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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 大正期の体育

 学校体操教授要目

明治三〇年代に入り普通体操が行き詰まり、スエーデン体操をはじめとする種々の体操が移入されるに及んで体操指導に混乱が生じ、その統一が望まれるようになった。文部省は学校体操の安定を図るため大正二年(一九一三)一月「学校体操教授要目」(文部省訓令第一号)を制定公布した。この要目によって学校体操の統一整理に成功し、しばらくはスエーデン体操の全盛時代を迎えた。本県においても大正二年師範学校に湯村慶一教諭が赴任し、県下にスエーデン体操を普及した。この時代は、要目に基づいた体操が全国一斉に行われたことから、要目体操時代と呼ばれている。
 要目によると、体操科の教材は「体操、教練及び遊戯」となっているが、この外に中学校及び師範学校の男生徒には「撃剣及び柔術」を加えてもよいことになっている。各教材の内容をみると、
 体操は、下肢・平均・上肢・頭・呼吸・胸・背・腹・躯幹側方・跳躍の運動に分かれ、その各々にいくつかの運動が更に示されており、体操の運動の数は全部で一〇七の多きにのぼっている。各運動には「始めの姿勢」又は「器械」と「号令」とが記されている。
 教練は「歩兵操典の定むる所に準拠す」とし、その行うべき事項を列挙している。
 遊戯は、①競争を主とするもの ②発表的動作を主とするもの ③行進を主とするものの三つに大別し、各々主要教材を例示している。この分類の仕方をみると、競技がまた独立していないので遊戯の範ちゅうに混在している。また、遊戯は体操と比較にならない程軽く扱われ、まだ教材としての価値を十分に認められていない。
 体操科教授要目によって基本的な基準が示されたので、愛媛県では大正二年、この要目を各学校に配布するとともに「学校体操教授要目に準拠し、土地の状況と児童生徒の身体的発達とに照し、各々適切なる教程を定め、以て体育の振興を図り、本科教授の効果を完うせんことを期すべし」(県報訓令第六号)と訓令している。
 大正時代は、教育等に限定してみても大正リベラリズムと称しか一連の新しい風潮のもとに、明治時代では想像もつかなかった自由教育の試みがみられた。第一次世界大戦後の自由思想は体育界にも及び、従来の画一的なものやスエーデン体操を排撃し、より自由で調和的な遊戯や競技を重視する体育思想が台頭してきた。スポーツは極東オリンピックを中心として国際交流を始め、女子スポーツの普及もこのころからのことである。このようなスポーツの普及発達と併行してスポーツは学校体育の教材として無視できない勢力に成長して行った。
 大正二年の教授要目公布後、陸海軍の体操研究や遊戯・スポーツなど新教材の登場、条件つきで高等小学校に撃剣・柔術を認めるなど、体育教材のオープン化に伴い、要目体操として啓蒙普及したスエーデン体操は批判の対象となり、要目改正の気運は次第に高くなった。一方、外部的には第一次世界大戦後の国際情勢の変化によって軍事教練が強調され、これが文教政策の面にも現れてくる。すなわち、大正一四年四月に「陸軍将校配属令」が定められ、中等程度以上の学校に現役将校が配属され、教練の教授に当たることとなった。また、同一四年九月には、「陸軍現役将校配属学校教練査閲規定」が定められ、学校における教練はいよいよ重視されるようになった。このような過程をたどった体操科の教練は実質的には体操科教員の手を離れ、軍人の于によって直接指導されることとなった。
 愛媛県では、松山市に歩兵第二二連隊があった関係上、現役将校配属令公布以前から教練教師を充実して兵式体操には特に熱心であった。殊に松山市内の中学校は密接に連隊の援助を受けている。配属将校による教練は大正一四年五月九日から一斉に実施されることになった。同一五年二月二六日には石手川堤防付近において松山市内中学校の連合演習が実施された。