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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 愛媛

 愛媛が地名として登場するのは、明治六年二月、県名として採用されたのに始まる。明治になって、東・中予の松山・今治・小松・西条の四藩がそれぞれ県と改称、さらに合併して松山県としたあと、石鉄県と称した。一方、南予の宇和島・吉田・大洲・新谷の四藩も、同様に宇和島県として合併後に、神山県と称した。この石鉄・神山両県を合わせて、いよいよ愛媛県が誕生したのである。
 これを県名としたことについては、当時刊行された伊予の地誌『愛媛面影』によって伺い知られる。その編者で今治生まれの国学者半井梧菴が、慶応二年に書いた序文に次のようにいう。
  これを愛媛の面影としも名づけたるゆゑよしは、古事記にこの島は身ひとつにして面四つあり、かれ伊予の国を愛比売といふとあるによりて、やがて巻名におほせつるなりけり。
右の通り、その書名は『古事記』の神話の国生みの条から採ったのであるが、それがまたやがて県名として用いられるに至ったのは、梧菴が当時石鉄県地理掛であったという事情にもよるであろう。
 ここで、「愛比売」のヒメに「媛」を採用した理由について考えてみよう。まず、『古事記』に記す三字のままにしないで二字にしたのは、地名の二字表記の例に従ったものであろう。次に、二字とするに当たっては、好い文字を選んだはずである。エの「愛」はそれでよいとして、ヒメを「媛」か「姫」か検討したであろう。この点、第一に、書写の運筆と字形から上字「愛」とのつり合い上、「媛」の方が落ち着く。第二に、上代の資料によると、女性名にヒメがつく例では「媛」の方が一般的であった(『時代別国語大辞典上代編』の「ひめ」)から、その点も勘案されたか。とくに、『書紀』応神二二年四月条の「いやふたならび」の歌(四頁)が、妃の吉備への里帰りを見送る帝の詠歌であって、その妃の名が「兄媛」であったのも資料になったか。第三に、漢字の意味からみると、「媛」は「美女」、「姫」は「女官」(新撰字鏡)であることも考慮されたであろう。以上の諸点など検討した結果であろうが、よい文字を選んだものと思う。
 エヒメの意味については、宣長が『古事記伝』で次の二つの意見を示している。

 愛比売は、兄弟の女子を兄比売・弟比売といふ例多かれば、この国は女子の始めの意にて、兄比売か。又伊予を元よりの大名にして見れば、かの大御歌のごとく、弥二並宜島々の意にて、愛は宜意か。(五之巻)

この疑問は、上代の万葉仮名遣によって解決できる。つまり、「兄」はヤ行のエ(ye)であり、「愛」はア行のエ(e)で、明確に音も区別があるとともに、意味も異なっていた。当然後者の方がよいのである。
 県名「愛媛」という意味は、愛すべきいとしい美女、美しくよい女、という、古典的な称え名ということになる。なお、国生み神話にいう伊予の国の神霊の「愛比売」については、元来この伊予の国が「水の女(神の妻、巫女)」を中心とする海神信仰の世界と関わることを意味する名称とも考えられる(第二章第二節の三「伊予姫」)。