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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 蘐園学派の衰退

 博学洽聞、学力比類なしと称された徂徠が、文学上古文辞学を唱え、是を儒学上に及ぼして復古学を樹立し、蘐園社を結成して天下の秀才を集めたため、蘐園学派は、またたく間に全国に普及した。程朱学を排し、古義学を難じ、文芸を道徳から解放して人間の心情を重んじ、文は先秦以前、詩は盛唐以前を目標とし、古文辞を研究することによってのみ古聖人の領域に到達し得ると説いた徂徠の学術は当時の人々を魅了せずにはおかなかった。
 元文から寛延頃まで蘐園学派は最盛期を迎えるのである。那波魯堂(一七二七~一七八九)は、その著『学問源流』に「経書ノ集会シテ講ズルハ、論語徴・大学解・中庸解ナリ。五経大全・四書大全・惟理大全ノ類ハ、取挙グル人モナク、程朱ノ註ヲ用ヒ書ヲ講ズル人ノ許ヘハ、假初ニ行ク人モナケレバ、或ハ俄ニ朱註ニ論語徴ヲ雑へ並ベテ教ユル人アリ。唯或ハ明人ノ著述、或ハ徂徠ノ校合ト云ハバ、是非ヲ論ゼズ求メテ争ヒ読ミ(中略)一言ニテモ徂徠、其非ナルコトヲ云ヒタルハ、見ル人モナク爛堆古紙ニ同ジトス」と徂徠学の流行を書き、また、湯浅常山は『文会雑記』に「徂徠学ニテ世間一変ス」と述べた。清の兪越(一八二一~一九〇六)も日本漢詩を選定して著した『東瀛詩選』に、物雙松(徂徠)の詩四三首を挙げて「儒林一巨撃(中略)東国之詩 至徂徠 而一変」と称揚し、「徂徠所著有弁道一巻、弁名一巻、論語徴一〇巻、大学解一巻、中庸解一巻、度量考二巻、絶句解三巻、答問書三巻、孫子国字解十三巻、その他訳文筌蹄、蘐園隨筆等百余巻」を喜ぶべきものとして挙げている。安藤東野が『東野遺稿』巻下「再寄朝鮮厳書記」文の中で「茂卿曰子必欲其体備者 在明李王七子 先覚於古者也 余於是読七子書 始知乾坤之際 有所謂古文辞者存矣 乃尽焚其初藁 専力古学 与県孝繻諸子築壇除蘐」と述べているように従前学習してきた朱子学を弊履のように抛擲して古文辞学により、「其居蘐園 居牛門 余朱嘗不朝夕継見 見則未嘗不乗燭促席 談笑而忘倦也 所談風月文章 非請益也 及仁義性命之説 蓋生平不喜以道徳自処也」(『同書』巻中「蘐園隨筆序」)とも述べているように後進の指導教育には、硬直した「道徳性命之学」でなく、情意を重んずる「風月文章」を以てしたから文才ある多くの俊秀が蝟集するのである。
 引用文中、安藤東野は、既に述べたように山井崑崙と蘐園の同門、崑崙より二歳年少だが逸才で崑崙とは刎頚の学友で『東野遺稿』が崑崙の校訂を経て刊行されたことも前に述べた。同書は蘐園の磧学の消息・思想等を知る手がかりを得る重要書であるが、文中、特に漢詩に「豫藩主滕公」とか「豫牧公」とかの語が十数回に亘って頻出するが、これは、河内四代藩主本多伊予守忠統のことで伊予とは無関係である。「朝鮮厳書記」は、朝鮮の朱子学者厳龍湖、「明李王七子」は、いわゆる「嘉靖の七子」で明朝の古文辞学派李攀龍(一五一四~一五七〇)、王世貞(一五二六~一五九〇)はじめ謝榛梁有誉・宗臣・徐中行・呉国林である。「孝繻」は、東野とともに徂徠が「吾党二子」として最も期待した萩藩儒山県周南(一六八七~一七五二)、「牛門」とは、徂徠が四九歳から約六か年居住した「牛込」の邸宅名で、徂徠学派の別名である。徂徠の確固たる信念と豪放不羈な性格よりする大胆直截の仁斎学を始め他学派への批判は、諸学派が乱立して経学研究を志向する当時の若者たちが選択帰趨に迷っている時、巨火となってその前にあらわれ、人々を魅了し、心情に忠実に生き、奔放に志を舒べ得る文芸創作に生きる力を与えたのである。徂徠は、享保一三年(一七二八)一月一九日、六三歳で没するのであるが、没後も約半世紀に亘って蘐園学派は我が国の学界全域を蔽い、徂徠学一色に塗りつぶしたと称される程であった。
 程朱の学風に馴れて、沈滞がちな学界に、学問方法の形式を無視し、道統を顧慮せず、斬新活発な学風を振い興こしはしたが、そのあまりな心情の重視による詩文創作の風習は詩文弄誦、文華風流の行きすぎ、軽薄な社会情況の軽薄化を促す傾向を生むに至った。
 また、基本的には朱子学の権威を認めず、儒教古典のみの権威を認め、六経すなわち『詩経』・『書経』・『礼記』・『楽記』・『易経』・『春秋』と、孔子の遺著『論語』を学問の直接の対象とした。その上に朱子学における最大の課題である「道」は、天地万物の「理」であり、人間に内在する「性」であり、性即理の両者未分の絶対原理でなければならないのであるが、徂徠は『弁道』・『弁名』を著し、「道十二則」を挙げ、『六経』に具わるところの「礼・楽・刑・政」すなわち古先聖王らの作為制作した制度文物を「道」とし、これに「統名」と名づけて「道」は天地自然に内在するものでなく、「礼・楽・刑・政」の客観的存在とした。
(参照 「『弁名』(上)道十二則のうち第一則」)
 すなわち「道」は先生聖人の作為するところの客観的外的なもの、これに遵うのが道徳の基本であると説く。また、朱子が唱えてきた人間の本性は「理」で、誰にでも内在しており「気」によって「性」が異なっているから、この善悪混交の気質の性から本然の性にかえり、本然の性を実現することこそ道徳修行との説に対して、この気質そのものが本性と説く。誰でもが聖人になり得るというのは妄説にすぎないと説く。

  殊ニ儒者ノ輩 聖人ノ道ハ天下国家ヲ治ル道ナリト云コトヲバ 第二ニシテ 天理・人欲・理気・陰陽五行ナドイヘル 高妙ノ説ヲ先トシ、持敬・主静・格物・致知・誠意・正心ナドイヘル坊主ラシキコトヲ誠ノコトト思ヒ 務テ人ノ及ガタキコトヲ教テ聖人ニナランコトヲ求メ 変化モナラヌ気質ヲ変化セントイヒ 聖人ノ教ハ 皆其自得スルヲ待ツコトナルニ 一定シタル道理ヲコシラヘ 話クトキ立テ是非ノ弁キビシク人ヲトガムルコト甚シ コレニヨリテ学問ヲスレバ 人ガラ悪シクナルト云テ嫌フ人モアリ 理窟斗リニテワザナキ教ナリト云テ 軽ンズルモアリ 儒学ハ偏局ニカタキ教ナリト思フ人モアリテ 人心ノ赴カザルハ其儒者ノ過モ過半ハアルコトナリ ナカンヅク 今ノ世ノ陋習ニ 講釈ト云モノアリテ 学問ヲスルトイヘバ貴賤共ニ必講釈ヲ聴クコトニスルナリ 其ノ講釈ニ一定ノ法有テ 四書・近思録ナドヲ次第シテ読ムコトナリ ソノ四書・近思録ナドヲ次第シテミルト云ハ 宋儒ノ学問ノ流ニテ 聖人ニナル修行ナリ 聖人ニナルト云コト 本ナキコトニテ 宋儒聖経ヲ見誤リタル者也(『太平策』)

 これは、孔子以来、朱子に至るまでの儒教、各人に内在する心性即天理なりと信じた道学の否定につながるから儒学本来の立場からする批判が当然起こり、また、理気混在の心情こそ人間本来の姿とする説は正しくても、そのことのみを強調して詩文創作に儒学の重点を置く結果「修己・治人」の厳しい反省が忘れ勝ちとなり、情意に奔り軽佻浮薄な社会状勢を生む源となり易く、また、限りない自説への自負心からする遠慮のない他学派への批判も感情的な反発を呼ぶに至る。ほぼ同時代に住んだ室鳩巣(一六五八~一七三四)は真摯偉大な教育者木下順庵の高弟であるが、徂徠を評して「老姦の儒」と酷評したことは前に述べた。広瀬淡窓(一七八二~一八五六)は『儒林評』の中で「徂徠ハ吾邦ニテ古今一人ナリ。当時日本ノ文学大ニ開ケシハ 此人ノ功多キニ居レリ 其毒ヲ天下ニ流スコトモ亦甚ダ多シ。或人ノ評二功首罪魁ト云ヘリ 実ニ然ルコトナルベシ」と述べている。
 また、讃岐の徂徠学者藤沢東畡(一七九四ー-八六四)は、清の梅華谿と交友して、その著『栄観録』を得たが、その中に「日本国徂徠先生小伝」なる一文があり、徂徠を評して「修古文辞 并将唐宋以来諸儒之説 一切排斥之 不免為侏・(「いんべん」につくりが「离」)鴃舌然痛駁性理 激昻慷慨 宏文鉋著 已足寵盍一世」とあり、反論の返書を出している。
 柴野栗山(一七三六~一八〇七)は、口を極めて徂徠を罵倒して、「継而文人物茂卿者 妬被源助先鞭 欲超出其右 強鼇拗戻 穿鑿附会 肆其怪僻誇誕之説 以潤一時」(「送長子玉序」)と述べている。
 大阪懐徳書院の中井竹山(一七三〇~一八〇四)は『非徴』を著し、詳細に亘って徂徠の『論語徴』を論難した。
 尾藤二洲も亦『正学指常』を著して、徹底的に徂徠学を攻撃した。「余初年学ピクル故ニ能クソノ意ヲ知レリ 其ノ学ノ主トスル所ハ功利ニアリテ 聖人ノ言ヲ仮ルハ縁飾マデナリ」と断じ、一々反論の箇所を挙げてその誤りを指摘し、「カカル輩 世ニ多クナリテ 淫縦奇怪ノ行ヲスル者往々ニ蔓れり」と歎じ、今の異学は、すべて明人の餘唾なりと断定して憚らぬのである。二洲門、篤山に学んだ日野醸泉(一七八六~一八五九)も『醸泉雑稿』の中に「読論語徴」の一文を置いて徂徠の『論語徴』が理にもとることを指摘し、なお、諸学派を批難するに「不知字義」とか「不足為人師」とか唾罵雑言して感情的に「大声罵之」「夸其該博」他を仇敵視していることを激しく論詰し、『論語徴』を集団読書し、討論してその非を確認し、朱子学の大道を会得すべきだとしている。(資料編一三一頁)
 蘐園学派の衰退に決定的な影響を与えたのは、寛政異学の禁令である。伊予全域に普及した蘐園学も、地域文教の中心となる藩校が幕府の政策に従って朱子学に転じてゆけば、直接拘束を受けなくても私塾においても自ら朱子学に傾かざるを得ない。松山藩においても明月門杉山熊台及び一門の鈴木栗里・日下伯巌・谷寛得ら、吉田藩の森退堂、宇和島藩の都築鳳栖らも漸次朱子学に転じ、優れた指導者を得て隆盛を誇った徂徠学も急激に伊予地区から衰退するのである。徂徠学は徳行を以て屑しとせず、古文辞による詞章を重んじたから、既往の儒学と若干、趣を異にし、強烈な自負心から「宇宙間の人物を詆毀するを最大の楽しみ」とし、不遜、傲岸、世に軽薄な流行を齎らせたように考えられがちだが、単純ではない。その膨大な著書の一端に触れる時、深い思索と驚くべき読書量からくる学力の高さ、門弟を教育する愛情の深さ等を感得することができる。兪えつの『東瀛詩選』に四三首の漢詩が採択されたことは既に述べたが、江村北海の『日本詩選』には一〇首である。両書に採択された詩一首を掲げよう。

    有所思     物雙松   思う所有り
  冉冉白日徂  坐看庭草滋  冉冉として 白日は徂き  坐して看る 庭草の滋きを
  朔風吹我裳  嘆息歳暮時  朔風は我が裳を吹く  嘆息す 歳暮の時
  人生自有老  老至亦何悲  人生 自ら 老有り  老至るもまた何ぞ悲しまん
  富貴儻爾来  栄名非可持  富貴 儻爾として来るも 栄名 持すべきにあらず
  置酒高堂上  聊以娯佳期  置酒す 高堂の上  聊か以て佳期を娯まん
  秦箏間胡茄  嘈雑侑我巵  秦箏  胡茄に間わり 嘈雑 我が巵を侑む
  酒酣涙如霰  君子有所思  酒 酣にして 涙 霰の如し 君子 思う所有り
  良朋満四坐  此悲少人知  良朋 四坐に満っるも 此の悲しみ 人の知ること少なり

 江村北海は「一時蘐園ノ学サカンナリシヨリ世上一同戸祝セシガ近来ハ(中略)是ヲモテハヤス事往日ニ及バズ余トテモ好ム所ニ非ズ」(『授業編』七)と徂徠学派に冷淡だが、深い経学研究の末、到達し得た心情の深渕を窺い得る詩も多い。
 伊予における蘐園学は、一時きわめて隆盛であった。松平頼渡に招かれた山井崑崙は、徂徠の経学研究を考証学へと深め『七経孟子考文』三二巻を著して、その正確無比と考証の確かさで中国学界を驚倒させた大儒、西条の地を踏むことはなかったが、江戸藩邸においての講義五年有余、直接間接に相当の影響を与えたはずであるし、今治藩では、徂徠に親しんだ江島為信がおり、松山藩には蘐園詩文派服部南郭直系の斎宮必簡が招かれ、宇和島藩では藩主村候がすすんで徂徠学を学ぶ等、指導者に恵まれて徂徠学が流行したが、異学禁令の打撃を受け各藩の教授らは、相ついで朱子学に転向を余儀なくされ、蘐園学派は公的表面上では伊予全域から消えてゆく。

『弁名』(上)道十二則のうち第一則

『弁名』(上)道十二則のうち第一則