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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

一 明治期の幼児教育

 愛媛県師範学校附属幼稚園

 我が国の幼稚園制度は、明治九年の東京女子師範学校附属幼稚園の開設がその第一歩とされついる。このモデルはもちろんヨーロッパの幼稚園で、その保育内容は恩物(幼児を教えるおもちゃ)の操作などが重視されていた。初代の保姆は松野クララという人物で、ドイツでフレーベル主義に立脚した幼児教育を身につけたドイツ女性であった。日本の幼児教育の歴史の上では、重要な人物とされている。なお、日本人としては豊田ふゆという人物がよく知られている。当時の園長は、明治初期の啓蒙思想家として、また、明治のベストセラーといわれた「西国立志編」の著者としても知られていた中村正直である。
 愛媛県では、明治一九年五月に愛媛県師範学校に幼稚園が付設されたのが最初で、これは東京女子師範学校附属幼稚園より一〇年の遅れが見られる。愛媛県で開設をみた附属幼稚園については、「明治二十年愛媛県学事年報摘要」(愛媛県庁蔵)の中に、次のように紹介されている。

 「幼稚園(本年五月師範学校内二仮設セリ蓋シ本園ハ従来計画スル所ナキニアラザリシモ経費支弁ノ途アラサリシニ師範学校中学校ノ職員中創立費ヲ寄付スルモノアリ是二於テ其経費ハ保育料ヲ以テ之二充テ毫モ本校ノ経費二関セス之ヲ開設スルコトヲ得タリ幼児ノ数ハ目下五〇名アリ之ヲニ組二分テ毎組保姆一名ヲ置キ附スルニ助手各一名ヲ以テセリ其成績ハ未タ見ルヘカラサルモ幼児ノ欠員アル毎二陸続入園ヲ請フモノアリ」と記されている。(官報・第一八七号・明治二〇年六月一五目)
 その後、愛媛県師範学校附属幼稚園は、愛媛県尋常師範学校附属幼稚園と改称され、その間にあって、「幼稚園の業は(中略)日に盛況に起き入園を乞うもの続々絶えず」「百名の園児を見るに至れり仍て之を二組に分ち訓導二名助手二名を専任して保育の事に従はしめ猶本校職員之を監督」(愛媛新報・明治三三年二万五日)するといった盛況振りであった。なお、明治二一年四月より愛媛県尋常師範学校附属小学校幼稚科に改められている。このようにして、愛媛県における幼児教育の先達的使命を担って、ひろく啓蒙的・模範的な役割を果たした附属幼稚園も、明治三〇年三月二一日をもって、その経営に終止符が打たれた。そうして、改めて附属幼稚園の開設をみたのは、愛媛県女子師範学校が温泉郡三津浜町(現松山市須賀町松山西警察署)に創立された後の明治四四年四月一日のことである。

 附属幼稚園の内容

 前記附属幼稚園の内容について若干ふれることにより、当時の幼児教育の概要を知ることができる。明治一九年四月二四日に、「来ル五月一目ヨリ本県師範学校内へ仮二幼稚園ヲ開設ス」との布達があり、同時に「師範学校幼稚園仮規則」(県布達甲第五九号)も定められた。
 同園仮規則では、「幼稚園ハ学齢未満ノ幼児ヲシテ身体ノ発達ヲ助成シ、善良ノ言行ヲ涵養シ、天賦ノ才美ヲ開誘スルヲ以テ目的トス」(第一条)と開設の目的を掲げ、男女の別なく年齢三歳以上、学齢未満であって(第二条)、種痘か天然痘を終えた者および感染する病気のない幼児の入園を認める(第三条)ことにしている。ついでに、その設備については遊嬉室・開誘室・園庭の設備を要する(第四条)と規定し、更に保育に際しては、年齢五年以上学齢未満の者を一の組、満三年以上五年未満の者を二の組に分け(第五条)、会集・修身の話・庶物の話・木の積立・板排・画き方・紙刺・縫取・紙剪・組板・摺紙・豆細工・鎖繫および珠繫・数え方・読み方・書き方・唱歌・遊嬉などの保育科目(第八条)を一日に三時間三〇分を超えない程度(第六条)に保育することにし、更に各科保育の要旨及び方法について詳細な解説を加え(第九条)、終わりに保育課程表をあげている(第一〇条)。ところが、この附属幼稚園は、明治二一年四月一日から、師範学校女子部生徒をして、「特に実地訓練の期に於て幼児保育方法を専修」させている。

 公私立幼稚園の開設

 愛媛県の幼稚園は、附属幼稚園の開設に続き、明治末期までに、表2-88の八公私立幼稚園が詔立された。しかし、このうち二園は途中で廃止された。
 表2-88を見ると、附属幼稚園と宇和島幼稚園を除いて私立幼稚園であることが注目される。これは明治期に限らず大正・昭和期を通じ、本県における共通した特色である。愛媛県における幼児教育は私立幼稚園の功績によるところが大きいわけである。
 これらの公私立幼稚園は、愛媛県が当時の政府文部卿の指示に基づいて制定した明治二〇年一月二一日の「町村立私立幼稚園設置廃止規則」(県布達県令第一〇号)、同二五年三月二四目の「幼稚園設置廃止規則」(県布達県令第一三号)、同三四年二月一六日の「幼稚園設置廃止等二関スル規程」(県布達県令第一三号)にしたがい、設置の事由・名称・位置・保育規程・園則・幼児の定員・園地及園舎・経常見込額・設置者の履歴書(私立のみ)を具して設立願いを県に提出した。
 私立今治幼稚園は、越智郡今治町正福寺住職谷本忍雅の願い出によって、明治三八年五月二五日に認可された。同園園則には、幼児の定員は八〇名とする(第一条)。入園を許可された幼児は満三歳以上学齢未満の者であって身体発育の充分なものとする(第二条) 幼児入園中の保育料は一か月二五銭とする(第一〇条)といった内容からなっている。保育規定では、保育は「幼児自然ノ発達ヲ助ケ身体ノ健康卜徳性ノ涵養ヲ期シ、各自一人ノ情性ヲ開誘スルノミナラズ多衆ト相交ル社交的情操ヲモ併養センコト」を要旨としている(第一条)。また、保育の科目は、会集・遊戯・談話・手業・唱歌の五科目とする(第三条)。と明記している。同園は玩弄品種・絵画・庶物標本品・オルガン・幼児机と腰掛などの備品をそろえて、正福寺内に開園した。「明治一五年~四三年類似学校・幼稚園」(愛媛県庁蔵)次頁の図2-13は、今治幼稚園の設立に際し、設立者が県に提出した幼稚園設立願いに添布された園の平面図である。
 これらの公私立幼稚園の実態を知るために、明治四四年度における各幼稚園別の保育年数・組数・保育者(保姆や助手)及び園児数は次頁の表2-89のとおりである。
 文部省が幼稚園の設立を奨励するようになり、我が国の幼稚園教育はしだいに普及するようになり、明治二九年にはその数が二二三園となっていたが、本県の場合は、表2-88からわかるように、まだこのころは、師範学校附属幼稚園・松山幼稚園・西条幼稚園・郡中幼稚園の四園に過ぎなかった。

表2-88 明治末期までの県内公私立幼稚園一覧

表2-88 明治末期までの県内公私立幼稚園一覧