データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

九 四国霊場八十八か所の成立

 四国の辺地

 四国霊場遍礼者を一般に遍路という。「へんろ」はまた「へんど」といわれるが、「んど」は辺土(へんど、へど)また辺地(へんち、へち、へぢ)である。沖縄本島に辺土岬があり、熊野詣での古道を中辺地・大辺地という。
 平安時代の末期、嘉応元年(一二六九)に後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』に、

 我等が修行せしやうは 忍辱袈娑を肩に掛け 又笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常にふむ

とあり、四国の辺地を踏んで修行にあけくれた修行者があったことを示している。しかもその辺地めぐりがおもに海辺であったことは、「衣はいつとなくしほたれて」とあるのでわかる。また、これより少し早く、嘉承年間(一一〇六~一一〇七)以後に成立した『今昔物語』(源隆国)に、

 今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予讃岐阿波土佐ノ海辺ノ廻也、其僧共其ヲ廻ケルニ、思ヒ不懸ズ山ニ踏入ニケリ、深キ山ニ迷ニケレバ、浜ノ辺ニ出ム事ヲ願ヒケリ。

とある。三人の修行僧が、四国の海辺の路を回っているうち、思いがけなく山に迷い込んで、地獄の鬼のため馬にばかされる話である。ここでも、四国の修行者の歩んだのは主として海辺の路であったことがわかる。
 これを現今の四国遍路の道についてみても、四国の辺地を回る道は海辺の路が基本になっている。海辺をめぐる路は、長い道ではあっても、平坦で容易に行けると思われるが、必ずしもそうではない。阿波から土佐に入り室戸に至る海辺の道は困難な所で、わけても室戸の手前は、「彼ノ昔ニ聞土州飛石・ハネ石と云所」(澄禅『四国遍路日記』)といわれる難所であり、土佐国三六番青竜寺を過ぎて、井ノ尻より横波まで三里の間は、陸路は難所であるため舟によったようである。また、吉野川や四万十川の渡しも増水期には困難であった。
 ところが、伊予に入って四一番札所稲荷宮から五二番太山寺までは、全く海の見えない長い路であり、岩屋寺へは石鎚山系深く分け入らなければならない。そして、国から国への境は山道で、まして四国山系深く分け入る横峰寺・雲辺寺・焼山寺などは嶮路にたえなければならぬ。すなわちこれらは修験道の行場である。四国の辺地を遍歴した修行者は、主に海辺を回り、やむを得ず山道を通ったり、時には誤って山道に迷い込んだ者もあったろうし、また、きびしい修行のため嶮難な山を修行場にした、いわゆる山嶽料そうの修験者もいた。
 四国霊場の伝承には幾人もの伝説上の修験者が登場する。その著しい例は役の行者小角で、二〇番鶴林寺や三八番金剛福寺には役の行者堂があり、六〇番横峰寺、六四番里前神寺には石鉄山における役の行者の事蹟がある。横峰寺の縁起は小角について述べて、「石土ノ峯ニ石仙菩薩ト現レ」とあるのを受けた形で、『四国遍礼霊場記』には「此石仙は役行者の再来とす」と信じられている。伝承の上の人物として、小角についで石仙が登場し、さらに、日本霊異記に見える寂仙、文徳実録に出る灼然とその弟子上仙とつづくが、これらは右の石仙と同一人物のようにも見られている。これら石鎚修験道の行者についで出る芳元は、京都聖護院本山修験の秘籍によると、養老四年(七二〇)に生まれ、天平勝宝五年(七五三)大峰に修行して修験道を相伝、のち「伊予国石撮峰」に熊野権現を勧請、弘仁七年(八二八)九七歳で没したというから、ようやくここに来て実在の人物にめぐりあう。
 古代民族共通の山岳崇拝と呪力信仰にもとづき、山林料そうを行とする修験道は、自然を霊格とした大日如来を本尊とする密教と習合し、行法の上で大きな影響を受け、近世まで民衆の中に根強く生きた。いわゆる山伏はその先達であり、四国遍路の中にその信仰と行法は濃く影を落とした。修験者山伏は、特定の山だけを行場とするのではなく、全国の秘峰を求めて回峰した。わけても関西随一の高山である石鎚山やこれにつぐ剱山を中心とする四国山地には随所に行場があり、山伏たちはそれらを巡った。すなわち四国遍路の先蹤である。そして、遍歴するうち、札所寺院に止住する山伏も多かった。それを『四国遍路日記』から拾うと、明石寺・八坂寺・切幡寺などがあり、この八坂寺と、他に里前神寺および横峰寺は石鎚修験道の先達である山伏の寺であり、最後の札所大窪寺の奥の院は修験の行場であるなど、他にも例がある。文化一〇年(一八一三)のある納経帳に、「行者」または「行者丈」のいる寺として、道場寺・八栗寺・大窪寺・十楽寺・観音寺・恩山寺・太竜寺・神峰寺・大日寺・雪蹊寺・浄土寺・円明寺・太山寺・曼陀羅寺その他が見えるという(宮崎忍勝『遍路』)から、実際にはもっと多くの札所に山伏が止住していたであろう。道場寺(郷照寺) の庚申堂は山伏たちのたまり場であったというから、このようなものが各地にあって、より多くの山伏が四国遍歴をしていたであろう。これらが初期における顕著な四国遍路であるが、これら無名の山伏たちは、四国遍路の歴史に名をとどめることはなかった。

 遍歴の修行者たち

 若い日の空海もまた修験者の一人であった。空海二四歳(延暦一六年、七九七)の作といわれる『三教指帰』と『聾鼓指帰』によると、一八歳で大学に入った空海は、まもなく中退してから二四歳までは山岳修行者として近畿・四国の山々をめぐったとみられ、四国については、「阿国大滝嶽に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す」(三教指帰)とあり、また、「或るときは金巌に登りて雪に遇いて坎らんたり、或るときは石峯に跨り、もって粮を絶ちて轗軻たり」(同 共に原漢文)と書かれている。阿波国大滝嶽は二一番札所大龍寺の地であり、土州室戸崎には最御崎寺がある。また、「金巌」の自註(聾鼓指帰)には「加禰能太気」、「石峯」の自註には「伊志都知能太気」とあり、後者は石鎚山をさすことにまちがいないが、前者を「金山」といわれる出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。ともあれ、大滝嶽・室戸崎には、空海が籠って求聞持法を修し、虚空蔵菩薩の来臨影向を得た遺蹟があり、石鎚修験道を求めた空海の遺蹟とともに、弘法大師信仰で一貫する四国霊場信仰の中心になっている。
 空海の四国遍歴については、右のほかに明確な徴証はないけれど、比較的古い寺院縁起によっても、かなり多くの寺院で大師の開創が伝えられる。しかし、これより古く行基による開創が伝えられる多くの寺院とともに、このことをもって空海留錫の証拠とはならず、ことに、空海による開創または再興と伝えられることの多い大同二年(八〇七)や弘仁一三年(八二二)は、空海の年譜の上では四国の遍歴は考えられないが、しかし、すでに定評のある三浦章夫『弘法大師伝記集覧』の中に見えるものでは、蹉だ山縁起・阿波国太龍寺縁起・白峯寺縁起・地蔵院縁起・屋島寺縁起などの中に空海に関する伝承があり、善通寺・曼陀羅寺はもとより、岩屋寺・最御崎寺そのほか、ことに、大師自作の本尊を祀るものもある。これらの縁起によってただちに空海が四国の霊地をあまねく遍歴して札所を開創し再建したとすることはできないけれど、青年期の遍歴をみずから回顧してあげる右の大滝・室戸・石鉄を巡るとすれば、一通り四国を遍歴したことが当然考えられる、という以上のことは言えない。四国の霊地は空海以前からもあり、空海の遍歴によって新たな霊地とされる所もでき、次第に弘法大師信仰によって貫かれることになる。
 空海より六歳年少の光定は、宝亀一〇年(七七九)予州風早郡に生まれ、のちに最澄を助けて天台宗の確立に貢献したが、叡山に登ったときすでに二九歳になっており、それまでの青年期に伊予の山林で修行したとみられるものの、横峯寺で光定を開山第二世とする縁起は他に確証がない。
 空海以後も無名の修行者・修験者が四国を遍歴しただろうが、それらは名を残さない。名の知られたものでまずあげられるのは真言僧であり、彼らは大師を慕って四国を遍歴し、大師信仰を普及した。その最初に名を残しているのは大師の高弟真済で、後の遍歴者真念は、この人をもって大師遺跡遍礼の初めとする。また、康平(一〇五八~)ごろの真言僧とみられる善範は、讃岐曼陀羅寺の再建を志したというが(平安遺文)、四国を回国したかどうかわからない。
 また、高野山金剛峯寺と伝法院の紛争により、仁治四年(一二四三)讃岐に流された学侶方の道範は、守護の家人であった鵜足津の橘高能にあずけられたが、その著に『南海流浪記』があり、その動向がわかっている。それによると、大師の命日に善通寺に詣でたほか、曼陀羅寺・出釈迦寺など大師の聖跡を巡礼し、誕生所では如法経を奉納、御影堂に通夜するなどして大師を敬慕、七年間の流寓生活のうちに、荒廃した誕生院の再興を願って勧進した。また、寂本の『四国遍礼霊場記』にも、善通寺・琴弾八幡・弥谷寺・道場寺や西行の遺跡を訪ねたことが記されている。
 下って南北朝時代、高野山の僧賢重が善通寺に下向したことが、宥快の『大日経疏伝授抄』の記述によって知られる。この時善通寺の宥鑁は、その由来を賢重に語り、「然る間、心あらん人は皆四国に下向し、此の寺に参詣す。仍て四国巡礼の次でもあれば釈論を稽古すべし」と言っている。ここにいう「心あらん人」とは大師崇敬の心ある人の意味であろうし、「四国巡礼」ということばから、善通寺参詣を含めて、少なくとも真言僧による四国巡礼が行われていたことがわかる。その時代は、宥鑁の没年が観応三年(一三五ニ)であったことからわかる。
 これとほぼ同時代、貞和三年(一三四七)三月二五日付けの落書墨書銘が六九番札所観音寺に残っており、「常州下妻庄造各□弁阿闍梨」とあるというから、おそらく、相当の地位にある真言僧が、関東から四国巡礼に来たことがわかる。
 そのほか、念仏の聖たちが四国を遍歴したことが数々記されている。市聖空也(天禄三年=九七二、七〇歳寂)が諸国を遊行して念仏を勧進した途次四国を回国したらしいが、その年代はわかっていないものの、久米浄土寺に三年近く留錫したことだけが知られている。ついで、のちに播磨国書写山円教寺を開創して止住した性空(寛弘四年一〇〇七年寂、九八歳)は、それまで諸国の名山を求めて遊歴、永観二年(九八四)、叡山の湛延と共に三島の神に参詣、桜会の供御に恒例となっている動物の贅をとどめたと、『一遍聖絵』に記されている。空也と性空は天台系の聖で、聖の道を志向する一遍の敬慕してやまない師である。
 西行が讃岐に下ったのは、保元の乱に破れ、讃岐の配所で長寛二年(一一六四)に死去された崇徳上皇の霊を弔うためで、死去後わずか三年目の仁安二年(一一六七)のことであった。七二番曼陀羅寺の近くに草庵を結び、讃岐の寺々を巡歴したが、伊予まで足をのばしたという伝承はたしかでない。西行も高野聖の一人で、念仏の徒であった。これよりさき、西行とも交わりのあった俊乗坊重源(重阿弥陀仏)が、一七歳のとき、保延三年(一一三七)四国の辺地を修行している(南無阿弥陀仏作善集)が、詳しいことはわかっていない。少壮のころの重源もまた高野聖の一人で、高野山の別所で念仏に明けくれ、高野聖に大きい影響を与えたが、もともと重源は法然の弟子である。
 その師法然が法難にあって土佐へ配流と決まったのが承元元年(一二〇七)二月のことであったが、実際は讃岐にとどまり、同年二一月許されて摂津国まで帰っている。その弟子聖光(浄土宗鎮西派の祖)が法然の命を受けて布教のため伊予に下ったのは建久九年(一一九八)、空也ゆかりの浄土寺に留錫してこの地方に浄土教を弘めた。それから四一年後の延応元年(一二三九) 一遍が生まれた。一遍は全国を遊行して郷土に落着くひまはなかったが、それでも成道後の建治元年(一二七五)をはじめ三回は遊行しており、それ以前もあわせて、四国霊場中参詣または参籠したことの明らかなのは、岩屋寺・繁多寺・善通寺・曼陀羅寺などであるが、くまなく各地を遊化してまわったとみられる。また、一遍が建治二年(一二七六)の秋豊後を遊行していたころ、一向俊性は伊予国桑村郡を遊行していた。そして、その前後にわたって二か年間四国を遊行したが、四国霊場との関係はわからない。

 霊地信仰

 四国霊場信仰は霊地信仰または聖地信仰であって、特定の信仰対象によって統一されたものではない。平安時代末期には成立したとみられる西国三十三観音霊場は、四国霊場に影響を与えたことは確実であるが、これは観音信仰で一貫した本尊巡礼である。四国霊場はさまざまな霊地から成っているから、その信仰はさまざまである。自然崇拝にもとづく原始信仰、道教の影響も受けた土俗的信仰などに、仏教伝来以降の各種信仰が、多様に、しかも重層的にからんでいる。それらの中でも顕著なものは、弘法大師の修行にみられる虚空蔵菩薩の信仰、大師みずからの信仰にみられ、やがて高野山奥之院にまっわる大師の入定信仰に発展した弥勒信仰、つぎに、仏教渡来以来一般化していた薬師信仰や観音信仰、そして平安末期から鎌倉時代にかけて盛んになった阿弥陀信仰や地蔵信仰、そして阿弥陀信仰との習合の著しい熊野信仰や八幡信仰、こうした多様の信仰については、すでに第一節で述べたので繰り返さない。そして、このような信仰は複合し、重層的に展開して、四国霊場信仰を形成している。
 そのうち顕著なものを具体的に四国霊場についてみることにする。空海が求聞持法を行ったという阿波の大龍寺や室戸の最御崎寺には求聞持堂があり、虚空蔵菩薩を本尊にしているのが代表的なものであり、他にも例が多い。また、弥勒像を祀り、弥勒堂があるとされる寺に三角寺ほか数か寺を数える。つぎに、薬師如来を本尊とする寺は繁多寺など二一か寺、観世音菩薩を本尊とする寺は太山寺など二七か寺と最も多く、観音信仰にもとづく海上他界信仰を内容とする補陀落浄土信仰の顕著な寺に最御崎寺・金剛福寺・志度寺がある。さらに、阿弥陀如来を本尊とする寺には円明寺など八か寺がある。また、地蔵を本尊とする寺は泰山寺など五か寺にすぎないが、境内に地蔵を祀る寺は枚挙にいとまがない。
 最後に、熊野権現と習合し、境内に鎮守として熊野権現を祭った寺には熊谷寺など多く、最も顕著なのは雲辺寺で、四国霊場としては有数の山岳寺院であるこの寺は、修験や聖たち山岳修行者の寺として栄えた。この寺には熊野権現のほかに、蔵王・山王・白山・石鎚、あわせて五所権現が鎮守社として祭られている。ちなみに、四国霊場ではさまざまな権現社が祭られているが、その代表的なものがこの五所権現である。このうち著しい熊野権現についてみると、伊予では、かつては繁多寺・佛木寺にも熊野社が祀られていたといい、今も境内社として熊野十二所権現を祭る寺に石手寺と明石寺がある。石手寺はもと安養寺といわれていたのを、寛平四年(八九二)、熊野十二所権現を勧請して「熊野山」と号したということであり、それ以前は薬師如来を本尊としていた。ちょうどそのころは宇多天皇の時代で、熊野信仰が全国を風靡しはじめてい
たことは、この天皇がのちに法皇になって、延喜七年(九〇七)はじめて熊野に行幸されたことからもわかる。その後、源氏に味方して平家と戦った河野通信は、熊野水軍との関係もあってか熊野権現崇敬の心厚く、諸社に熊野権現を勧請したとみられ、後に一遍が成道のしめくくりに熊野に参龍したのもゆえなしとしない。『四国遍礼霊場記』ならびに『四国遍礼名所図会』の絵によると、石手寺のもと本尊であったはずの薬師如来を祀る本堂は、現在境内に入って左手にある阿弥陀堂がそれである。また、四国遍路日記に記す「廿余間の長床」というのが右の霊場記に描かれ、その後ろに十二所権現社が見え、図会では長床の左に熊野権現が描かれている。明治の神仏分離にあたりいったん熊野権現社を廃棄したとき、これまで本尊であった阿弥陀仏(熊野の本地仏)を本来の本尊薬師如来と入れかえ、今では本堂に薬師如来、阿弥陀堂(以前は薬師堂)に阿弥陀如来を祀っている。また、本堂左後方の六棟の小祠に十二所権現を祀り、その前に長床の面影を残す建物もある。また、石手寺と同様熊野山と号する八坂寺は、熊野の本地仏である阿弥陀如来を本尊とする熊野修験の道場であったが、中ごろ醍醐三宝院の末寺として真言系修験道の性格を強め、また、明治時代までの代々住職は石鎚修験道の大先達として、この地方の修験道の中心であった。明石寺にも現在十二所権現があり、鎮守社として祀られてきたものである。この寺はもとより天台宗寺門派に属し、聖護院直末で、山内に九坊、山外に三坊のあわせて一二坊を有する当地方における天台系修験道場の中心であった。なお、ここに残っている「熊野曼陀羅図」は注目に値する。
 熊野信仰の地方普及に力を発揮したのはいうまでもなく熊野修験であり、一般には伊勢信仰の場合にもみられる御師がその頭領である。自分が熊野に詣れない代わりに、特定の僧に祈とうしてもらい、また、代わって勤行せしめる風習があって、これが御師の初めである。すなわち、熊野牛王護符をくばって現世的な祈とうをする祈とう師として、檀那に代わって勤行し熊野に詣る代参者として、後にはさらに参詣者に対する宿舎の提供者として宿房を営むようになり、「御師職」といわれる職権が確立した。御師職は、一種の権利を伴う「株」で、あるまとまった数の旦那をもつことから「旦那職」、宿屋業的営みをしたことから「御宿職」または「宿坊職」、また、それが中世一般の「問丸」に似ているところから「とひ職」とも呼ばれた。御師と檀那の間の師檀関係は強固で、破られ犯されることはなかった。氏族を単位として、また、郷村・国郡など地域を単位に師壇関係が結ばれ、これが普及すると、御師と檀那の間に立つ者として、御師によって任命される先達が生まれ、直接庶民に接した。先達は御師に代わって祈とうをし、護符を配り、檀那を引率して熊野に案内する宿引き的な仕事をした。こうして熊野信仰が普及し、熊野詣では異常なほど盛んになった。長山源雄の「伊予に於ける熊野信仰」には、南北朝時代以後の伊予における熊野修験に関する実例をあげているがここでは省略する。
 こうした熊野信仰は、四国遍路に影響を与えている。古くは吉野金峰山の山上・山下にかけて、発心・修行・等覚・妙覚の四門があり、また、金峰山から大峰山にかけて、発心門・修行門・菩提門・乾享門・涅槃門が建っていたというから、蔵王修験場からか、あるいは修験道一般からの影響かもわからないけれど、「熊野那智曼荼羅」に描く補陀落渡海の舟にかかる扁額の「発心・修行・菩提・涅槃」は、四国霊場において、阿波一国の札所を「発心の道場」というのをはじめ、土佐・伊予・讃岐の順に修行・菩提・涅槃の各道場をあてるのと全く一致している。
 こうした熊野修験の活動に似ているのが高野聖であり、活動の時代もほぼ同じであって、四国霊場の成立と発展に大きい影響を与えた。
 高野の僧は、学問を主として修行する「学侶」と、これを助げ食糧を整えて炊事をし、仏堂の開閉、仏前の点燈や供華をする半僧半俗の「承仕」に分かれ、承仕は、諸堂の管理、法会の支度、生活資糧の調達から勧進や寺領(荘園)経営までするようになると、学侶に対し経済的優位に立ってこれに対抗、さらに僧兵となってこれを圧倒する勢いになった。この承仕の中から、山岳信仰にもとづき修験的苦行と呪術を行う「行人」と、浄土信仰にもとづき念仏勧進と奥の院への納骨をすすめる「聖」が分かれた。狭い意味での高野聖は後者である。
 一方、外部から入り込んで高野の谷々に別所を営んで隠遁する念仏者も多かった。平安時代末期における初期高野聖の代表的人物の一人小田原聖教懐は、興福寺の念仏別所のあった当尾の小田原(山城・大和の国境)から移り、小田原聖という聖集団の祖になった。また、仁和寺出身の真言僧覚鑁(興教大師)は、高野に入って大伝法院を建立、のち金剛峯寺をも兼摂して一山を支配したが、旧来の伝統に立つ勢力に追われて根来寺に退き新義真言宗の祖となった。高野で養った念仏集団の祖となり、その真言念仏は一遍の時衆の念仏に近いものであった。覚鑁か高野に残した伝法院の学頭となった仏厳は、高野系真言念仏を理論的に構成したものとして注目される。
 ついで中期高野聖の代表とみられる俊乗房重源や明遍の時代に入ると、四天王寺・善光寺などの念仏聖との交流も盛んになり、専修念仏の傾向を強めるとともに、奥の院への納骨の風も全国にひろがり、高野聖の活動は全盛期に入る。重源は醍醐寺で密教を学んだあと法然に師事、重阿弥陀と号した真言浄土系の僧であり、東大寺再建の勧進となる前高野の別所にあった念仏聖で、のも専修往生院を建てて念仏僧を送り込んだ。明遍は東大寺における三論宗系念仏を代表する学匠で、東大寺の別所光明山(南山城)に閑居したが、のち高野山に入って蓮華谷聖の祖となった。また、心地覚心(法燈国師) は、元来高野に学んだ密教僧であるが、金剛三昧院に住して行勇の禅浄兼修的な禅を学び、のち宋から帰ってもここに住し、萱堂聖の祖となった。一遍の師であり、時衆聖としての一遍に最も近いのがこの萱堂聖である。ついで、文永一一年(一二七四) 一遍が高野に登って国城院に止住したのを機縁に、蓮意の開創した千手院の周辺に時宗聖が住むようになり、千手院聖と呼ばれる時宗系念仏集団が千手院谷に形成された。これが後期高野聖を代表するものであり、次第に盛んになって、時宗聖の念仏が一山をおおうようになった(五来重『高野聖』)。
 高野聖は、大師筆と称する念仏札を配って念仏勧進をする一方、高野浄土への参詣をすすめ、新帰寂者の奥の院納骨ならびに祖先供養のために墓を造ることをあっせんし、それら参詣人を止宿させる宿坊を経営して山上の経済力を握ったが、後期になると、法具表装の裁ち切れの布でお守り袋を作って檀那に施したことから呉服商まで営むようになると、呉服聖・衣聖といわれ、果ては売僧と呼ばれるまで堕落し、みずから墓穴を掘るにいたった。
 右のように、高野の各谷の別所に拠って念仏集団の祖になった僧の名は残ったが、四国を巡歴した高野聖は名を残すものではなかった。その中でわずかに名を残した高野聖に蓮待があった。金剛頂寺をめざす再度の旅中に病に倒れ、阿弥陀如来・観自在菩薩・弘法大師を念じながら往生した。蓮待の信仰は、阿弥陀信仰・観音信仰・大師信仰の複合信仰であり、四国霊場信仰の多様性を示すものでもある。また、四国霊場中唯一の時宗寺院である郷照寺(もと道場寺)は、修験者と時衆聖の雑居する寺院であったが、この時衆聖は高野の千手院聖であったろう。
 高野聖の伊予巡歴についてはほとんど記録がないが、伊予から高野に参詣するにっいては、上蔵院を宿坊とする契約を結んだ多くの例がある。天文一三年(一五四四)の河野通直の文書によると、河野一族の者だけでなく、伊予から高野に参詣する者は必ず上蔵院を宿坊とすべきで、もし他坊と申合わすやからがあれば、国において罪科に処するというものであり、のちに伊予を支配した福島正則・加藤嘉明も同様の証文を上蔵院へ出している。これによって、伊予国では国人をあげて高野山を信仰していたことがわかり、また、これをあっせんし、すすめた高野聖の活躍を知ることができる。
 以上は熊野修験と高野聖が四国霊場の成立に大きい力となったことを述べたものであるが、修験についてはなお園城寺を中心とする天台系修験(伊予におけるその中心は明石寺)と醍醐寺を中心とする真言系修験(伊予におけるその中心は八坂寺など)があり、ことに後者は四国霊場の成立に大いに関係がある。
 ところで、本項の趣旨は四国霊場信仰の多様性と複合性(重層性)ということである。これを札所寺院の本尊について、文化八年(一八一一)の『四国八十八か所順拝心得書』によって数えると、

観音二七 薬師二一 阿弥陀八 大日六 釈迦五 地蔵五 虚空蔵三 不動三 弥勒一 毘沙門天一 医王一 文珠一 密教守護神一 大通智勝仏一 不明四

となる。不明四のうち現在の寺院の本尊は、阿弥陀三、薬師一、観音一である。またこれを現在の宗派別寺院数でみると(平幡良雄『四国八十八か所』により、真言宗のみ派別)、

 真言宗八〇 高野派二四 豊山派一八 御室派一三 智山派七 大覚寺派五 善通寺派四 醍醐派三 東寺派一 石鉄派一 真言律宗一 真言宗(派の記載なし)三
 天台宗 四
 臨済宗 二
 曹洞宗 一
 時 宗 一

となり、四国霊場信仰の多様性を示している。
 なお、霊場信仰の中に神仏習合の跡が明白に残っていることに注目させられる。すなわち、右の順拝心得書の中から拾ってみると、一三番一ノ宮(大日寺)、三〇番一ノ宮(善楽寺)、三七番五社(岩本寺)、四一番稲荷社(竜光寺)、五五番別宮(南光坊)、六四番里前神寺・奥前神寺(前神寺)、六八番琴引八幡宮(神恵院)、八三番一ノ宮(一宮寺)と多数にのぼり、かつては神社名そのものを札所名とし、今でも前神寺・一宮寺と習合の跡をとどめている。それら神社の祭神をあげ、現在の本尊との習合を考えるべきであるが、ここでは省略する。
 こうして、四国霊場信仰は多様であるにもかかわらず、真言宗が八〇か寺を占めることによって明らかなように、時代が下るにっれて弘法大師信仰が霊場を通じて顕著になった。これを大師一尊化の傾向ともいう。一尊化というのは厳密には妥当でなく、本尊は別にあるが、宗派の別を問わずいずれの寺院にも大師を祀り、ほとんど例外なく大師堂があって、遍路にとってはむしろ大師を崇敬することの方が厚いという意味である。遍路は、納経のしるしに納札をおさめるのであるが、その札ばさみの裏に「南無大師遍照金剛」と書き、表に「奉納四国中辺路同行二人」と書くべきことを真念は『四国遍路道指南』に教えている。あみ笠にも同じように書くことは周知のとおりである。この場合、遍照金剛は大師の密号であり、同行二人とは自分と大師ということで、孤独の自己に大師がっねにつき添ってくれているとの心からである。また、「御遺跡へは大師日々御影向あるにより、八十八か所の内いずれにてぞは大師に直にあひ奉る」(四国遍礼功徳記)とあるのが遍路の大師信仰をよく言い表している。また、札所の順番とは逆に巡ることを「逆打ち」といい、この方が大師にあいやすいという伝承もある。衛門三郎が二一回目にやっと阿波焼山寺の麓で大師に会うことができたのも、この逆打ちによるものであったという。この衛門三郎を四国遍路の始祖というむきもあるが、遍路の心を代表する初期の巡歴者としてのこの伝承を尊重したい。

 四国霊場八十八か所の成立

 四国遍路に大きい影響を与えた真言系修験頼遍は、醍醐寺仏名院の僧であるが、院主円遍から次の次の院主職に定められていた。ところが、放埓のあまり、数年間近国・遠国を放浪して寺を離れ、山伏として諸国を回っていたと主張するが、当門跡では修験・山伏を禁じているのであるから、院主一を継承する資格はないと朝顕という僧から非難された(醍醐寺文書、新城常三「鎌倉時代四国遍路の一史料」、『伊予史談』二〇七人合併号)。ここで今必要なのは、この内容の初めにある「修験の習」いとして、山嶽料そうや千日籠山などにあわせて、「四国辺路、三十三諸国巡礼」などが行われているということである。すなわち、四国遍路や三十三観音霊場巡りをすることを修験の習いという限り、多くの修験者が四国遍路に出ていたことがわかる。ところがこの文書は肝心の年月を欠いでいて的確にはわからないが、この前に出る文書などから推定して、弘安三年(一二八〇)より数年程度後のものということである(同)。すなわちこれで知られることは、弘安のころ、すでに西国三十三観音霊場は成立しているが、四国霊場八十八か所はまだ成立していないこと、そして、四国の霊地を回ることを「辺路」と称したことである。下って文明三年(一四七一)、福島某の寄進による土佐国土佐郡本川村地蔵堂の鰐口の銘に、「大旦那村所八十八か所」とあることが指摘され、村所、すなわち村内の八十八か所があるところから、これをミ二八十八か所とすると、この時以前に四国霊場八十八か所が成立していたとみられている。すなわち、四国の霊地は数ある中で、ながくその数は流動的だったであろうが、それがほぼ固定化したのは室町時代末期のことであった。そして、それからはずれたものが番外札所となり、札所の数とともに、以後さらに変動があっただろう。というのは、寂本の『四国遍礼場記』 (元禄二年、一六八九)は、札所番号をあげないで九五の寺院をあげており、なお番外札所との間に流動的なものがあったとみられるからである。
 なお、八八という数が熊野王子社の数九九の影響によるかどうかということは別にして、八八という数をなぜ選んだかということについては諸説があるけれど、『四国遍礼功徳記』に、「札所八十八とさだむる事、ある人のいはく、苦集滅道の口諦の中に集諦と見思の惑といふあり、此煩悩よく三界生死の果をまねき集む。此見惑といふに八十八使あり、此数をとて八十八ヶ所と定め」という説に落着くようである。すなわち、欲界のうち苦諦十使、集諦七使、滅諦七使、道諦八使で計三二使、色界・無色界については、四諦から各瞋使を除いて色界・無色界ともに二八使ずつ、そこで三界あわせて八八使、したがって三界四諦の下に総じて八八使煩悩とせられる。手に印を結び(身密)、口に真実を唱え(口密)、心に仏を念じ(意密)る三密修行をしながら八十八か所を回ると、本尊の三密と加持感応して諸仏菩薩と一体となり、即身成仏の仏果を得るという(宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』)。
 つぎに、一番をどこからはじめ、順番をどうしたか、それがいつごろ固定化したかということについても明らかでない。実際に詣る順序は、四国内の者は自分の住所近くの寺から始めるわけであり、四国の外から来る者にとっては、船便との関係で、和気・三津浜・丸亀・撫養・徳島というように上陸地点が異なるから、その近くの札所から打ち始めるのであるが、このことは札所の順番とは関係ない。ただ、大師信仰の立場からどこを打ちはじめにするかについては二つの考え方がある。一つは、高野山宝光院の学僧寂本は、大師出生の霊跡善通寺をはじめとしており(四国遍礼霊場記)、他は今日の阿波霊山寺を一番とするものであり、これは高野との関係からきているが、共に、まず高野奥の院に詣り、打ち終わると再び奥の院に報告するという大師信仰の立場からきていることは同じである。