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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 伊予の和算家(略伝)

 伊予における算道の歴史は、天明年間に新谷藩に別宮四郎兵衛猶重がいたことが算額によって判明しているが、その事蹟は不詳である。このころ松山藩には円光寺僧立、福延和平佐衛門なる和算家がいたようである。『松山叢談』によれば、天明六年の松山隠士を選べる『名人異類鑑』中に、「諸芸の名ある人」として両名が挙げられており「算上上」と記している。すなわち、和算の達人として当時聞えていたのである。なお、これは天文学であるが、好川又六の名があり、「中」と評価している。
 また『当世芸評判』(天明六年書写本)なる当世人物評判記にも
    
      算
   上上  円光寺
   上上     水野吉左衛門家来 伊藤武平次
  両人とも上手と言べし。達者なるは伊藤と見へたり。然共円光寺は江戸にて広く修行したる者なれば、後々は名人とも成べし。


と評されている。すなわち、円光寺某は江戸で和算を正規に学んだ者であり、その将来性が期待できるというのであろう。

 新海程次郎

 「算術に志し深く、平生寝るにも十露盤を枕元に置きて臥すに、精心算に入るにや、睡中に双露盤かちかちと動きしよし。追々上達熟練し、或時、海上にて行(く)船を十露盤を以て止めし、又錠を明け、或は失物等も算を以゛(て)判断す。其術妙を得たりと云口碑」とあり、その達人ぶりを伝えている
(『松山叢談』第十二中)。失物を十露盤でもって判断したのはいわゆる算易のことで、かれはその熟達者であったのであろう。

 大西佐兵衛

 名を義全または義路という。松山藩家老水野家の用人であった。江戸で丸山良玄に学び、和漢の学を修め、書もよくした。伊佐爾波神社に享和三年(一八〇三)に算額を奉納しているが、それに「東都丸山良玄門人」とある。
 かれの手になる『雑題』と題した写本三〇冊が現存(愛媛県立図書館蔵)しているが、書中に『研幾算法』(建部賢弘編)の『演段諺解』と題するのがあり、『神壁算法』(藤田嘉言編)の選題解がある。中に一巻は「線上累円術」と別名し、とくに巻末に大西佐兵衛義路と記し、二つ押印をしている。この雑題三〇冊はもと松山藩校明教館の蔵書で、松山における秘書として当時子弟間に伝写せられたものといわれる。
 かれが伊佐爾波神社に奉納した額面題は『続神壁算法』中の第五五として選入されている。かれがすぐれた和算家であったことは、文政九年江戸にてつくられた『古今名人算者鑑』に三五〇余名を挙げて、これを相撲番付風にしたものの東方四段目に名を連ねているのによっても知られる。
 (注) 丸山良玄 通称因平、帰厚堂と号す。越後村上藩士であったが、浪人して江戸に出で、藤田貞資の門に入る。文化一三年(一八一六)没。年六〇歳。著書に『新法綴術詳解』(寛政八年 一八一二)がある。

小嶋又兵衛馭季

 文化八年(一八一一)八月、伊佐爾波神社に算額奉納。それによると、「始め新海正泊に教えを受け、数年後大西義全に師事し、円理孤背之術をマスターし、その成果として同算額を奉納したとある。かれの著である『容術』(写本三〇冊、県立図書館蔵)にも載っている。かれはまた味酒の阿沼美神社にも算額を奉納している。その門下から佐野氏昌、簡野光利、山崎昌龍らすぐれた和算家を輩出した。

簡野主計

 光利ともいう。小嶋馭季の門人。天保三年(一八三二)伊佐爾波神社に算額を奉納。安政三年(一八五六)『通俗算法 巻之壱』を著わした簡野良之介光尚という人物があるが、主計の別名かどうか不明。

山崎昌龍

 善右衛門と称す。もと安西氏の出で、山崎氏を継いだ。松山一万町に居住した。家は松山藩の御細工組馬具師で、七石二人扶持であった。故あって若隠居し、妻の弟富太郎に家を継がせた。かれは漢学の素養があった。雨傘張り内職をして家計を助け、傍ら小嶋馭季について算道を学んだ。のち笈を負うて阿波に遊学し、また大阪、京都等にも出てその道の達人を訪ね、さらに江戸に出て藤田貞升の門人となった。ここで直接に関流を学び、約一年後松山に帰った。
 安政三年小松恵龍(肥後の人、後広島藩に仕う)について藤野立馬、伊崎庄右衛門らと共に天文測量等を学ぶ。その頃、松山藩校明教館には文武研究の道はよく備わっていたけれども、算道は教授していなかったので昌龍は門下生とともに藩にすすめて数学教授所を設置されるよう要望したが、まだその機運でないとして実現しなかった。その後、藩は時世の要求から蘭学者高松清衛を入れて、藩の子弟に航海術を研究させた。かれも清衛について洋学の一端を学んだ。
 明治三年(一八七〇)明教館の学科課程が改訂されて新に皇学、算術が加えられた。そして数学教授所が設けられることになるのである。
 ついでながら松山藩学事を見ると、学校蔵書中に「一、算数類、関流算術より暦象考成等に至る」とあり、数学関係図書も備えられている。
 昌龍はその主任に推挙され、伊崎庄右衛門、簡野良蔵を助け、かつ吉枝常徳、山崎萬太郎(富太郎改名)を助教として数学指導に当たった。かれの教授法はきわめて懇切丁寧であり、題を設けて啓発し、その長所を認めて推奨し、いわゆる現代風なわかる授業をしたといわれる。従って門人中に多くの熟達者を出した。すなわち仙波収平、栗林左太郎、花山金次郎、越智峯次、河原金三、山崎富太郎、入川市太郎、吉田茂兵衛、俊野巻衛、高阪金次郎、桐野富五郎、松岡多三郎、野本忠五郎などがある。かれらはいずれも伊佐爾波神社(一三面)や太山寺(一面)に算額を奉納し、その隆昌ぶりを誇示しているが、かれの教育力の偉大さをまた知ることができるであろう。
 かれの著書に『適等図解』(愛媛県立図書館蔵)がある。明治一二年ごろ没したと伝えられ、墓は松山城北の法華寺内にあるという。

山本恒太郎

 桑名より松平氏が転封の際随従したと伝えられ、大工棟梁の家筋という。詩・俳句をよくし、算道を愛好した。生涯をその研究に打ち込み、かつ謙譲一筋に生きた。明治五年(一八七二)興産銀行(のちの仲田銀行)を興し、長くその支配人をしていた。明治三七年没。墓は松山市御幸長建寺山門右脇の墓地内にある。

伊崎庄右衛門

 名は義昌。文化一三年(一八一六)温泉郡新浜村石風呂(松山市石風呂町)の農家に生まれる。関流八伝測算道家元。初め松原伊兵衛(大西佐兵衛門人塩田民之丞の門)などに学び、天保五年(一八三四)筑前に赴き松藤宗久について暦算を学び、のち小松恵龍について測量・航海ならびに暦術鈎台円理転去題などを学ぶ。なお砲術洋算の心得があり、家老あるいは軍用方に伴われて演武所の新砲の弾度測量をしたり、安政二年(一八五五)四月、異国船の襲撃に備えて三津浜その他に砲台の築造(御台場)の築造をした。
 松前川口より波止浜に至る沿海の測量をなし、和気・温泉・伊予郡の地図作製に従事した。高浜製塩場の御用係。文久四年より暦術・天文・測量の教授となり、明治三年(一八七〇)明教館の助教となる。明治四年より小学校教官、同五年には世襲士族に編入せられた。同一二年愛媛県雇に就職し、同二五年一〇月一三日没。墓は松山市梅津寺墓地にある。測算院釋陰陽義昌天殿居士。
 伝右衛門についても新海程次郎の口碑同様の海上を走る船を十露盤で止めたなどの逸話が伝えられている。かれの門人には二男の為次郎義継と石崎良蔵義之(新浜出身)がある。

松岡多三郎

 安政二年(一八五五)、和気郡吉藤村庄屋の長男として出生。名を幸久という。幼少より茶道・華道に親しみ、まだ松山に数台しかなかった自転車を乗り回し、近所では非常にハイカラな人で知られていた。和算研究を始めてから別棟に研究室を建てて研究に没頭したという。時折、山の頂上で風船をとばして気象観測や天台観測を行ったりするので、近所では奇人視されていたという。            
 明治一二年(一八七九)伊佐爾波神社に算額を奉納。翌一三年には地元の氏神三島神社にも算額を奉納している。三島神社のそれは息子の勉強嫌いをなおすために祈願して奉納したと伝えられる。算額が祈願絵馬として奉納された事例である。三島社にはかれの奉納した絵馬がいま一面残っている。
 大正四年一〇月一三日、六一歳で没した。墓は吉藤町誓重寺にあり、戒名は、清心院崇春徳仁義道居士とある。

岩田源介

 清興という。関流算学を修める。新谷藩士。伊豫市の伊予稲荷神社に寛政九年(一七九七)九月に算額奉納。喜多郡内子町の八幡神社算額奉納者が岩田兼斎清とあるのと関係はないか。興味ある問題だが目下のところ史料を欠き不詳。兼斎は関流算学寺井政道の門人で弘化四年(一八四七)一一月、八二歳でこの算額を奉納している。
 従って新谷藩にはこれら算額のうえから、兵頭正甫、別宮四郎兵衛猶重、岩田源介清興、寺井正道、岩田清、大野猶吉らの和算家がいたことになる。

大野猶吉

 喜多郡五十崎町大字北表走出の人。文政三年(一八二〇)二月一五日生。関流寺井政道の門人新谷藩士岩田清について学び、ついにその奥義を極め八五歳の長寿をもって没した。かれは幼より怜悧にして学を好んだといわれ、また敬神の念あつく、明治二八年三島神社の改築にかかり三年間の経営に尽くした。なお金一六○円および田二反二三歩を寄附した。かれの奉納算額は、かれが七五歳の時のものであり、現在は五十崎町有形民俗文化財に指定(昭和四七年二月十二日)され、同町歴史民俗資料館に保管されている。
 かれは和算のほかに測量術にも通じていたようであり、奉納算額から窺うことができる。明治三七年九月一五日没。空亀山永寿居士。

今治藩の和算家

 今治市大浜の大浜八幡大神社に弘化二年(一八四五)奉納の算額がある。関流六伝一道斎一幸河上勝安門人手嶋太助(芸陽瀬戸田=広島県)の算額である。従って手嶋太助は瀬戸田在の者であって今治藩の者ではない。それがなぜ大浜八幡大神社に奉納したのか、興味のもたれる点であるが、不詳。もちろん河上勝安についても不明である。算額が現存する事実からすれば、当然今治地方にも和算家がいたはずであるが、いまは今後の調査研究にまつしかない。
 今治藩の和算家に友田藤九郎喜信がいた。『今治夜話』(「今治譜」)によれば、かれは算術を善くし、亀島流炮術永野宇兵衛の門人であった。故あって破門され、その後は無算盤をつくり、薬量を計るのに便利といわれ、神速の秘器と評判された。工夫無算炮術と号られていた。なお、同書別項に「故を温て友田が無算、炮は新敷工夫たり。」とも記しており、友田がすぐれた和算家であったことを伝えている。

その他の和算家

 伊予出身の和算家で中央の資料に名を残している者に森島範一郎という人物がいた。文政ごろの人であるが、伊予のどこ出身かは不明。奈良市虚空蔵町の弘仁寺に他に類を見ないといわれる珍しい算額がある。石田算楽軒なる算術家の七八歳の長寿を祝って門弟中が奉納した算額で、額面は算楽軒が書物を積んだ机の前に座す肖像を描き、右端に大きく「寿七十八齢」「石田算楽軒」と記し、名前の上に定絞を、下に落款を描いている。その下に大阪・河州・伊予・豊前・豊後など遠方の門弟中の名があり、つづいてやや小さく和州内の門弟四五人の名が連記してあるのである。「伊予之□□ 森島姓 範一郎」と判読できる。「文政十丁亥年四月吉辰、北柳生村奥田門人中敬白」とあり、算木を使った額面である。『松山叢談』一三巻の下(隆聖院殿勝善公)に、次のような記事がある。和算に関係ある内容なので挙げることにした。「或時於御次算術の咄しより、立木の儘何間と計り廻りを取末口を定何才と積の論出来し、色々申合候を御咄の序に申上げれば、これは六ヶ敷算術かな。可様の事は大工棟梁に問て見よ、早く分るべし。惣て物の勘定は下々の者の持前なれば、強て論ずるに及ばぬ事と、御沙汰なり。乍併御閑暇に被為入候節は御側の者御相手に算術も御たづさはり被遊候得共、只御たしなみのみにて決て下々より窺出候積事の類を御不審なきなり。」(安東家記)樹木、材木の見積り方法であるが、山師はその専門家であった。

少年の算額

 伊佐爾波神社算額中に一一歳の少年が奉納した算額がある。明治六年(一八七三)一二月、山崎昌龍
門人、高阪金次郎俊則である。この年齢でこれだけの問題を解決したことはまったく驚きである。算額としては珍しい例といえる。なお、少年の算額奉納事例は、備中倉敷の阿智神社へ、寛政八年(一七九六)石井源蔵資美奉納の題術に、文政一三年(一八三〇)九歳の少年、塩飽経治(武田流算学)が応酬している(現存しない)。また京都山城乙訓郡新足村開田の長岡天満宮に寛政二年今塚弥吉直方という一二歳の少年の奉納算額があるなど、ぼっぼつ事例はあるようである。

 和算の内容は現今の中学校から高等学校程度まであり、わが国独得の問題も多い。極めて平凡なものもあれば、超難題、難問もあり、中には疑問のものもあるし、実用離れした趣味的な問題があったりする。初期のころの和算は、領主層や民衆の社会生活上の実用性と相侯って、自生的な科学として発展したのであるが、中期以降になって商業数学(相場の表・利息算)、無尽の計算、工匠用の幾何学などの専門書も出版されたし、徴税や治水に不可欠な実用数学が用いられた。しかしその実用性もやがて草創期ほどの切実さもなくなり、せまい範囲に限定され、固定されて一部の人びとにたしなまれる数学になるのである。すなわち、非実用化傾向をたどったのである。
 『当世芸評判』に和算家が紹介されているように、一つの芸道と見られた面があり、「無用の用」として孤立的に変則的に発達したむきがある。江戸中期の古学者荻生徂徠が、今の数学者流をみるに、種々の奇巧を設けてその精緻を誇るが、その実、世間に無用であると酷評したように、和算家は道楽として芸に遊ぶグループと見なされるに至るのである。
 伊佐爾波神社の嘉永、明治期の算額奉納者の出自や事蹟についてはじゅうぶん追跡調査ができておらぬため、軽々には断定できないけれども、身分は農工商業者であり、しかも庄屋、豪農クラスの農民か富裕な商人である。すなわち生活に余裕のある有産階層の人びとが、和算をたしなみ、算額を奉納しているのである。いずれの算額にも俗名と譚を併記し、落款を押印しているが、これが算額の体裁であったのでもあろうが、それは個人的には矜持と満足であったと思われる。
 本県には、すでに見てきたように三〇面余の算額が現存していて、貴重な文化財として保存措置が講じられていることは歓ばしい限りである。また一方では『愛媛の算額』が出版され、すぐれた研究成果も出ている。今後に残された問題は、この道の専門的な教養をもった研究者によって、まだ未発見、未発掘の和算資料に日の目を当てていただき、十分な検討のうえ、よりよい愛媛の和算史が出ることを期待してこの稿を措くことにしたい。
(参照 「算額奉納者系譜」)

算額奉納者系譜

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