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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

四 光定と天台宗の寺院

 延暦一三年(七九四)一〇月、桓武天皇の平安遷都は時代の大転回である。平安時代を代表する天台・真言の二大宗派は、国家仏教・貴族仏教といわれる性格を前代から受け継ぎながらも、その中に胚胎した新しい芽は、仏教の庶民化に支えられながら徐々に成長して鎌倉新仏教へと展開する。
 そこでまず天台宗であるが、天台教壇の設立は、伊予の生んだ光定に負うところが大きく、むしろ、光定の生涯にわたる業績が天台教団確立への過程を示すものであるから、まず光定の業績を述べることにする。光定の生年は宝亀一〇年(七七九)、時に最澄は一三歳、空海は七歳であった。その出自と修学については、愛媛県史『古代Ⅱ・中世』を参照されたい。

 大乗戒壇の設立

 学業成った光定は、弘仁九年(八一八)を転機として生涯をかけての大活躍を始めた。光定四〇歳のときのことである。光定は最澄から大乗寺を建てるようにとの命を受けた。大乗戒を保持する僧の住む寺という意味である。光定は師の命ずるままに、藤原冬嗣を通じて嵯峨天皇に上奏したが不成功に終わった。同年五月、さらに「天台法華宗年分学生式」を上奏した。いわゆる「六条式」と言われるもので、後に上奏された「八条式」「四条式」とあわせて「山家学生式」と言われる。これらは、すでに認められている天台業年分度者の修業年限や課程を規定しており、また、最終的に大乗戒壇の設立をめざすものであり、年分度者のその後の受戒、受戒後の修学とその後の登用について述べたものであった。ついで最澄の『顕戒論』三巻が、「顕戒論を上る表」を添えて天皇に上奏されたのは弘仁一一年(八二〇)であった。その主旨は、天台戒壇の設立に反対する南都の大寺出身の僧綱たちの表文に反駁を加えながら、大乗戒壇設立の必要性とその主張の根拠を述べ、裏付けとなる仏教上の古来の証文を示すものであって、大乗戒壇設立論の集大成であった。弘仁一三年(八二二)三月に入って最澄は病床に臥し、一七日の桓武天皇国忌の日を迎えた。光定は、生命を法海に捨てる覚悟で嵯峨天皇への上奏を願い出、同日夕刻天皇に上奏申し上げることができた。六月四日、全山悲しみのうちに最澄が遷化、その七日後の六月一一日天台の大乗戒壇が勅許された。さきに年分度者として天台業に二人認められたことは天台宗の成立を意味し、大乗戒壇の設立が認められたことは天台宗の確立を意味する。
 弘仁一四年勅額を賜り、比叡山寺を改めて延暦寺と呼ぶことになった。そして、四月一四日、義真を戒和上として天台初めての授戒が行われ、一四名が受戒したが、その中の一人が光定であった。最澄を助けて戒壇樹立に貢献した光定の労をねぎらうため、光定の戒牒には嵯峨天皇の宸筆を賜り、それが「国宝嵯峨天皇宸筆光定戒牒」として叡山に残っている。さらに、天長三年(八二六)七月六日、叡山に戒壇院を建立すべき宣旨を蒙り、翌四年五月戒壇院が建立された。

 伝述一心戒文

 最澄を助け、叡山と都の間を絶えず往復して公卿を通じて天皇に上奏し、南都大寺と論争もして大乗戒壇の設立に至ったこれまでの経過を克明に記録したのがこの『伝述一心戒文』であり、本稿でここまで述べてきた内容もほとんどこれによったものである。「一心戒文」とは「一心戒」についての「文」ということであり、一心戒とは大乗戒とか一乗戒と言われるもので、光定もこの書中ではむしろ一乗戒という言葉のほうを多く用いている。また、大乗戒は一般に菩薩戒と言われ、特に天台では円頓戒とも言われる。大乗戒は、梵網経にもとづき、十重禁戒と四十八軽戒の実践をあげ、小乗戒のように出家と在家の区別をすることなく、僧俗共に戒律による修行と仏性の自覚によって仏となることができると説く。こうした大乗戒を一心戒と呼ぶのは、達磨の一心戒を承述するという意味であるが、わが国ではこれまでに例がない。もちろん、天台の教学の中でも光定によってはじめて用いられ、しかも強調されたのはどういう理由からか明らかでないが、これを作成した直接の動機に結び付けて言うと、戒壇の独立を成し遂げ、戒壇院の知事としての立場から、後に述べる円澄の伝える大乗戒が真の円頓戒であることを強調するため、これまで用いなかったこのことばを特に用いたのではないかと推察される。
 すなわち、伝戒の正統を明らかにするための歴史的叙述がまず下巻の内容の重点となり、そこでは、達磨の事蹟と聖徳太子にまつわる片岡山飢人の伝説、南岳慧思とその再来としての聖徳太子、日本に迎えられて最澄の師となった道せん、戒律をもたらした鑑真、そして最澄・義真・円澄と伝えた正統が述べられている。これらの中で、聖徳太子を南岳慧思の化身とし、片岡山の飢人を達磨であったとする太子関係の信仰を強調することをはじめ、太子信仰の厚いことが窺えるのはこの文の特色であり、最澄の太子信仰とともに特筆すべきことである。現在も残っている西塔の椿堂は、聖徳太子信仰を象徴する叡山の遺跡で、小さい堂の前に、聖徳太子の持たれた椿の杖が活着したという伝説の椿の何代目かが植えられている。また、一心戒文には一心戒の教義の説明があるが、ほとんどが引用文である。
 ところで、一心戒文は天皇に上奏するために書かれたもので、承和元年(八三四)正月二八日に完成し、上表文を付けて上奏したのが二月一八日である。だから、これ以後の記述があるということは、その部分だげあとで付記されたということである。すなわち、承和二年一〇月一八日のことが載っている中巻は上奏されていない。上・中・下三巻からなる一心戒文のうち、二月一八日に上奏された部分は今日に残る下巻の部分だけで、上・中の二巻は光定によって後に追加されたものである。
 そこで、下巻を中心に本書撰述の目的を考えると、「本書は、義真和尚寂後の座主補任の問題を契機として生まれたものであり、即ち義真和尚の推挙した円修和尚を排して、円澄和尚を推挙したいというのが動機であり、而してその目的の達成のために為したるあらゆる工作を、巻下を中心に伝述しようとしたのが、本書全体の真の目的である」(福井康順「伝述一心戒文新考」『山家学報』新十号)ということになる。さらに、古川英俊氏の「前の伝述一心戒文一巻に就て」(『叡山学報』一九号)によると、現存の巻下のうち、末尾に付けられた藤原三守あて二通の嘆願書と、三守と和気真綱あての感謝状を除く部分を「前の伝述一心戒文」と呼び、その内容について、「大乗菩薩戒伝承の歴史と教義とを縷述して、深高なる大乗円戒を伝持するには、円澄の如き耆宿その人を得なくてはならぬ事、及び義真の次に円澄を推すのが、先師伝教の遺志を全ふするものである事」を説明したものであるとしている。
 それでは、何のために巻上と巻中を加えたかを、内容からみてどう考えたらよいのであるか。結論として、巻中の三の末尾に、「一宗の同法は、片目でもこの文を看てほしい」と言い、巻上に「心ある道俗が一片の目をこの私記にそそいでくれることを願うのみである」(ともに原漢文)と言っているとおり、一山の僧侶を中心に、朝廷をめぐる人々や南都の僧たちにも読んでもらいたかったのであろう。すでに上奏した一心戒文で明らかにした伝戒の歴史や教義内容、伝戒の正統性、大乗戒授戒の内容などについて、さらに詳細に補足しだのが巻上と巻中である。巻上の五条では、年分度者、大乗寺の建立、四条式と顕戒論の上奏などが記され、巻中の一四文では、再びこれらのことが述べられるほか、年分度者の勘籍、授戒の戒牒、戒牒に捺す太政官印、鴻鐘と戒壇講堂の建立、国師・国講師・安居講師の任用など、さらに具体的な内容に及んでいる。
 そうすると、一心戒文を書く直接の動機からすると、巻下の大部分は承和元年(八三四)正月二八日に完成し、のちに巻上と巻中を補足として書き加えたことがわかる。それでは、その書き加えがいつ行われて、今日の伝述一心戒文が成立したか。その考証は前述の古川氏の論述に詳しく、結論として、伝述一心戒文の完成は、承和三年のことで、しかも一〇月二六日の円澄入寂以前である。時に光定は五八歳であった。なお、伝述一心戒文は、愛媛県史『資料編 学問・宗教』に全文を掲載してあるので参照されたい。

 別当大師

 最澄のあと第一代天台座主になった義真が急逝、そのあとの座主位をめぐる紛争の中で、光定はかねてより私淑する円澄を推挙することに成功したが、この第二代座主は在位三年で入寂、そのあと再び叡山はもとの紛争にもどり、円仁が第三代座主に任ぜられるまで座主職は空位のままであった。この円仁が人唐したのは円澄入寂後二年目の承和五年、帰朝したのが同一四年、しかも第三代座主に補任されたのが仁寿四年(八五四)であるから、座主の空位は一八年間に及び、光定はすでに七六歳になっていた。この間、承和五年円仁人唐の年、光定は法位として最高の伝燈大法師位に叙せられ、戒和上に任ぜられて授戒の任に当たり、一山を率いて法燈を守った。仁寿四年円仁が第三代座主となるとともに光定は延暦寺別当に補せられ、折から抗争中の円珍派が園城寺に移ったあと、座主を助けて叡山を守った。そして、天安二年(八五八)八月一〇日北谷妙見堂に八〇年の生涯を閉じた。著作は『一心戒文』三巻など七部、現存するのは一心戒文と『唐決』一巻のみである。

 松山の天台寺院

 光定の影響もあって、平安時代には、多くの寺院が天台に改宗し、あるいは新しく建立されたであろうけれど、伊予では真言宗に圧倒されてそれほど弘布されず、その後他宗に転ずるものもあって、昭和四四年の統計(全国寺院名鑑)によると、真言宗の三〇〇か寺に対して天台宗はわずかに四九か寺(山門派二六、寺門派二三)にすぎず、それも松山市と東宇和郡に集中している。
 松山地方で当時最も盛んだった天台の寺院は弥勒寺であったが、早く廃絶して松山市食場町横谷の弥勒寺山に跡をとどめるだけである。『愛媛面影』にも採り上げているのであるが、『類聚国史』天長五年(八二八)一〇月の条に定額寺に預かりとあり、同書ならびに『続日本後紀』の承和七年(八四〇)九月の条に天台別院になったとある。定額寺というのは、朝廷で数を制限して定めた官寺で、『愛媛面影』は、一国に二、三か寺を定めたから、伊予の定額寺は国分寺とこの寺だろうと言っており、大寺であったことがわかる。また、別院というのは、一宗の本山のほかにこれに準ずるものとして各地に設けた寺院であるから、このことからも天台の寺院としては伊予国随一の格式を保っていたことがわかる。ちなみに、道後宝厳寺にもそのような寺伝があるが、おそらく誤りであろう。このような大寺であった弥勒寺は中世末期までに衰退していたとみられ、境内にわずかに残った薬師堂は石手寺へ、毘沙門堂は、加藤嘉明の松山城築城に際し城山の東に移建、毘沙門堂の跡に毘沙門坂の名を残し、正岡子規の俳句に詠まれている。横谷の弥勒寺跡には、弥勒寺山・大門・弥勒堂・毘沙門堂・薬師堂などという地名を残すだけという。
 松山市東大栗にある醫座寺は、天長六年(八二九)光定による再興と伝え、後に作られたとみられる光定木像を祀っている。もと法相宗の寺で、慶雲三年(七〇六)行基によって開創、本尊薬師如来は行基作伊予七薬師の一つと伝える。また、松山市菅沢町の佛性寺は、承和五年創建、開山光定、開基越智実勝・興躬父子と伝える。その後、天慶三年(九四〇)越智好古(方カ)による寺領寄進、康平六年(一〇六三)の源頼義・河野親経による五坊修理という伝承は明らかでないにしても、通信以来河野代々の外護を得たという伝えである。
 これらの寺を中心に天台宗がこの地方に弘布されたことは明らかで、この地方の山間部にある天台の寺には、今は佛性寺に併合されて廃寺となった吉祥寺(松山市城山)、おそらく貞観(八五九~八七六)ごろの創建で七堂伽藍、子院二二坊をもった大寺であったと伝えられる西法寺(松山市下伊台)、貞観二年開創、開山安慧、開基越智息(深)躬と伝え、のち新田義宗・脇屋義治の菩提寺であったという圓福寺(松山市藤野町)などがある。
 平地部に下ると、貞観年中慈覚大師(円仁)創建と伝える松山市祝谷東町の常信寺があり、天台別院弥勒寺の塔頭だったとする説もあるが、いずれも明らかにこれを裏付ける史料はない。のち、松平定行入封後の慶安三年(一六五〇)祝谷山常信寺として再建され、松平家菩提寺となって以後はこの地方の天台寺院を末寺とし、天台の触頭となった。また、現在は時宗である道後宝厳寺(天智四年=六六五草創、開山法相宗法興律師、開基越智守興と伝える)にも、天長七年法相宗を天台宗に改めて天台別院となり、官符による定額寺になったという伝え(延享五年「御領分寺院」)と、光定留錫説(同寺縁起)があるがいずれも確かでない。なお、道後付近の寺に得智山継教寺があって、寛元三年(一二四五)この寺の縁教律師に松寿丸(のちの一遍)が学んで名を随縁と改めたといわれているが、この継教寺がどこにあったか、またその開創年など全くわからない。もう一つ道後平野に正観寺(松山市北梅本町)という天台の古寺がある。神護景雲三年(七六九)行基による創建、本尊薬師如来は行基の作と伝えられ、伊予七薬師の一つといわれる。おそらく法相宗で、天台への改宗年代は不明であるが、この地方に天台が布教され始めたとき以来の天台寺院であることにまちがいはないであろう。のち河野家累代の祈願所として外護を受けた。そのほか、この地方には、梅本院(松山市北梅本町)・常楽寺(松山市勝山町、六角堂)など寺門派の六か寺が現存するが、右にあげた山門派の寺院より創建ないし改宗の年代が下る。なお、これらの中にはかつて修験(山伏)の寺であったものも含まれるが、明治の廃仏前にはもっと多くの山伏寺があった。

 その他の天台寺院

 道後地方とともに天台寺院の多いのは東宇和郡で、現在、歯長寺など山門派寺院十二か寺、明石寺など寺門派寺院が二か寺の計一四か寺がある。中でも宇和町は、南予では最も早く開けた土地で、旧宇和郡の中心として仏教文化の栄えたところであり、天台の注目すべき古寺が三か寺ある。
 福楽寺(宇和町河内)は、塔満山、本尊十一面観音。康保二年(九六五)開創、開山安一(貞元二年=九七七寂)、最盛時には山上一二坊、山下一二坊の大寺であったというが、のち天正一五年(一五八七)、戸田勝隆が入部後寺領を没収、方丈を大洲二の丸に持ち去り、塔の九輪を城下に移すなどの破壊に遭って衰退した。
 歯長寺(宇和町伊賀上)は、大竜山、本尊千手観音、もと法華津山系歯長峠下にあり、天平勝宝二年(七五〇)孝謙天皇勅願所として建立したとも伝えられるが、治承年間(一一七七~一一七八)足利(田原とも)又太郎忠綱が源氏に敗れて西国に下り、歯長峠一本木奥の谷に隠栖(宇和旧記)、そこにあったこの寺の草庵を再興して以来天台宗歯長寺となった。その後荒廃していたのを、天台戒壇建立のため宇和郡に下向していた京都法勝寺の理玉が、当時この地方に所領をもち、あわせて代官として西園寺の荘園を支配していた開田善覚と相談、その援助によってこの寺を再興(元応二年=一三二〇以前)、すなわち、理玉を中興開山、善覚を再興開基とする。この寺に残る『歯長寺縁起』(重要文化財)は、理玉によって戒壇が設立された等妙寺(北宇和郡広見町芝)とこの歯長寺の両寺に関する縁起で、住職寂証(開田善覚の子)が元徳三年(一三三一)に筆録したものである。
 明石寺(宇和町明石)は、源光山円手院、本尊千手観音(唐より伝来と伝える)、天平六年(七三四)開創と伝えられ、のち聖護院寿元によって天台宗寺門派寺院となった。また、承和三年(八三六)に熊野十二所権現が勧請され(室町中期の作と推定される「熊野曼陀羅図」を残している)、さらに下って、源頼朝が再興して従来までの現光山を源光山に改め、池の禅尼の菩提を弔うために阿弥陀堂を建立したといい、その冥福を祈ったという五輪の経塚が境内の墓地にある。のち西園寺氏の祈願所として全盛期を迎え、江戸時代にも天台系修験の中心寺として繁栄した。
 ついで、南予て天台寺院の多いのは北宇和郡で、その中心寺は等妙寺である。延暦二二年(八〇三)叡山の聖明を開山として創建したという説があるが、天台開宗は八〇六年であるから疑わしい。元応二年(一三二〇)京都法勝寺理玉による再興以後は明らかに天台の寺院であり、しかも、元弘元年比叡山延暦寺円頓戒場会天下四か寺の一つとして、関西屈指の道場であった。ほかに、妙覚寺(三間町、延暦年間の開創と伝える)・福厳寺(吉田町、源信開創と伝える、現臨済宗)なども平安期の天台寺院であったとみられる。
 東予地方には、現在天台宗の寺院は極めて少ないが、かつて天台宗であったとみられる寺院で、やや注目すべきものがある。東予市河原津の道場寺(現臨済宗)は、寺伝によると、のちの第三代天台座主円仁(八六四寂)の開創で「河原道場」あるいは「三井道場」といわれたというが、三井寺(園城寺)は讃岐出身の円珍(八九一寂)の創建であるから、あるいは円珍を円仁に誤ったのかも知れない。この河原道場は天台念仏系の寺院であった。天台念仏系寺院といえば、右にあげた福厳寺が源信の開創というから同様であるし、川之江仏法寺(現浄土宗)も同じで、これも源信により寛和二年(九八七)に天台の寺院として中興という。また、もう一つ問題なのは、現在廃寺の状態にある今治市中寺の石中寺(天台宗寺門派)で、神護景雲二年(七六八)示寂の法仙による開創と伝えられ、天台系修験に石土修験道が習合して、戦前まで著名な修験道場であったが、檀家をもたぬため維持ができなかったのでもあろうか。