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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 明治期――唱歌教育の誕生

 唱歌科の加設とその推移

 明治初年は、文明開化の波を受け、西洋音楽導入の気運が高まり、明治二年(一八六九)、薩摩に青少年軍楽隊、続いて同四年には、陸海軍軍楽隊が誕生した。同五年、学制頒布により、小学に「唱歌」、中学に「奏楽」が設けられたが、「当分之を欠く」とされ、その後たびたび法規の改正があったが、実施の条件が整備されず、「欠くことのできる教科」として扱われ、その加設は、府県に委ねられていた。それが必修教科として法制上位置づけされたのは、同四〇年の「小学校令」の大改正の時点である。学制頒布当時、松山の啓蒙学校奉職の桧垣伸は、その追懐の中で「学制には麗々しく修身や唱歌などの教科目を設けてあったが、地方の教員などは、唱歌とはどんな教科か、てんで見当がつかず、唱歌は全然之を除き」と述べている。
 本県においては、附属小学校は既に同一六年の創設当時、唱歌の授業が行われており、また、八幡浜尋常小学校では、同二一年の職員組織中、唱歌教師一名があり、大洲高等小学校では、唱歌は専科教師となっている。また、同二二年三月七日の愛媛新報の報道では、下浮穴・伊予郡役所主催の学事集会で「尋常小学校に唱歌を加うることの可否」が付議されており、この時点では小学校での加設はほとんどなかったものと思われる。しかし、同二五年に至り、県令で「小学校教則」が判定され、高等小学校には週二時間の唱歌が加設された。同二九年、本県「学事年報」に報告された唱歌加設校は、尋常科五四六校中一校のみであるが、高等科は二六校中二四校が加設となっており、高等科での加設が先行したことが伺える。
 次に中等学校においては、同一四年「中学校教則大綱」により「図画及び唱歌」として明示されたが、本県では「之を欠く」状況が続いた。女子においては、同二八年「高等女学校規程」により「音楽」が明示され、同四四年「高等女学校及び実科高等女学校教授要目」により音楽を必修教科と規定、同四五年の「愛媛県立高等女学校規則」の改正で、音楽は一~四学年に必修とされた。

 加設の条件整備

明治一二年(一八七九)、文部省は「音楽取調掛」を設置し、伊沢修二を掛長として音楽教育の調査研究に当たらせた。伊沢修二は米人メーソンと共に音楽教育の方針、教授法の設定、唱歌教材の調査と編集、音楽伝習所の設立による楽生と教員の養成など、音楽教育の基盤づくりに努力した。「音楽取調掛」は同二〇年に至り、発展的に改編されて東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)となった。
 唱歌教師の養成であるが、中央における教師養成機関は音楽伝習所や公私立の教師養成機関であったが、本県においては尋常師範学校及び唱歌講習会などにより資格を取得させた。また、同二〇年「小学校教員講習規則」が告示され、尋常師範学校において各教科別の講習会を二~三か月にわたって行うことが規定された。
 唱歌教育実施上、大きい障害であった教材の不足も、伊沢修二らの努力により順次整備の方向に進んだ。まず、音楽取調掛により同一四~一七年にかけて『小学唱歌集』初編(三三曲)第二編(一六曲)第三編(四一曲)を出版した。これは我が国で最初の音楽教科書で、「春の弥生「蝶々」「美しき」「ほたる」等の懐かしい曲が見られる。続いて同二〇年には『幼稚園唱歌集』、同二二年には『中等唱歌集』が文部省より出版された。しかし、これらは何れも外国曲に日本語の歌詞をつけたものが大部分で、原曲の意味とは無関係のものが多かった。この欠点を補うため、明治中期に至り、日本人の作曲による唱歌集として伊沢修二編『小学唱歌』六編(同二五~二六年出版)、東京音楽学校編『中学唱歌』(同三四年版)がある。この中には滝廉太郎の「荒城の月」「箱根八里」等の名曲も見られる。なお、民間からも奥好義平田村虎蔵らにより、多くの唱歌集が刊行された。同四三年文部省出版の『尋常小学読本唱歌』には、後世まで愛唱された「月」「小馬」「春がきた」「虫の声」等がある。同四四年、文部省は小学校唱歌教材の系列化を図るため『尋常小学唱歌』全六巻の刊行に着手、大正三年、全巻の刊行を完了した。本書により小学校の唱歌教材は、初めて学年別の系統化が成り、唱歌教育の充実進展に大きく貢献した。
 次に教具としての楽器は、唱歌の伴奏用にとどまり、筝・胡弓・バイオリン・風琴(オルガン)等が用いられた。伊沢修二が文部卿にあてた「音楽取調成績中報要略」(明治一七年二月)には、唱歌用楽器として次のものを挙げている。「下・中等小学校=箏・胡弓で足るも、バイオリン・風琴あれば最良。上等小学校・中学校=風琴は必備とし、洋琴(ピアノ)あれば最良」。しかし、当時としては、風琴・洋琴は価格が高く、財政的に負担が大で購入には相当の困難があったと思われる。
 本県の附属小学校は、創設の明治一六年にオルガンの設備があったが、一般には、高等小学校で同二〇年代、尋常小学校で同三〇年代以降に普及したと考えられる。
 楽器以外の教具としては、「唱歌掛図」があり、同一八年音楽取調掛作成のものを各県に交付した記録がある。

 指導の目標と方法

 明治初期における唱歌の指導目標は、体育、徳育に資する手段的なものとして意義付けられており、このことは伊沢修二編の「音楽取調中報要略」によって伺うことができる。しかし唱歌の普及に伴い、その目標の明確化が要請されるに至り、同二四年、文部省は「小学校教則大綱」第一〇条に「唱歌は耳及び発声器を練習して容易き歌曲を唱うることを得しめ、兼ねて音楽の美を弁知せしめ、徳性を涵養するを以て要旨とす。」と示し、同三三年の「小学校令施行規則」第九条では「唱歌は平易なる歌曲を唱うることを得しめ、兼ねて美感を養い徳性の涵養に資するを以て要旨とす。」と明示した。この目標は、大正・昭和と引き継がれ「国民学校令」の公布まで踏襲された。
 明治二四年(一八九一)の「小学校教則大綱」第一〇条に「小学校教科に唱歌を加ふるときは通常譜表を用ひずして容易き単音唱歌を授くへし。高等小学校に於ては、初めは前項に準じ、漸く譜表を用いて単音唱歌を授くへし。歌詞及楽譜は成るへく本邦古今の名家の作に係るものより之を撰び、雅正にして児童の心情を快活純美ならしたるものたるへし」とあり、本県においても翌二五年「小学校教則」を国の大綱に準じて公布した。このように唱歌の授業は、口授法を主とし、譜表はほとんど数字譜(1234567)が用いられ、これを「ドレミファソラシ」または「ヒフミヨイムナ」と読ませた。

 愛国心の養成と唱歌教育

〈軍歌〉 明治二〇年代には、それまでの西洋文化心酔期の反動から国家主義が台頭し、同二七、八年の日清戦争を機に軍歌の大流行となった。この世相の中で文部省も「高等小学校男生徒には兵式体操を課するの際軍歌を用ひ、体操の気勢を壮にすることあるへし。」と訓令し、教育への軍歌活用に積極姿勢を示した。当時の軍歌には「来たれや来れ」(伊沢修二作曲)、「元寇」「雪の進軍」(永井建子作曲)、「敵は幾万」(小山作之助作曲)、「勇敢なる水兵」「婦人従軍歌」(奥好義作曲)等がある。
  〈儀式用唱歌〉 文部省は、明治二四年(一八九一)「小学校祝日大祭日儀式規程」を制定して、挙式順序を示し、学校長訓示に続き「祝日大祭日に相応する唱歌を合唱す」と規定、同二六年には「祝日大祭日儀式用唱歌」を告示し、「君が代」「勅語奉答」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」「一月一日」「元始祭」「紀元節」の八曲が示された。同年、文部省は式典回数を調整し、儀式は三大節(一月一日・紀元節・天長節)に限定した。
 本県では、同二九年「小学校入学式規程」を制定し、三大節及び入学式における儀式次第を規制、全県画一の式典挙行体制となった。示された式の順序は「唱歌君が代ー勅語奉読ー勅語奉答-式辞-祝辞-儀式唱歌」で、この方式は、大正・昭和と踏襲され、終戦時まで継承された。