データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 昭和期―終戦までの体育

 体操教授要目の改正

国民思想の強化を図る文部省の方針は、教授要目の改正によって示され、統制的傾向が強められた。大正一五年(一九二六)五月二七日の改正要目では、体操科の教材を「体操・教練・遊戯及競技」と定め、男子の師範学校・中学校には「剣道及柔道」が加えられることとなった。この要目から柔術が柔道と改められた。要目改正の要点は、①遊戯が分化して新たに競技として走技・跳技・投技が加えられたこと、②遊戯の教材が整理され数が増したこと、③体操教材では、教材配当の順序を定め、運動種目を整理し、教材の名称を改めたことなどであった。
 愛媛県では、大正一五年六月に改正要目を各学校に伝達し、「改正学校体操教授要目に準拠し、特に男子中等学校に在りては学校教練要目との連繋を保ち、克く土地の状況と生徒児童心身の発達とに鑑み各々適切なる教程を定めて之を実施し、以て体育の振興を図り、生徒児童身体の健全なる発達を期せられるべし」(県報訓令第九号)と訓令した。

 スポーツの普及振興

改正要目は、スエーデン体操により、画一化・沈滞しがちな学校体育を近来になく活気づけ、体育研究を一層高めた。また、この要目はスエーデン体操一本槍でなく、デンマーク体操・ドイツ体操が新しく加えられたため、体操の支持層も急激に拡大し、ラジオ体操の普及、国民体育大会や体操祭の開催、全国体育デーの設置など、体操は学校体育の殼を破って社会に広く普及発展して行った。
 一方、体操と並んでスポーツの普及振興も顕著であった。スポーツの国際交流が盛んに行われるようになり、オリンピック大会もアムステルダム(昭和三年)、ロサンゼルス(昭和七年)と回を重ねるごとに日本選手の活躍と相まって国民の関心を高め、スポーツ振興の原動力となった。
 学校体育の進展と、スポーツ競技の勃興に伴って愛媛県の教育界では、学校体育に関する研究調査と講習会の開設及び各種の運動競技大会を運営する機関を要望する声が高まった。愛媛教育協会は大正一一年四月二二日の総会で体育部門の設置を満場一致で決定した。体育部門が設置された後は、委員相原正一郎(松山高等学校)、後藤止(師範学校)、近藤芳一(松山商業学校)の諸氏の努力によって、県下に体操・競技(主として陸上競技・球技)・ダンスが普及して行った。また、教育協会体育部門が基盤となって同一三年一一月愛媛体育協会が結成された。
 大正一五年の要目改正でスポーツが体操科の教材に採用されたことから学校スポーツが急激な勢いで発展した。反面、スポーツ全盛などの新しい気運は、従来にない社会的・教育的問題を引き起こし、指導管理体制の改善が望まれることとなった。文部省は、大正一五年に「体育運動の振興に関する件」(文部省訓令第三号)を定め、そのよりどころとなる事項について基準を示した。次いで、昭和七年には当時最も弊害が多かった野球に対し、いわゆる「野球統制令」を公布し、健全適正な発達を期すための一定の基準を作成した。
 改正教授要目以後、満州事変など国際情勢の緊迫から、壮丁の体位低下現象が問題視されるようになり、国民体位の向上に向けて学校体育の奨励を強調し始めた。

 体操教授要目の第二次改正

このような我が国の情勢や、体育界の一般情勢に基づいて、昭和一一年(一九三六)六月三日に「学校体操教授要目」(文部省令第一八号)の第二次改正が公布された。新要目による体操科の教材は「体操・教練・遊戯及び競技」となった。男子の師範学校・中学校及び男子の実業学校においては剣道及び柔道が加えられ、また、弓道を加えてもよいとした。女子の師範学校・高等女学校及び女子の実業学校では弓道・薙刀を加えてもよいとした。更にこれらの教材の外に土地の情況により、適当なる施設及び指導者のある場合に限り水泳・スキー・スケートを加えることができるようになった。
 新要目は、当時の緊迫した国際情勢に即応する必要上、第一に身体の修練とともに人格的陶冶、すなわち、精神訓練を重んじ、統制的団体訓練を重視した。第二に伝統的な我が国固有の運動を加えたり、運動の名称をできるだけ国語に改めるなど、国防的・国粋的色彩を強く打ち出した。要目の第二次改正を契機に体力が注視されるようになり、合同体操・団体行進などが盛んに行われた。一方、競技・スポーツの娯楽性を否定し、自由主義的・個人主義的傾向を排撃した。総力戦態勢ということで第一二回オリンピック大会の東京開催を返上した。
 愛媛県では、昭和一二年に「国民体位向上対策要綱」を樹立して体育運動・体錬の奨励と学校衛生の振興を図る具体策を示した。同一二年一一月三日を中心に、「国民精神総動員」に呼応して県体育協会・県結核予防協会共催のもと県民総動員を行い、体位向上・精神作興並びに統一精神の啓培を目的として「健康週間」を設け、ラジオ体操・建国体操・愛国行進など多彩な行事が全県下で実施された。また、同一三年一一月三日の明治節には県主催で松山市城北練兵場に付近の小・中学校児童生徒、青年学校生徒、男女青年団員約二万人を集めて体育大命を開催し銃後の意気を高揚した。同一六年一二月八日第二次世界大戦が勃発した。

 戦時中の体育

 昭和一六年(一九四一)三月に国民学校令(勅令第一四八号)及び同令施行規則(文部省令第四号)が
公布された。この国民学校令において明治以来体育の意味に用いてきた「体操科」は「体錬科」と名称が変えられた。体錬科は、その目的として「身体を鍛錬し精神を練磨して濶達剛健なる心身を育成し献身奉公の実践力を培う」ことを掲げ、これらは国防力として極めて重要なことを強調した。体錬科の内容は、体操と武道の二科目からなり、武道が著しくその比重を増している。
 体錬科体操の内容は、体操・教練・遊戯競技及び衛生の四つの領域から構成された。「体操及び遊戯競技」は、日本精神の高揚と皇国民の使命完遂上必要な基礎的能力の錬成を目的とした。その教材は①姿勢 ②呼吸 ③徒手体操 ④歩走 ⑤跳躍 ⑥転回及び倒立 ⑦懸垂 ⑧投擲 ⑨運搬 ⑩格力 ⑪球技 ⑫音楽遊戯 ⑬水泳に分類されている。国民学校の「教練」は、軍事的基礎訓練というよりは、むしろ、規律訓練の色彩が強かった。初等科の内容としては、徒手各個教練・徒手部隊密集教練・礼式・指揮法・陳中勤務その他があげられている。「衛生」は、身体の清潔・皮府の鍛錬・救急看護の三類別からなっている。衛生が体操の中に加えられたことは、明治以来体育と衛生との一体化が初めて見られるに至ったことを意味し、画期的なことであった。同時に戦後の保健体育科実施の布石になったものと考えられる。
 体錬科武道の内容は、初等科第五学年以上に剣道・柔道を課し、女児に対しては「薙刀を課すことを得」としている。武道の指導に当たっては、礼節を尚び廉恥を重んずる武士道精神の涵養を強調している。このように武道が重視された理由は、能力の錬成以上に武道の修練を通して、伝統的な民族精神を体得し、国威の宣揚に直接貢献できると考えたからである。すなわち、日本精神=大和魂=武道精神の考え方に立ち、皇国民の錬成という立場から精神的側面の価値が大きくかわれたものといえる。
 これら体錬科教授要目の制定は、国民学校が昭和一七年、師範学校が同一八年、中学校が同一九年に行われた。しかし、戦争の末期には学徒動員・勤労作業・学童疎開などにより体育は空転した。同一九年の松山市潮見小学校の錬成教育をみると、教育方針に「決戦下皇国民の育成に全身全霊を傾倒し、以て戦力増強の一点に邁進する」ことを揚げ、国民学校教育の徹底を期している。そのうち体力錬成については、①運動能力の調査 ②歩走訓練③業間体操 ④武道錬成 ⑤身体検査・発育調査・結核予防・虚弱児対策の徹底を期している。
 学童たちは、学用品の不足を辛抱し、通学服は国防色に染め替えて着用し、靴も配給制となって容易に入手できなくなったので、手製のわら草履をはいて登校する者が次第に多くなっていった。しかし、「ほしがりません、勝つまでは」を合言葉に、国民体操・強歩訓練・乾布摩擦などの体錬運動に代表される厳しい錬成教育に耐えていった。
 昭和二〇年八月一五日、国民に大きな犠牲を強いた長い戦争は終わった。