病没が惜しまれている。

河崎蘭香

 蘭香は、明治一五年(一八八二)、八幡浜の医師神山謙斉の子として生まれ、名は菊、同市教育者河崎奨の養女となる。初め音楽学校に学び、のち京都の菊地芳文につき絵を習い、再度上京し寺崎広業門下で画道の研鑽に専念。明治四〇年、二六歳で東京勧業博覧会に出品し三等賞を受賞。同年第一回文展に「夕雲」を出品、以来美人画を七回連続出品。第八回「広間へ」は褒賞を受賞、第九回「霜月十五日」で三等賞を受賞。才色兼備の閨秀画家として注目され、東の蘭香、西の松園と併称され、将来を大いに期待されたが、惜しくも病気のため、大正七年三月一三日、三七歳の若さで没す。