データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 算額

 算額とは和算の問題(額面題)を記した扁額すなわち数学の額をいい、和算家が自己の考案した問題や解を絵馬にして社寺に掲げたものである。算額奉掲の風は和算初期のころからはじまり、寛文、延宝のころからといわれる。延宝元年(一六七三)の村瀬義益著の『算法勿憚改』に、武蔵目黒不動尊に掲げた算額問題をのせ、つづいて「扨又時のはやり事に惣て爰かしこの神社に算法を記掛侍る事多し」と述べているが、算額奉納の習俗はすでに江戸初期にあったことが窺えるのである。
 算額奉納の目的は、一般絵馬のごとく神仏に感謝あるいは祈願する意味で奉納することもあるが、遺題(問題)を掲げて答術を広く江湖に募る意図からであった。従ってそれに応じて答術を奉納する者も出た。この風潮は寛政ごろから明治にかけて全国的に流行をみたらしいのであるが、本県においても残存資料からそれは納得できそうである。しかも本県の場合、天保・嘉永・明治と、だいたい二〇年周期でピークになっているのが注目される。

愛媛の算額

本県における算額奉納の風はいつごろか、古い時代のことは史料がなく不詳というしかないが、現存史料からいえば江戸中期以降である。
 本県には三〇面の算額が現存している。『愛媛県誌稿』所載の松山市味酒町の阿沼美神社に存したと伝えられる一面と、所在地不明の算額一面、及び伊予市上吾川の伊予岡八幡神社に伝存されていた二面を加えると三四面の存在を確認できることになる。いま県下算額の所在地および奉納者を表にすると次のごとくである。
(参照 「愛媛県算額所在地・奉納者一覧」)

 県内最古の算額

 (表1)で見るごとく県内最古の算額は、大洲市新谷字山口の金刀比羅宮(現山口神社)の天明八年(一七八八)の算額である。つぎが松山市道後の伊佐爾波神社の享和三年(一八〇三)である。金刀比羅宮のそれは全国的に見ても古いほうで、現存古算額中の第一八位にある。保存状態も良好であり、額面も鮮明で本県における現存算額中の尤品で、昭和四一年一一月、大洲市民俗文化財に指定されている。
 本額奉納者は、兵頭正甫門人の別宮四郎兵衝猶重である。新谷藩の人であるが両人とも事磧等不詳。本額は世にいう額面遺題で、答術がないのは古い型の算額の様式に則ったものといえる。
 参考までに、額面の読み方および意味・現代解を次頁に示しておく。

                        読み方

 今:鈎股弦の図の如く天地人三円心乃ち三円の径等分を容るる有り。只言ふ。天円の中心従り地円の中心に至る斜は若干。別に言ふ。股弦の差従り而も鈎寸の長きこと若干。問ふ、鈎股弦円径各幾何。
(参照 「愛媛の算額」)

 伊佐爾波神社の算額

 当神社には二二面の算額が所蔵されている。一神社にこれだけ多数の算額が時代を追って保存されている例は全国的にも稀なことであろう。文字がだいぶん不鮮明になってきてはいるが、額面そのものの保存状態はよい。ともかく質量ともに和算研究上貴重な文化財であり、昭和五六年松山市民俗文化財に指定されている。また算額研究家で、近畿数学史学会々長の桑原秀夫も当社算額を高く評価している。
 当社算額の特色は、
 (1) 一神社で二二面現存すること。(全国唯一と思われる)
 (2) 一人一額であること。
 (3) 一額一題であること。(ただし二問題額が三面ある)
 (4) 江戸後期から明治年間まで、ほぼ年次的にあること。
 (5) 松山藩内の和算が関流であったこと。
 (6) 嘉永年間が松山の和算隆昌期で、山崎昌龍門下から多数の和算家を輩出していること。
 (7) 明治年代の算額が四面あること。
 (8) 昭和一二年の算額があること。
 奉納者中村正教は明治二年二月一九日生。昭和二五年当時松山市湯渡町一〇三に居住した。この算額は和算廃止後六〇年後に属し、前記明治の算額とともに松山地方における和算道の根深かさを物語る資料として注目される。
 なお、全国県別の現存算額数と現存古算額順位を参考までに表示しておく。ただし、この表作成後において、最近、京都北野天満宮から貞享三年(一六八六)銘の算額が発見されたニュースがあった。これは元算額の額面を塗りつぶし、別絵馬として掲げたものが、絵具が剥落し、下地の元の和算額面が現われて発見につながったものであるので全貌がはっきりしないため、ここでは番外として扱っておく。
(参照 「全国県別現存算額数」、「現存古算額」)

愛媛県算額所在地・奉納者一覧

愛媛県算額所在地・奉納者一覧


浅山秀博・武田三千雄『愛媛の算額』より

浅山秀博・武田三千雄『愛媛の算額』より