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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

6 県政推進三本柱の実現へ

 昭和四五年(一九七〇)第五次久松県政の後期、先進県への飛躍を志向する県政推進三本柱の実現を目指し、「瀬戸内海大橋の建設」、「国立愛媛大学医学部の誘致」、「南予水資源の開発」が東・中・南予それぞれの重要課題として登場し、後継の白石県政における早期実現が期待された。その実現にはいずれも中央、地方にわたる強大な政治力が必要とされ、発足早々の白石県政の真価が問われる課題となった。

 「瀬戸内海大橋」の建設促進

 本・四架橋は「夢のかけ橋」といわれる。「夢のかけ橋」とは、昭和一四年ころ内務省神戸土木工事事務所長を勤め、戦後、昭和二四年神戸市長となった原口忠次郎の執心した明石海峡架橋に付けられた愛称であったが、昭和三〇年代三~四ルートの誘致競争時代に入り、各ルート共通の架橋志向の表現となった。四四年、政府・自民党ではA(明石-鳴門)D(児島-坂出)E(尾道-今治)の三ルート優先争いに決着を付け、三ルート共に建設の方針が決まった。昭和四五年本州四国連絡橋公団が新設され、ADE三ルートの実施設計調査が決まり、富樫公団総裁は「三ルート共に四八年同時着工を目標」と表明、四六年、政府は景気浮揚の大型プロジェクトには架橋が効果的との考えを強めた。架橋順序を懸念してきた本県としては、好調の滑り出しであったが、四八年一〇月の石油ショックによる総需要抑制下、一一月には着工延期となり、起工式準備さなかの関係者を打ちのめし、前途暗たんとして工事凍結時代が始まった。こ
の直前に、大三島橋工事の入札が行われていたが、当然凍結となった。昭和四九年一二月発足した三木内閣の仮谷忠男建設大臣(高知県出身)の努力で、五〇年八月、福田赳夫副総理、仮谷建設大臣、金丸信国土庁長官の三者会談に木村睦男運輸大臣も加わり、いわゆる「一ルート三橋」という苦肉の再開方針が決定された。その内容は、①当面児島―坂出ルート(鉄道橋併用)の早期完成を図る ②年内着工は尾道-今治ルートの大三島橋(条件付で因島大橋)及び明石-鳴門ルートの大鳴門橋の三地域開発橋とするものであった。大三島橋はこうして工事凍結解除となり、昭和五〇年一二月念願の起工式が行われた。
 歴史的な起工式のくわ入れ式は、一二月二一日小雨の中、鼻栗瀬戸を見下す越智郡上浦町の架橋地点において仮谷建設大臣(五一年一月急死)、金丸国土庁長官、富樫本四公団総裁、白石県知事、吉岡県議会議長の手で行われ、白石知事は因島大橋などルート貫通に努める強い決意を表明した。同橋はその後順調に工事が進み、昭和五四年五月開通の日を迎えた。しかし瀬戸内海大橋は貫通を約束されたDルートとは立場を異にし、架橋実施には一橋また一橋と政治的な努力が積み重ねられた。一ルート三橋の壁は厚く、「伯方・大島大橋」は政府の財政再建のあおりで臨時行政調査会(臨調)ではいったん事業打ち切りとなっていた。五五年、政府・自民党首脳や第二臨調の有力財界人ダンパーへの白石知事、代議士越智伊平・森清、県商工会議所会頭新野進一郎らの強力な働きかけが奏効し、一律凍結中の三橋の壁を破ることにようやく成功、伯方・大島大橋架橋を加えて本四架橋は一応一ルート四橋となった。昭和五六年三月、伯方・大島大橋が起工、六三年一月の開通を見た。

 愛媛大学医学部の誘致

医科大学の誘致は白石県政の選挙公約でもあり、「政治力を結集して実現を図る」大きな目標となった。本県は恒常的医師不足に悩み、昭和四四年人口一○万人当たり医師数は九三人という全国三六位の低水準で、医療機関の利用困難な「無医地区」は県下一一五か所にのぼった。県では自治医大制度による養成医師の確保に努めたが、早急な医師不足の解消には程遠く、医科大学の誘致は県市町村をあげて焦眉の急
とされ、特に財政上からも国立医科大学の設置が最も望ましいところであった。四四年県では、衛生部を事務局として医科大学誘致推進本部(本部長、副知事松友孟)を設置し、愛媛大学(学長熊谷三郎)に医学部を設置することを当面の方針として、大学側の内部固め及び県医師会の協力を取り付けた。一方、二月県議会では誘致促進決議を満場一致で行い、挙県体制が着々と進んだ。四六年、文部省は医師不足、医師養成教育の地方の要望に応えて国立医科大学・医学部設置調査費を計上し、四七年度から緊急にこれらを増設する方針を明らかにしたので、本県の目標は国立愛媛大学医学部の設置に絞られた。無医地区を抱える医療後進県の一一県が、しのぎを削る激烈な誘致合戦となり、文部省を主たる標的に政界を動員した陳情が展開された。
 四六年、白石知事と坂田道太文部大臣らとの折衝が始まったが、この間衆議院文教委員長などの要職にあった八木徹雄、自民党文教制度調査会長灘尾弘古、大蔵省主税局長塩崎潤らも中央地方をつなぐ作戦の衝に当たった。同年四月、県の機構改革で誘致事務は衛生部を離れて特別開発事業本部(本部長・光宗開真)に属する医科大学誘致推進班(のち医学部設置班)に移管された。六月、愛媛大学医学部設置期成同盟会(会長・白石県知事)が結成され、官民協力して三~四億円目標の募金運動を実施、短期間に目標を達成するに至ったが、この
結成当日、候補地に温泉郡重信町志津川地区の名が初めて明らかにされた。この前後、熊谷愛媛大学学長の急死に伴う芦田譲治学長の就任、八木衆議院文教委員長及び参議院議員村上孝太郎の死去、高見文部大臣の新任など直接誘致にかかわる中枢人事の激変があり、誘致への影響を危ぶむ声もあったが、本県は第一期三校創設の路線を辛くもとらえることができた。
 重信町の用地買収は、町長高須賀治利の努力で県が一九万平方メートルを約六億六、〇〇〇万円(造成費など含め八億二、〇〇〇万円)で四六年末に契約、これを背景として四七年度国の予算編成では優位に立ち、他の有力県を尻目に四七年一月山形、北海道と並んで愛媛県は三校創設準備費三、〇〇〇万円の枠を確得した。愛大医学部はここで記念すべき産ぶ声をあげたといえよう。四八年九月、医学部開設が正式決定し、医学部長に大阪大学教授須田正巳が発令された。愛大医学部設置協力会も発足し、県は一九万平方メートルの県有地を一応国へ貸し付けの形式をとり(のち国が買収)、九〇戸の教官住宅を建設して提供するなど開校準備が進められた。翌四八年一〇月、第一回入学試験(定数一〇〇人)を実施、一一月には第一期生の入学を迎える急ピッチの作業が続いた。
 昭和四七年一〇月、松山市堀之内の旧県立衛生研究所建物を改修し、医学部暫定研究施設として利用、四八年三月、重信町で新校舎など教育施設(延約三万三、〇〇〇平方メートル)の起工式が行われ、続いて翌四九年、附属病院など(延約四万三、〇〇〇平方メートル)の工事が着工された。教育・研究施設の建物約四六億円、機器類を合わせ六六億円を超える建設費が投入され、医師養成と医療実務の殿堂が五〇年ころには完成に近い姿を見せた。中でも地域の渇望久しかった附属病院は、県立中央病院と松山日赤病院を関連病院として五一年一〇月診療を開始した。同病院は教授三二人を含め、教官二三二人、医療技術職員六二人、看護婦二九七人、事務職員二二〇人計八一一人(昭和六〇年)の陣容で教育研究と高度医療を支えている。
 一方、県下の医師数は昭和五〇年以降地域医療充実への努力の成果があって漸増を見せ、五五年には人口一〇万人当たり一三一・三人となり、全国順位も二〇位とほぼ全国平均並みとなった。辺地医療も自治医大卒業者の定着もあって、五三年無医地区は四三か所程度に減少し、無歯科医地区一一八か所の存在に問題を残すものの、医師不足は改善の兆しを示しつっある。しかし、依然として市部と郡部との格差は容易に縮まらず、全国的な医師
の需給事情もあって、愛大医学部は当初定数一〇〇人を五四年には一二〇人に増員した。その後、六〇年には再び一〇〇人に逆戻りしたが、発足当初の八講座から三一講座に充実、五四年には大学院医学研究科=博士コース(定数三〇人)も新設、附属動物施設・実験実習機器センターも併せて設置されている。

 南予水資源開発

県内の水不足は永い間の懸案であり、特に急傾斜地が多く地形分断型の南予は蓄水力も乏しく、常に生活・農業用水の不足に悩んできたが、経済基盤の果樹地帯を抱えて四二年夏の大干害は一層危機感を強めた。この南予水資源対策として建設省・農林省・県などの調査結果を総合して四五年肱川総合開発を主軸とする南予水資源開発計画が策定された。これに岩松川、須賀川、僧都川などの諸水系を併せて開発するとともに、野村ダムは建設省直轄事業、導水路は農林省の土地改良事業、その他は県営事業として実施していくこととなった。この事業は、佐田岬半島から南は南宇和郡西海町に至る宇和海沿岸地域の上水道と農業用水を確保し、生活環境と農業基盤の強化を一挙に実現しようとする画期的な大事業で、県政推進三本柱の一つとして登場した。
 四六年発足早々の白石県政は、高度成長下のマイナス格差に低迷する南予に対する抜本的開発の緊要度を痛感し、諸政策を南予に集中志向していたが、南予水資源対策はそのうち最大で、しかも壮大なプロジェクトであり、かつ対中央、対県交渉のみならず県内でも水利関係の調整には強大な政治力を必要とした。南予の悲願の実現を期し、高橋英吉、毛利松平、今井勇、西田司ら県選出衆参両院議員は一丸となって政官界へ働きかけた。加えて、白石知事は県議以来銅山川・仁淀川分水交渉の場数を踏んだ水問題のベテランで、在任中に八つの多目的ダムを完成し、これによりその大半を占める南予水資源開発事業は大きく前進した。特に中核の野村ダムは規模の大きさから見て難航が予想され、実施設計調査から完成まで二〇年程度かかるのが全国的常識であったが、四九年三月水没被害者への補償基準を指示して、同年一二月末日には協定仮調印に持ち込み、実質補償交渉期間を九か月半で処理し、工期を予定半分の一〇年で竣工するという早さで完成させた。各ダムは昭和五〇年代に着々と工事が進み、五一年須賀川ダム(須賀川水系)、五四年大久保山ダム(僧都川水系)、五五年山財ダム(岩松川水系)、五七年には画竜点晴としての野村ダム(肱川水系)が完成し、幹線水路も逐年並行して建設が進められた。須賀川ダムは五一年五月から宇和島市の上水道供給の主役となって、南予水資源開発事業第一号の名乗りをあげ、大久保山ダム、山財ダムも一部供給を開始し南予の水不足は一歩一歩と解消の方向をたどり始めた。
 しかし、要となった渡川は年間流量三八億トンで、広見川など本県内支流から約四億トンが流入しており、渡川からの県水源分の確保を期待して南予水資源構想が樹てられていたが、高知県側のガードは固く中内知事時代に入っても大きな進捗を見ていない。

図3-11 本州四国連絡橋図

図3-11 本州四国連絡橋図