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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 中央寺院の荘園と仏教

 封 戸

 聖徳太子と蘇我馬子の発願により飛鳥寺の造営を始めたのは崇峻天皇元年(五八八)であったが、これが完成したのは推古天皇四年(五九六)一一月のことである。その前月、聖徳太子は、僧慧聡らと共に伊予の湯に浴し、湯の岡に碑を立てたと伝えられており、必ず仏教上の影響を残したと思われるが、道前と道後にそれらしい伝承はあるものの明らかでない。その後、推古一三年(六〇五)には飛鳥寺に丈六の仏像が造立されたが、この寺は、後に法興寺、さらに元興寺と改められた。それから約一〇〇年後の和銅二年三月二八日、宇摩郡常里(現土居町津根か)の戸主金集史挨麿の弟保麿が、飛鳥寺で受戒して公験を受けており、伊予国ではじめて名の見える僧侶として注目される。すでにこのころに存在した全国の地方寺院四九の中に伊予の寺もあったとみられ、地方の豪族による仏教の受容もあったことであるから、こうした僧の名が見られることは不思議でもない。
 それから間もなく、養老七年(七二三)、奈良興福寺(天智八年=六六九、藤原不比等が山城国山科に建立、和銅三年―七一〇平城京に移建、もと山階寺〕に施薬院・悲田院が建立されたが、その費用にあてるため、伊予の水田一〇〇町が施入されている(扶桑略記)。この時施入されたものは、他に封戸五〇烟、越前国から稲一三万束であるから、伊予国からの施入が大きかったことがわかる。このあと、伊予から中央寺院へ寺領が寄進されることが多くなるが、これが最初であることに注目を要する。
 これよりさき、文武二年(六九八)飛鳥に建立された薬師寺は、養老二年平城京に移建されていたが、天平五年(七三三)、伊予の封戸五〇戸がこの寺に施入された。また、下って神護景雲三年(七六九)にも施入されているが(同)、その戸数は明らかでない。
 封戸というのは、大宝元年(七〇一)に完成した大宝律令中の令制によると、食封として給付される民家をいうもので、受給者を封主といい、封主は、租税のうち調・庸の全部と租の半額を収め、租の半分が官に納められたが、天平一一年(七三九)には全額が与えられることになったので、封主としての寺にとっては重要な収入になった。なお、食封には、位封(位階に応じて給付される)・職封(官職に応じて給付される)・功封(功労に応じて給付される)・別勅符(社寺または本封以外に給付される特別給付)などがあり、律令政治の衰退と封主の台頭によって、やがて封戸が荘園成立の一要素となる(景浦勉『伊予の歴史』上)。
 ついで、天平一〇年一一月、伊予の封戸一五〇戸が藤原氏の氏寺である興福寺に施入されたが(新抄格勅符抄)、これはさきの水田一〇〇町歩の施入に続くものであり、また、下って天平勝宝五年(七五三)八月には一五〇戸と続いている(同)。ちなみに、興福寺と薬師寺に施入された封戸が伊予のどこにあったかは不明である。

 初期荘園

 各国に国分寺の建立が命ぜられてからまもなく、天平一九年二月一一日、大和国法隆寺(推古一五年=六〇七創建)の資財調査の結果が報告された。その『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、伊予国の一四か所(神野郡一処、和気郡二処、風速郡二処、温泉郡三処、伊余郡四処、浮穴郡一処、骨奈島(忽那)一処)がその所領となっていることがわかるが、忽那島以外はその場所を特定することができない。
 すでにそのころ、総国分寺としての東大寺の建立は進んでおり、完成も間近いこの寺において、天平二〇年(七四八)四月二五日、久米郡天山郷の人久米熊鷹は、東大寺へ出家を願って僧となっている。時に年五〇歳というから随分遅い出家であるが、写経所に勤めたらしく、同年一一月二〇日、腹痛のため写経所に休暇願いを提出している (正倉院文書)。この年までに、僧尼となるべき者一三三名の貢進があり、うち伊予の人が二名であったというが、そのうちにこの熊鷹が含まれていたかどうか、いずれにしても、七〇九年の金集保麿以来二人目の僧の名である。久米氏というから、久米郡の豪族の出で、伊予では古代の建立としてまれな氏寺である久米寺に関係があるかもしれない。また、翌々年の天平勝宝二年四月七日、同じく久米郡石井郷の田部直五百依が東大寺で得度している(正倉院文書)ところをみると、久米郡における仏教の様子と東大寺との関係を推察することができる。
 東大寺大仏殿の完成は天平勝宝元年(七四九)七月であるが、翌二年二月二三日には、東大寺施入の封戸が五〇〇戸に増加し、その中に伊予の封戸一〇〇戸が含まれており(新抄格勅符抄など)、さらに翌々年の四年四月に大仏開眼供養が行われたあと、一〇月二五日、風早郡および温泉郡の封戸一〇〇戸が東大寺の寺家雑用料にあてられている。右と合わすと二〇〇戸にもなり、東大寺に対する伊予の貢献の大きさを知ることができる。ちなみに、右の一〇〇戸のうちわけは、風早郡粟井郷の五〇戸、温泉郡橘樹郷(立花郷)の五〇戸である(東大寺文書)。さらに、伊予と東大寺の関係を示すことがある。天平勝宝八年一〇月二六日、黒刀自女の子で東大寺の奴浄水(一八歳)が東大寺を脱走して伊予へ帰った。おそらく故郷恋しさのゆえであろうが、伊予から貢進されていたのであろう。
 さらに、同年一一月二〇日、これよりさき新居郡新井庄が東大寺に寄進されていたが、この日この庄の四至が定められている。その四至(四方の境界)は、東は山に続き、西は川に接し、南は駅路、北は小野山に至るというもので、この四至内に野八〇町、池地三町六段一一〇歩があって、この池を柏坂の古池と称したということである(東大寺文書)。この位置は明らかではないが、長山源雄の「伊予に於ける荘園の研究」五(『伊予史談』一〇九号)によれば、まず、船木村に「歌詩話峠」があり、その南に『西条誌』にいう周囲一八町の池田池があり、これが文書にある池であろうと推定、そして、この池が東境に近く、それから西へ、新居駅の所在地とみられる松木へ延びる駅路を南にした船木・泉川の地域ではないかと推定している。
 それから一九四年後の天暦四年(九五〇)には、田地四町六段一八〇歩、畑八八町三段一〇歩、合計九三町あったが(正倉院文書)、さらに長徳四年(九九八)には、水田が一町八〇歩減少し、畑地が四町六段一八〇歩増加して、合計九六町六段一〇〇歩が維持されている(東大寺要録)。その後、一般にこうした寺領の荘園化が進む中で、天永三年(一一一二)八月二一日、東大寺は、伊予国司に対し、同寺の封戸二〇〇戸の調・庸・雑物等の代米および未納分を納入させるよう通告している(東大寺小櫃文書)のは、荘園の実権者が租税を納めなかったためで、封主の統制力の弱体化を示している。
 新居庄が東大寺に施入された翌々天平宝字二年(七五八)六月二二日、伊予介某によって東大寺写経所に送り込まれた一人の経師がいる(続々集正倉院文書)。さきの久米熊鷹に続く者である。
 奈良時代における中央の寺院と伊予の関係を示すものとしては、続いて天平宝字三年のころ、大和国法華寺金金堂造営のため伊予国の篩用糸が使われ、翌四年には、観世音像造立のため伊予国の砥が用いられたということがある(いずれも正倉院文書)。

 貞観寺領

 平安時代に入って貞観九年(八六七)二月一九日、右大臣藤原良相は、山城国貞観寺に伊予郡苧津庄田四九町五段一三一歩を施入した(仁和寺文書、貞観寺田地目録帳)。良相は藤原冬嗣の第三子、天安元年(八五七)に右大臣となり、貞観九年一〇月一〇日に病没しているから、その荘園寄進は死の直前のことである。貞観寺は、もと嘉祥寺といい、嘉祥三年(八五〇)、仁明天皇崩去の後、清涼殿を移して伏見深草に建て、翌年完成したもので、僧真雅を開山とし、年分度者三人を許され、貞観四年、その両院を貞観寺として定額寺となり、座主制が認められて独立した大寺であったが、平安末期に仁和寺別院となり、その後廃寺となった。この寺の創建にあたって中心になったのは藤原良房で、良相はその弟である。伊予郡苧津庄がどこであるかは明白でないが、その面積は四九町と大きく、この時良相が寄進した七か所の荘園の一つであるから、貞観寺繁栄のほども想像できる。

 醍醐寺領

 醍醐寺(現京都市伏見区山科醍醐、古義真言宗醍醐派本山)は、貞観年中(八五九~八七七)に空海の法孫聖宝(延喜九年没)が山上に草庵を建てたのに始まり、延喜七年(九〇七)には醍醐天皇の行幸があり、山下に釈迦堂の寄進を受けて御願寺となり、同一三年一〇月には定額寺、一九年には座主職が認められ、承平元年(九三一)六月には年分度者二人が置かれ、同三年一月には藤原忠平から封戸の施入を受けた。さらに、六年(九三六)八月一〇日、皇太后藤原穏子から伊予国二五戸等の封戸を施入されたが(醍醐寺要書)、それがどこであったかはわからない。
 ついで、天暦三年(九四九)三月、清涼殿の余材で造った法華三昧堂が成り、三宝院・円光院などの塔頭も建てられるなど、大伽藍の威容を誇るようになった。この円光院の願主となった賢子(白河天皇皇后)の祖父土御門師房(~承暦元年=一〇七七、村上天皇の孫で関白頼通の猶子、右大臣)は、越智郡大島甘原に三〇町歩の荘園を持っていた。この土御門家所領の土地が、同じ大島吉浦の五〇町歩の荘園と共に、藤原基隆が伊予守に任ぜられた天仁元年(一一〇八)以後、醍醐寺円光院に寄進された(領家職は土御門家)。吉浦分は基隆の所領であって、これを寄進することによって醍醐寺を荘園の本家としたものであるとみられる。下って大治二年(一一二七)の記録により、この円光院領が、吉浦四三町、甘原三七町と確認されており、領家が中院右大臣雅定に替わっている。
 なお、平安時代に入っても、奈良の諸大寺と伊予の関係は続き、記録の上では、元慶五年(八八一)九月二六日の興福寺への稲穀の施入(三代実録)、天禄四年(九七三)に焼失した薬師寺の造営に伊予国が当たらせられ、正暦三年(九九二)には東大寺が伊予にある寺領の封物進米の調査を行い(正倉院文書)、その後もしばしば東大寺へ進納する封米のことが平安末期まで散見されるといったぐあいである。

 石清水八幡宮護国寺領

 天暦七年(九五三)二月二三日、伊予国の封戸二五戸が石清水八幡宮護国寺に充てられたが(扶桑略
記)、その所在は不明である。石清水八幡宮は、山城国綴喜郡男山(京都府八幡市)にあり、大和国大安寺行教の奏上に基づき宇佐八幡を勧請、清和天皇の御願により貞観二年(八六〇)に成ったもので、八幡大神(応神天皇)・大帯姫命・比咩大神の三神を祭る。さらに弥陀三尊を安置して護国寺とも言い、塔頭として宝塔院その他が設けられたが、これは、宇佐八幡の宝塔院に対して東宝塔院と言われる。
 下って延久四年(一〇七二)の官牒によると、石清水八幡護国寺領のうちに、石(岩)城島・生名島・佐島および温泉郡味酒郷があるから(石清水文書)、この年までに護国寺領になっていたことがわかる。また、この文書で、荘官の権力に石清水が手をやいていることが記され、荘園崩壊の端緒を窺わせる。さらに下って承安元年(一一七一) 一二月一二日の宣旨によると、全国一二か所の宝塔院領の中に伊予国玉生庄があることがわかるが(石清水八幡宮記録)、これにもまた荘官の横暴が戒められていて、荘園崩壊のきざしを示している。玉生庄の位置については、現在の伊予郡松前町昌農内(庄之内)字玉生辺りとみられる。
 右の荘園のうち、石(岩)城島は、下って天正一三年には村上武吉の所領になっていたことが知られるし(東寺百合文書)、生名島も同様であったことが天正一一年の文書でわかる。また、佐島には今のところ史料が見いだせないが、位置からいってもおそらく石城・生名の両島同様村上氏の所領になったとみられている。また、温泉郡味酒郷は、室町時代には河野の勢力下に置かれていたものとみえ、嘉吉二年(一四四二)三月八日、河野通元によって、その地頭職を東寺不動堂に寄進されている(東寺文書)。さらに同四年九月三日には、伊予郡玉生庄の役夫工米が停止され、これよりさき、同年七月二九日には、伊予郡神崎郷出作保の石清水八幡宮護国寺への役夫工米が停止されていることから、この出作保も玉生庄同様護国寺の所領であったことがわかる(いずれも石清水文書)。なお、石清水八幡宮領として伊予郡吾河保があったことは、元久二年(一二〇五)一二月の「石清水文書」によって知ることができるから、吾河保にある伊予岡八幡神社と称名寺がそれぞれ石清水の末社・末寺であったのではないかと推定できぬことはない(長山源雄「伊予に於ける荘園の研究」)。中央社寺の末社・末寺がその所領である地方の荘園内にあることは、特に石清水の場合には他にも顕著な例があって明白なことであり、いずれの場合にも予想されることであるが、案外にほとんど明らかでない。

 仁和寺法勝院領

 つぎに、安和二年(九六九)七月七日、仁和寺法勝院が焼亡し、寺領伊予国宇摩郡豊村庄などの公験が失われたという仁和寺文書から、豊村庄が法勝院の荘園であったことがわかる。これによると、この庄の田地は一九町九段一二八歩であるが、同院内の西僧房の焼失によって失ったので、その領有権を確認されたいと国司等に求めたものであり、その中に、これらの荘園は、基遍大法師が存生のときに領掌したものであって、それ以来数十年を経ているというのでおよその時代はわかるが、豊村庄の所在を特定することができない。
 ちなみに、仁和寺(京都市右京区御室、真言宗御室派大本山)は、光孝天皇の御願により造営が始められ、宇多天皇が継承して仁和四年(八八八)に完成、御落飾後、みずから延喜四年(九〇四)同寺に移られたため御室御所と称して門跡制が始まり、その後は代々法親王が入られた名刹である。最盛時には塔頭が六〇余にも及んだといい、その一つが法勝院であった。

 長講堂領

 源頼朝が鎌倉に幕府を開く前年の建久二年(一一九一)、建礼門院徳子の乳母藤原綱子は、弓削島荘を長講堂へ寄進した(島田文書)。また、同年の「島田文書」によると、同じ長講堂に忽那島荘・三島荘がそれ以前に施入されていたことがわかる。
 長講堂は、寿永二年(一一八三)、後白河法皇が、法華三昧長講の修法を行うため御所六条殿内に建立したもので、これを造営するとき、忽那島の領主藤原俊平は米麦二百斛を寄進していた(忽那島開発記)から、それに続いて土地の寄進となったもので、この場合、本家は後白河院で、領家職が長講堂に移ったものとみられている。同じ建久二年の文書に見える三島荘については、ずっと下って応永一四年(一四〇七)の「長講堂目録」に、やはり忽那庄と共に記されているが、同二〇年の御領目録には脱落しているという。
 長講堂領となった弓削島荘は、もと前記藤原綱子の養母真性尼が領有していたが、承安元年(一一七一)綱子に譲渡せられていて(東寺百合文書)、それが建久二年長講堂に寄進されたのであった。そして、この場合も、本家は後白河院で、領家職が長講堂に移ったものとみられている。ところが、その後、弓削島荘は後白河院の寵愛を得た宣陽門院に伝領され、さらに、宣陽門院は、延応元年(一二三九)、これを東寺に寄進している(東寺百合文書、景浦勉『伊予の歴史』上)。