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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 明治後期

 子規と和歌革新

 明治三一年二月「歌よみに與ふる書」を新聞「日本」に発表。正岡子規はかねて意図していた和歌革新の第一声をあげた。この文章は一〇回にわたり連載されたが、論旨苛烈をきわめて、檄文ともいうべきものであって、当時の御歌所に寄る桂園派の人々に占められた歌風を一種の堕落として攻撃した。忽ち大きな反響を起こし、巷間の声は毀誉褒貶相半ばした。一時はその過激を戒める忠告者も出るほどの騒ぎとなり、子規も苦慮する面がないでもなかった。
 しかし、一たび決意した子規の主張はすこしも譲るところなく、あくまでも旧派の脱皮と革新の説をつらぬくために、あらゆる抵抗と戦った。時の経つにつれて和歌革新の説は正論として世間にひろく迎えられ、次第に子規の傘下に加わる共鳴者も多く現れるようになった。伊藤左千夫(千葉)・長塚節(茨城)・香取秀真・岡麓(いずれも東京)、赤木格堂(岡山)らがそれである。
 子規の和歌革新は、実作の指標を「写生の説」に置いて直実追求の信念を高揚した。それは子規みずからの精神によって成し遂げられた革新であり、世にいう万葉集からの感化とは異なるのである。この点が子規の偉大な点であり、万人の追随を許さぬ卓見と言うべきである。もちろん、のちには万葉集の精神を摂取せよと述べているが、革新の出発点は右に説いた如くであり、子規が近代短歌開拓の先駆者と呼ばれるゆえんである。
 子規はまた写生の説を唱えるとともに実作のうえでもこれを証明して見せた。その作品も本格的には明治三〇年頃からはじまり、「歌よみに與ふる書」の発表に併行して「百中十首」の試作を大量に発表、在来の文語調にとらわれることなく口語的発想の平易にして斬新な詠風に、古い和歌概念から新しく一歩抜け出たものを示して人々の注目を引いた。かくて子規は明治三五年九月、三六歳の生涯を終るまで実作をやめず、今日でも鑑賞に十分堪えられる沢山の短歌を遺した。その業績をしのぶ一つのよすがとして、子規の郷里松山の正宗寺に埋髪塔がある。

  世の人はさかしらをすと酒飲みぬ吾れは柿くひて猿にかも似る          正岡 子規
  縁先に玉巻く芭蕉玉解けて五尺の緑手水鉢を掩ふ           正岡 子規          
  人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花           正岡 子規
  くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る          正岡 子規
  松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず          正岡 子規
  夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも          正岡 子規

 千亦と「心の花」

 海の歌人と言われた石榑千亦、本名は辻五郎。明治二年八月、横井良三郎の二男として、新居郡橘村(現西条)に生を享けた。後年、石榑利八に養われてその家を継ぐ。明治二二年上京、帝国水難救済会の創立に参与して役員となる。この職は昭和一七年八月、七七歳で逝去するまでつづいた。「アララギ」の古泉千樫、「覇王樹」の飯田莫哀が、この水難救済会の職員として生計を支えたのは千亦の推軌によるものである。
 明治一六年、千亦は佐々木信綱を訪れて竹柏園に入門。「おのがじし」の自由な歌作をかさねた。ついで明治三一年には竹柏園の機関誌として「心の花」を創刊、信綱を主宰者として、実質の編集発行の仕事は千亦の手によってなされた。これは千亦の実力を示す雑誌でもあった。要するに千亦は「心の花」生みの親であり、信綱の仕事を蔭から支えたのである。
 千亦に海の歌が多いのは、水難救済の活動に永年携わって来た関係による。千亦はよく全国の港々を廻り、仕事とは別に歌人としての足あとを遺している。歌集に『潮鳴』『鴎』他がある。千亦の二男五島茂は父のあとをうけて、現在歌誌「立春」を発行している。

  昆布の葉の廣葉に乗りてゆらゆらにとゆれかくゆれ揺らるるかもめ        石榑 千亦
  燈台に灯の入る時も近からむ船の上ふく風冷えて来ぬ        石榑 千亦
  蚊張たたむ金輪の音の心さやに朝は涼しく庭はきにけり        河上 哲太

 森田義郎と石鎚吟

 子規をかこむ根岸短歌会は、俳句の場合と違って、愛媛出身の参加者は僅かに一人、周桑郡小松町から出た森田義郎の名を見るのみである。明治一一年四月、森田義克の長男に生まれた義郎は若くして上京。子規の名を聞いて根岸に訪問、短歌の門弟になったのは明治三三年。もっとも熱心な会員として根岸の短歌会に出席、子規の説くところをよく理解して、作歌以外に万葉集の研究にも忠実であった。のちに数巻の万葉集評釈の著書を出すほどの力量と識見を身につけた。
 子規の没後、明治三六年六月、子規の遺志を継承した歌誌「馬酔木」の創刊に加わり、一時その編集に当たった。しかし伊藤左千夫と疎隔を生じて脱退、「心の花」新聞「日本」に拠っていたこともある。晩年は寂しいものであったと言われる。昭和一五年一月、六二歳で亡くなった。
 何と言っても愛媛では子規に仕えた代表的歌人、義郎の遺した作品の中には、ふるさとの石鎚山を題材にした大量の連作など、味わうべき名吟としての声価をいまも伝えている。

  白妙の衣きよそひ法螺の貝吹き鳴らしつつ登る石鉄         森田 義郎
  石鉄の冠の滝のおちたぎつおとのとどろと山鳴りとよむ         森田 義郎