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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

2 宇和海の潮騒に

 民衆詩に対して芸術派とも称すべき短詩運動は「詩と詩論」を中心とした新散文詩論に展開してモダニズムの一翼を担い、シュールレアリスムを呼び、強烈な個性を結実する。昭和一〇年代、現代詩の定立を目ざした草創期のプロレタリア詩とモダニズム詩が空しく分解した後をうけたのは、知的で典雅な抒情と自然への傾斜・虚無感に支えられた堀辰雄編集による「四季」であった。また「コギト」「日本浪漫派」「歴程」の詩運動もあったが、日中・太平洋戦争の渦のなかで戦争詩・国民詩へと集約されていった。この時期、南伊予では、不思議なことに、民衆詩の激しさ・モダニズム詩のうねりをもろにかぶることなく、宇和海の潮騒に独自の桃源の境を作っていた。

 吉田風物晝帖  小林 朝治

 小林朝治(明治三一 一八九八~昭和一四 一九三九)長野県須坂に生まれ、本名袈裟治。昭和二年金沢医大より吉田病院初代眼科医長として着任、六年まで在任。国画会同人。俳・歌・画・詩人。『吉田風物書帖』は詞帖・画帖合わせて一枚、陣屋町吉田の風物五六をそれぞれ一葉の版画、数行の詩で点描する。

 〈御殿前〉 烈日をかつちり/老松のたくましき/腕々はうけて/蝉の声を/湧かせて居る。灼土をちっと/老松のりゅうりゅうたる/太い根はおさえて/瀬音を/湧かせて居る。 旱り道を/樹下の床几に/たどり着いた/蟻のやふな人々は/石城山上に/入道雲を吐いてゐる。
 〈柳橋〉 夕潮/一の橋に/ふくれくれば、/白き家鴨は川をあがり。夕風/二の橋に/こえくれば、/白き馬は河原草をあがり。 夕闇/三の橋に/せまりくれば、/白き團扇は橋渡りてゆく。/涼しさに橋三つ渡りけりとな。
 〈中番所〉 道が乾いて/白いほこりが/立って/梅も乾いて/白いかほりを/立てて/天神さまの/黄銅の臥牛も/立たなむ日。/つきあいの/黒く/たくましい牛が/橋のたもとから/ぬふて出やふ。
           『古田風物晝帖一 昭6・5・10印行 昭57・11・3復刻発行)

 牛鬼 山内  隆

 山内隆は吉田町出身。詩集『牛鬼』(昭6・6・1民謡レビュー社発行)は序文松村又一、作曲森義八郎。「鰤の大漁」「島原情緒三題」「南予三部曲 (一)牛鬼 (二)八ツ鹿踊 (三)闘牛」など二五題を所収。
〈八ツ鹿踊〉 八ツ鹿踊りじゃよんなんせ/祭りのはやしじゃ寄んなんせ 小鹿は鹿でも親子鹿/金茶まだらの深山鹿 深山で赤いは柿紅葉/お背戸じゃさいかち烏瓜/ひと夜さひと夜は山で寝て/始めて出ました秋祭 小鼓たたいて首をふりゃ/金茶まだらに陽が光る 八ツ鹿踊りじゃ寄んなんせ/祭のはやしじゃ寄んなんせ

 嵐  南予詩作連盟

 久保麟一、のちの松本リン一(明治四四 一九一一~ 宇和島市)は小學校の教員をしていた。全国的な詩誌である「詩人時代」(昭和7年7月号)に「生活悲話」と題する詩(今日も魂深く感ずる/小學教員の悲哀 束縛され/牽制され/自由を剥奪された小學教員 せめてもの遣瀬ない弱々しい羽搏/それは感傷的のそれであるかも知れない/だが正義への感傷は許容されていいー後略-)を書いたその久保麟一が詩誌「嵐」を刊行した。創刊号(昭6・8・1)の「あとがき」に久保浩吉は次のように書いている。…南伊予がもつ唯一の詩誌として、僕達は或る心の躍動と決意をを抱く。僕達は泥濘の曠野をひたすら歩む。けれども僕達はひるまない。僕達は鋼鐡の意志もて明るく強く育てる。それを僕達は宣言し心に誓ふ。主義もない。スローガンもない。「嵐」の前進を方向づける理論もない。各個人は各個人の道を往く。…発行所は北宇和郡蒋淵村光照寺久保麟一方南予詩作連盟とある。蒋淵村は現在の宇和島市蒋淵で、三浦半島の突端にぶらさがって戸島と相対する。昭和六年、蒋淵は南伊予の典型的漁村のひとつであった。表紙は小林朝治の版画で、玉置光三・小林朝・槇本光子・田原喬・久保浩吉・金田福一・加藤海芋が稿を寄せている。以下、創刊号寄稿者以外の名は二号(昭7・12・20発行)に弘田義定・久保麟一・浅川幹男・村藤登美子・森川津奈雄、三号(昭和8・2・10発行)に古谷綱武・奥田盛善・下村秀路・梶田植敬、四号(昭
8・5・20発行)に木坂俊平・浄光明達・菊地修・渡辺茂行・福田緑郎・加藤多見男がみえる。第五号以後は未見であって終刊をつまびらかにしない。古谷綱武は四号に「南予の文芸」と題して…久保君は「およし」と「秋の夜」がいい。素朴な真実感がひとを打つ。頭のよさが彼をマンネリズムに落さないやうに。僕は彼の詩から木山捷平君を思ひ出した。彼の詩を今度木山君に見せようと思ふ。…と書いている。

 老漁夫の歌  玉置 光三

 玉置光三(明治二七 一八九四~昭和四九 一九七四)宇和島市出身。童謡作家。「嵐」発刊のころ東京にあった。この詩誌の命名者である。一~四号の巻頭に論・詩を寄せている。「佐多岬の歌」「藻烏賊採り」「老漁夫の唄」「人の世に寄せる歌」が掲げられている。民謡調の詩が多い。

 〈藻烏賊採り〉 赤い藻をわけ/波間の舟は/けふも烏賊あみ/烏賊を採る、磯は昼凪/小舟はゆれて/乗った漁師の/親子づれ/掴むその手に/藻烏賊はぬるり/吐くよ潮の/みづしぶき。

 ほらがい 長岡 通夫

 長岡通夫 西海町。船越に住んで出ず、多彩な文芸作品遺稿を残しているが未刊。戯曲・小説・浪曲台本などのうち、『ほらがい(童よう集)』(昭32・7・1)のみ刊行。
 
 〈かいがら〉 かいがら集めて/かいがらの/上にかいがら/かちとなげ…………/かいがらかけて子はあそぶ かちりとふれる/かいの音/おさなき命の濁音か/にごり世になる/金の音か/ひびきはかなし かいかけて/かいとかいとのふるゝ音 なないろ/といろの/貝ならべ/貝の話をしてやろか……… 子らは/こたえず/貝だして 父もかけよと/貝くれる (『ほらがい』所収)

 美しき生活  山本 修雄

 山本修雄は西宇和郡伊方村小中浦にあって、昭和一四年三月二五日「詩集美しき生活」を出版した。「後記」にいう…百姓との二重生活が今本然に遷ってきたやうだ。あゝ私は詩を書かなければ生きてゆけないために多くを汚しすぎたやうだ。私は銅のやうに錆びて遠天に登って行かなければならない。不実と眞實の混血兒が私の詩だ。…『美しき生活』には「哲也の歌」一一編、「美しき生活」一二編を収めている。

 〈彳影〉 現世の光りを見ると/すくすくと伸び行く/無生にちかいので/生命は遠回りに歩いてゆく。年頃になると肉體が太る。結核菌も材料をえて伸びる/美しいが雅殺になって/すべてを奪はれて平気になる。 老大國が来てしまって/にはかに不老不死を希ひだす/美しい人々は童心にかへる/保身のため嘘をつきはじめる。 死魔が時々見番にきて/ひどくいばつてゆく/とうとう影のやうになって/自らの長さを造りはじめる。(『美しき生活』所収)

 鰯  森川津奈雄

 森川綱男(~)八幡浜市。仔鳥の戦術(歌集)・ひからびた生命(歌集)・動線(共同歌集)・空間の胴體(短歌創造新鋭叢書第二編)・亜熱帯(昭和5・11より第一輯~第三輯)・苔荊(昭6・9より第一輯~第二輯)・鰯(昭7・9より 第一輯~第五輯)。「鰯」は津奈雄が発行した最後の文芸誌で、高橋新吉・野田真吉・古谷綱武・梢田牧子・野井太郎・将戮一郎・久保麟一・広田文博・長頭平太郎・弘田義定・田原喬・山口英治・和田素子・佐々木靖治・尾上悟楼庵が寄稿している。第六輯は追悼号(昭和8・5・1)である。古谷綱武は津奈雄を評して…この人のものは近代理智の悲劇を深く宿した作品である。現代インテリゲンチャの宿命が迫力のある文章の中に唄はれてゐるが、未だ少ししゃっちょこばってゐる。彼の若さは彼の悲しみを未だ多分に甘やかし、多分に感傷してゐるところはあるが、この困難な問題を捨てない彼にひそかな敬意を感じるのである。(南予の文芸)…と書いている。古谷が推した久保麟一の詩「およし」「秋の夜」は「鰯」第三輯に収められている。

 〈森川綱男君を悼みて〉 高橋新吉  悲しみも、喜びも/陽に照らされし草の葉の影の如きものならずや/その影の黒きが如く/その影の軽きが如く/その影の消えゆるが如きものならずや/人よ酔へ、死ぬと歌ひて君も又/死にたまひたるさびしさよ/大いなる影のとりことなり果てし/うら若き身のいとしさよ  (「鰯」森川津奈雄追悼号所収)

 幡詞  二宮 忠八

 二宮忠八(慶応二 一八六六~昭和一一 一九三六)八幡浜市出身。明治二二年一一月九日、香川県樅の木峠で烏群の飛翔から飛行機の原理を触発され、二四年四月二九日、動力・人工翼飛行機模型を世界に先駆けて飛ばした。飛行原理の創始者として小説の主人公(吉村昭「虹の翼」)とされる。忠八に『幡詞第一編』(大正11・2・3幡詞会発行)『幡詞歌』(昭和4・4・23同上)があり、幡詞は…漢詩の七言絶句律詩に則り簡明荘重の文格となし、敢て平仄を踏まざる音訓自在の文字にて世の態を総て七言の四句と八句に綴り楽器に奏でて唱和するの譜を附したる新文芸なり…とする。

  幡詞単句琴歌の調 (梅花)一夜の雨に、つぼみを破る、梅こそ春の、使なりけれ。 (鶯)羽風も匂ふ、鶯の声、啼く度毎に、春進み行く。 (春雨)若葉に注ぐ、雨は静けく、小鳥の声も、しめる茂山。