データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一〇 民衆と仏教

 古代の地方仏教は、中央の国家仏教・貴族仏教の影響下にあって、庶民にはほとんど無縁であった。ただ、国而の役人、荘園に造られた中央寺院の末寺、また、郡司級豪族の私寺などを通じて間接的に仏教に接するくらいで、わずかに説話や中央官寺の記録に名をとどめる者が見えるだけである。したがって、民衆に対する仏教の本格的な影響は、平安時代末期以後の念仏僧による教化を待だなければならない。

 念仏のすすめ

 伊予における浄土教の布教についてはさきに記したところであるが、それがすなわち民衆が直接仏教に接し、仏を信仰した初めそのものといってもよい。しかし、具体的なことはほとんど不明で、わずかに天台系の念仏僧である空也や性空の影響が考えられるくらいである。空也が久米浄土寺に三年足らず留錫した際、かなりの教化が行われたであろうが、その遺跡を足場に、のちに浄土教の布教をしたのが法然の弟子聖光(鎮西派の祖)で、中予地方に浄土教を弘布することができた。一方、浄土宗西山派の祖証空に師事した聖達が浄土教を伊予に布教しただろうことは十分に考えられ、また、同じく証空に学んだ如仏(河野通広)の子一遍は、父の法兄聖達に学んでいる。特に、一遍の念仏賦算は、庶民に広く接し、下賤の者までもすべて救われると説いて、熱狂的な帰信を得ることができた。庶民の仏教といわれる鎌倉仏教の頂点に立つものである。また、同じ天台系の聖とみられる性空も伊予に来錫したことは確実であり、沙弥教信などとともに「さとの念仏」(叡山における念仏を「山の念仏」というのに対し)をすすめたとみられる。性空と教信はともに念仏聖で、仏教者としての一遍に進むべき方向を与えたことでも知られる。なお、一遍と全く同時代の一向俊聖が伊予を布教したことについても前に記したとおりである。
 特に、念仏と大師信仰を広く民衆に普及したのは山伏や高野聖であった。密教的呪術や加持祈祷で人心をつかみ、祖霊祀りと高野奥の院を結び、大師真筆と称する名号札によって念仏をすすめた。彼らは俗聖と呼ばれて庶民に親しまれ、村の小堂に住み込んで村落の一員になった。また、念仏聖といわれるように念仏をすすめることを主としたが、雑密的な呪術にたくみで、法華経や戒律の信仰、それに禅を兼修する者もあって、山伏と聖はほとんど同様なものであった。聖や山伏には、天台系・真言系、熊野や四天王寺・善光寺を本拠とするものなど多様であったが、特に伊予に影響を与えたのは天台系・真言系の聖と熊野修験であった。おけても高野聖の影響は大きいが、高野聖の時衆化の著しい後期の高野聖と、覚鑁に始まる根来系の高野聖は、その爆発的なエネルギーで民衆の中にはいった。伊予の寺院に真言が多いのは高野聖によるものが多いだろうし、根来寺系高野聖によって新義真言宗になったものもあるとみられる。また、高野聖が四国遍路に与えた影響は大きく、大師一尊化の傾向を決定づけ、庶民の四国遍路への参加を促した。室町時代末期から庶民遍路がようやく盛んになるきざしをみせたが、俗遍路が僧侶遍路の数をしのぐようになるのは近世に入ってからのことである。

 村堂と講

 一般に、庶民の主体的な仏教活動がみられるようになるのは鎌倉中期からといわれるが、地方に及んだのは室町時代に入ってからであろう。その具体例は村堂と講の組織である。
 村落においては、地主的富裕農民層が中心になり、他の自立農民層を含めて村落共同体的自治組織をつくった。それは、隷属的農民はもとより自立農民層まで在地領主の抑圧を受けたから、真に主体的なものでなかったが、ともかくこの組織は、村単位で宮座を組織して氏神の管理に当たり、また村堂を建立して宗教活動を営んだ。村堂には、阿弥陀・釈迦のほか、現世利益をもたらす観音・薬師・地蔵などが本尊として祀られ、本尊によって阿弥陀堂・釈迦堂・観音堂・薬師堂・地蔵堂などと呼ばれ、寺号を持たぬのが普通であった。たいていの村堂には聖や山伏が住みつき、巡歴の聖や山伏、それに四国遍路の宿になった。
 村堂の成立については、荘園領主や在地領主の建立した氏寺が、その領主の衰退や滅亡によって廃寺同様になったのを再興したもの、聖や山伏、それに篤信者の建立した草庵のほか、共同体が新たに創建したものなどさまざまであり、燈油田や仏供田としての寄進によって運営され、仏事や葬儀を行うほか、村人の集会所となり、村落生活の中心的機能を果たした。
 村堂に止住する僧は、非僧・非俗で、正式の僧侶でなく、いわゆる庵主、「おんぼう」であった。彼らには通常仏教に関する学も、経典についての知識もなかったが、通俗的な説法や流布された説話によって民衆を教化した。また、村民の要請にこたえて、祈祷や葬礼に主役を勤めるほか、多少の読み書きができるため、村の記録に携わり、村の子供に読み書きやそろばんを教えた。そして、これらから得た収入が庵主の生計をささえたが、これだけでは不足するので、田畑を耕作し、田畑を所有して村落に定住し、村民の中にとけ込み、ある者は村の指導者となり、文化の伝達者として尊敬を集めた。
 村には「講」と呼ばれる結集があった、観音講・地蔵講というように、特殊な信仰による結衆(講衆)で、他にも大師講・念仏講など、地域住民の信仰によってさまざまであった。この集団は私的なものであったが、住民をあげて参加し、仏具など共同の財産をもち、村の年中行事や法要、それに村人の葬礼などに役割を果たし、村落共同体の機能の一端をになっていた。講には講元があり、およそ月ごとのそれぞれの縁日に、各家で輪番に講が開かれ、仏事のほか、飲み食いをしながら歓談する親睦団体でもあった(『日本仏教史Ⅱ中世篇』)。

 余説

 鎌倉仏教の中で庶民の仏教として民衆に受容された時衆は、南北朝時代から室町中期にかけて、古来例のないほど爆発的な信仰を得たが、残念ながら伊予におげる具体的な動きはほとんどわかっていない。この時衆はこのころから時宗と称され、ようやく宗派としての基礎が固まってきたものの、室町時代末期から急速に衰退、多くの寺院は主として浄土真宗に吸収されてしまった。それは、浄土真宗の地方普及が急速に進んだということでもあり、農民の根強い信仰にささえられたエネルギーは、反体制運動となり、一向一揆となって爆発した。伊予ではそれほどの布教が広く行われておらず、人情が温和なせいか、一向一揆の動きは全くみられない。ただ、伊予の水軍が、村上の諸将に率いられて石山戦争に参加、この戦いに定秀寺(現松山市神田町、浄土真宗本願寺派)の開山宗徳(河野通秀)が石山本願寺顕如に従って籠城したというから、その手兵となった信者の参戦があったと考えられる。
 浄土真宗の地方布教が進んだのとほぼ同じ時期、日蓮宗においては、京都の町人衆による信仰を背景にして反体制の動きを示し、それが法華一揆として爆発した。伊予への布教は、京都における日蓮宗各派が競って行い、中世末期には都市部にかなりの広がりを持ちはじめたが、反体制のエネルギーはみられない。
 こうした鎌倉新仏教中庶民に浸透した二宗の動向の陰にあって、平安の二宗ほかの動きについてはほとんど具体的なものを握むことができないけれど、農民の自立が進むにつれて、庶民の仏教への関心と帰信は次第に進んだとみられる。