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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

四 川田雄琴

 貞享元年(一六八四)四月二八日、江戸に生まれた。本名は資深、通称は半太夫、字は君淵、号は琴卿、雄琴北窓翁(琴卿作「告グル同志諸君ニ 先師ノ年忌ヲ説」著名による)といった。長じて程朱学を林鵞峰高弟人見竹洞、木下順庵門新井白石両師に学んで文名高い梁田蛻嵓に学んだが、「余以一日之長 文芸則為爾師 至明道義 窮心術爾当就三輪執斎而学」と紹介された。雄琴はこのことを「資深壮年ノ時、蛻嵓梁田先生ノ紹介ニヨツテ見執斎三輪先生受此学」(『琴卿集』「桑楡三言」)で感謝している。「此学」とは陽明学である。三輪執斎(一六六九~一七四四)名は希賢、通称は善蔵または貞一、号は神山子、躬耕廬といった。父親重(沢村自三。一六二二~一六八一)は祖父親直(一五七〇~一六六二)と共に諸国を遊歴し、後、京都に住んで医を業とした。執斎はその二男で、異母兄に東溟和尚(一六四七~一七〇八)がいる。執斎の先は崇神天皇朝の大田々根子命に遡るといわれ、代々大和の大神神社の宮司であったといわれる。文安二年(一四四五)当主大三輪主水の二男親房が美濃に移り住み、三輪筑後寺と称した。これが祖先で、執斎の祖父親直の長兄親明(一六〇三~一六七六)は、後に無難と称し、その門より道鏡慧端(正受老人)を出し、これに師事したのが白隠(一六八五~一七六八)である。神道の家系から、ほぼ、時を同じうして臨済・陽明両学における中興の祖と仰がれる人物があらわれたのである。執斎は、一一歳で母を、一三歳で父を亡って孤児となり、父の母方の従弟、大村彦太郎(白木屋呉服店創始者一六三六~一六八九)に養われ、父の遺言により「飲食の席のみ、その子に等しく就かしめ、餘は奴僕に等しい様に」処置された。一五歳、父の友人の真野某の養子となり、一七歳、堂上羽林家歌人、飛鳥井雅章門の河瀬菅雄(一六四七~一七二五)に師事し、後に千余首の自作和歌を収録して『執斎和歌集』を刊行する素地を培った。一九歳、崎門派三傑の一人佐藤直方(一六五〇~一七一九)の門に入り、刻苦して朱子学の研鑽に励むこと一〇年余、師直方の嘱望きわめて篤く、常に直方の代講を務め、直方著『四書便講』を校訂し、選ばれて跋文を寄せた。後、直方の推挙により、上野厩橋藩酒井忠挙の儒官となり、藩に講学三年、元禄八年(一六九五)禄を辞して、本郷菊坂に退去、躑躅・嬰栗・菊の三躊を作り自適の生盾に入ったが同一〇年、深刻な自己反省と崎門朱子学への懐疑から、京都に居を移し、居を「執斎」と名づげ『王陽明全書』『伝習録』を熟読し始めた。「このころ退いて省みるに、自徳の進めることも覚えず、また世の学人の有様を見るに、老師・宿儒と称する人も、その講釈は誠に道体の微妙を尽くし、少しき遺蘊はなしと聞こゆれども、平生行事の実に至りては、利欲我慢、俗人よりも劣れり」(『格物弁議』)と嘆き、『執斎日用心法』『執斎先生雑著』を著して「聞荷有能成一徳者則不弁朱王 不択老仏 必執弟子礼 往相見 以為吾進学之助矣」(『執斎先生雑著』「送魚住静安」)として「如求亡子於道路」先哲を訪問して学問を尋ね、「山水の澄まぬ限りは出でじとて結ぶや終の廬なるらむ」(『執斎和歌集』)と詠じ、京都上加茂の神山に退隠して思索生活に入った。元禄一二年「答酒井禅正之書」(『執斎先生雑著』)を発表して、明確に陽明学に転じたことを標榜した。これは、直方の激しい批判を受け、遂に破門されるに至る。執斎の神山隠棲は元禄一六年(一七〇三)までの六年間であるが、その間に中院通茂(一六三一~一七一〇)通躬(一六六八~一七三九)父子を中心とする歌会に加わり、京都所司代松平信庸(一六六六~一七一七)の知遇を得ることができた。中院通茂は、寛文年間、弟野宮中納言定縁と共にそのころ京都に在住していた陽明学者熊沢蕃山と親しく交わり『伝習録』に通じていたことは、蕃山著『息先生道談』に明らかである。従って執斎と通茂は互いに学問の上でも切磋し合ったものと思われる。正徳二年(一七一二)信庸の援助によって『標註伝習録』を上梓し、同年九月三〇日新刻本が完成するのであるが、この日が王陽明生誕憲宗の成化八年(一四七二)九月三〇日と干支月日が一致するのを悦び「和漢万世 未曽有之一遇」として王陽明を祭り、新刊書を奠じて王学の発展を祈念した。この『標註伝習録』は王陽明の「略年譜」と「大学間」が付加され、語句の意味・出典を明らかにし、宋学との関係、他の王陽明の文書等にも言及し、画期的なものであるが、この講義を聞いた川田雄琴が筆記して『伝習録筆記』を著すのである。(『漢籍国字解全書』一六)雄琴の『伝習録筆記』は仮名交り文で、たとえ話等も入れ、きわめて平易な解説である。「琴卿先生曰」としてあるのは、雄琴の子資哲の補足したものだからである。この両書は、『伝習録』の文献学的研究書として最初のもので陽明学の発展に寄与したことは測り知れない。「大学間」を附加した執斎の見識、正鵠を得た平易な雄琴の解説は世の模範と称された。天保元年(一八三〇)佐藤一斎が『伝習録欄外書』を出すのであるが、もちろん前書を研究・参考にして著作したものである。
 正徳三年(一七一三)佐藤直方は、執斎の転向が全く名利に基づくものでないことを理解し「相見ること故の如く」になった。これまでに至る執斎の苦悩は、雄琴の「止善書院明倫堂成 祭執斎先生文」の冒頭に詳しい。
(参照「止善書院明倫堂成 祭執斎先生分」冒頭)
 正徳四年(一七一四)川田雄琴がその師梁田蛻嵓の紹介で三輪執斎に入門したのである。林家に朱子学を学び山崎闇斎を慕って崎門派の奥儀を悟り、神道に通じ、仏典に明るい蛻嵓に師事し、蛻嵓の大度によって朱子学から厳しい試練を経て陽明学に開眼した三輪執斎に学んだ雄琴の学問は、その誠実な努力と相俟って大いに進んだ。
 雄琴の大洲赴任は、享保一七年(一七三二)五代大洲藩主加藤泰温の時である。好学の藩主泰温か三輪執斎を招いて陽明学による文教の振興を期した際、代わって高弟川田雄琴を推挙したのである。京都油小路下立売の邸に痰咳に病む執斎を雄琴が訪ねた時、執斎は、明倫堂の扁額、王陽明画像、祠堂建築資金を渡して伊予の地に陽の学を興起し、藤樹の遺徳を無窮に伝えるよう負託した。
(参照「止善書院明倫堂成 祭執斎先生分」)
 辞令は同年七月一一日付「王陽明の学を以て召出さる」とあった。この年の七月は関西一円を襲った享保の大飢饉の徴候が漸く見えはじめたころであった。 雄琴の講義は熱意に溢れていた。藩公への御前講義はもちろん、藩士へも頻繁に陽明学を講じた。師執斎の精微な『標註伝習録』を更に砕いて日常卑近な例話等をひいて難解な『伝習録』もわかり易くし講席には聴衆が一〇〇人、二〇〇人と溢れたといわれている。
 延享四年(一七四七)二月、陽明一八〇年忌、藤樹一〇〇年忌を期して、祠堂も成り、止善書院明倫堂も建立された。雄琴は長文の「告同志諸君 先師年忌説」文を発表した。儒礼には「年忌」なく、近世浮屠の説(仏教)であろうが、今こそ愛念追慕の誠を捧げ「必ず明日ありといふべからず、愈々其憤を発し、愈々其志を立つべく遠忌に参加しよう」と呼びかけている。「祭藤樹先生文」、「止善書院明倫堂成告文成王公・藤樹江先生文」、「止善書院明倫堂成祭執斎先生」あるいは「止善書院記」をみても格調高い文章の行間に陽明学が目標とする「愛」と「敬」と「至誠」が溢れている。
尚、雄琴は、この機を期して藤樹の真蹟収集にも乗り出している。
 雄琴の著書には、前掲の『伝習録筆記』以外に、宝暦九年(一七五九)稿『琴卿集』がある。第一章「志学説」第二章 「論先天之学」第三章「律天襲上之弁」で陽明学の道統、陽明学の要旨等を体験を通じ、多くの例証を引用して分かり易く述べている。
 元文五年(一七四〇)秋九月稿の『学談敗鼓』(二巻)は、五七歳の雄琴が「心未だ道を得ずして手に経を取り、口に義を講ず。所謂敗鼓にして鳴らざるものなり」と謙遜しつつ陽明学に開眼し、不動の信念を得て道義を論弁して来た事項を取捨、問答体とし「敗鼓鳴らざるに非ず」と良知の説に確信を持ち、「天下轟毒を病む人の糧に」と書き述べた王学道義論弁集である。経書の引用も豊富で雄琴独特の解説で、例話・逸話等もまじえ、その上に日本古典の引用・神道観も窺うことができ、『琴卿集』とともに雄琴の学問・思想を知る二大主著である。
 『教示絵入 豫州大洲好人録』五巻は、藩から表彰された孝子・節婦・奇特者等の言行を収録、編集し、それに雄琴が陽明学の立場から簡単に批評を加えたものである。延享二年(一七四五)三月雄琴の和文序、題言五条をつげて刊行、ついで寛政一一年(一七九九)異学の禁令布達後であったので昌平黌出身の安川右仲(寛)が漢文序を入れ、五巻の終わりに「教示」を入れ『教示絵入 豫州大洲好人録』として刊行した。第一巻三話、第二巻八話、第三巻一一話、第四巻一一話、第五巻一二話、補二話、計四七話である。上灘漁師、長左衛門は三巻と五巻に、厩下人喜兵衛妻里きは一巻と五巻に、本町横町播磨屋権兵衛は三巻と五巻に、それぞれ内容を異にして二度述べられている。五巻「補」の「上灘漁師長左衛門」の項が延享三年(一七四六)の話であるが、「補二話」は、雄琴の時はなくて、安川右仲が寛政一一年刊行する時に追加したものと思われる。『豫州大洲好人録』全体を通してみると文体は平易であるが、経書を多く引用してあり、陽明学者雄琴の面目をうかがうことができる。第二巻「戒能村農民二十七人同志郷約之事」では、「相定之覚」は「出入相友 守望相助 疾病相扶持 則 百姓親睦」と『孟子』「滕文公篇上」を挙げ、さらに『論語』を引用して賞揚、第五巻「上灘漁師長左衛門」の誠実さには『易経』の「信及豚魚」「豚魚吉也。利渉大川 利貞」を引用して称賛するなど読者を不知不識の中に聖言に染ませようとしている。
 雄琴は、軍学にも造詣が深く、『軍礼』(六巻)の著がある。宝暦一〇年(一七六〇) 一一月二九日没するのであるが、大洲赴任以来三〇年間、大洲地方文教の確立と陽明学による徳育振興に一身を捧げたのであった。

「止善書院明倫堂成 祭執斎先生文」 冒頭

「止善書院明倫堂成 祭執斎先生文」 冒頭


止善書院明倫堂成祭執斎先生文

止善書院明倫堂成祭執斎先生文