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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 交通開発

 松山空港ジェット機就航

松山空港は旧日本海軍の航空基地跡にあり、戦後、連合国軍に接収されて、英連邦軍の小型機用連絡飛行場として使用されていたが、対日平和条約の発効に伴い昭和二七年七月接収解除となった。
 民間航空事業の復活に伴って、民間空港設置促進会、協力会の活動もあり、愛媛県、松山市が協力して滑走路の補修を行い、昭和三一年三月、極東航空㈱(現在の全日空)により松山・大阪間に不定期便DHタブ機(九人乗り)が初就航した。県では、引き続いて三二年度から公有水面を埋め立て二〇〇メートルの滑走路延長に着手した。一方、運輸省では第二種F級飛行場とする方針のもとに三二年度から三か年計画で滑走路・誘導路を整備するとともに、通信照明施設の設置、航空局松山空港事務所建設に着工し、三四年に整備を完了した。三五年三月、空港ターミナルビルが落成、滑走路、誘導路及びエプロンを含む空港用地約三六万平方メートルが四国財務局より運輸省へ所管替えとなり、昭和三五年一〇月、空港整備法による第二種空港として供用開始された。
 航空機の利用状況は、経済の進展及び生活の向上とともに三一年の乗降客数三、一一七人から三五年には七倍の二万一、八一五人に達した。四〇年には八〇倍の二四万七、四五四人と大きく飛躍し、この間、使用機もヘロン機(一六人乗り)、DC3型機(三〇人乗り)、フレンドシップ機(四〇人乗り)、コンベアー240機(四〇人乗り)と大型化し、四〇年には国産花形機YSー11オリンピア機(六〇人乗り)が就航した。
 高度経済成長期に入って航空機利用の増加傾向が一層強まり、その対応として航空機の大型化、スピードアップを図ることが必要となった。県市町村の要請に応じ、運輸省は三九年度を初年度とする空港整備五か年計画を策定、滑走路を一、二〇〇メートルに延長し、関連諸施設の整備を行い第二種C級空港とすることとして着工した。昭和四一年までに用地一一万平方メートルを取得、滑走路幅三〇メートルを四五メートルに拡幅して、誘導路・エプロンなどを施工した。
四一年一一月、全日空YS―11型機の墜落事故が発生、その惨事の衝撃によりあらためて空港の安全性が政治の緊急課題となり、運輸省は国内第二種空港一七か所のうち松山空港など五空港について、四二年度を初年度とする空港整備五か年計画を決定し、航空機の計器発着を可能とする各種の無線・照明などの保安施設が充実されることとなった。
 空港用地造成は滑走路を海側三五〇メートル、陸側四五〇メートル拡張のため埋立並びに整地を行うもので、四三年度末に漁業補償が解決して、護岸工事に着工、四五年度には埋立を完了し、海側の滑走路三五〇メートルが新設された。一方、陸地部の用地買収は四五年度ほぼ買収を終え、四六年度には滑走路四五〇メートルが新設されて二、〇〇〇メートルの滑走路が完成した。
 この間、県では予算陳情、補償問題をめぐる国・関係者との調整及び資金対策、周辺地域の環境整備対策などの空港整備促進に努めた。誘導路・エプロンの新設、保安施設・関連施設の整備を終え、四七年四月、二、〇〇〇メートルの滑走路が供用開始された。近代空港としてB737型ジェット機が就航し、全国で六番目、四国初のジェット機就航空港として交通開発に画期的な基盤づくりを成し遂げた。

 道路・港湾の整備

 [道路の整備] 愛媛県の道路は国・県道合わせて二二三路線、実延長三、四四〇・五キロメートルあり、道路普及率は一平方キロメートル当たり六〇八メートル、人口千人当たり二・四キロメートルと比較的高率を示しているものの、地形、地質条件、利用度から整備率は低く、昭和四五年三月末で改良率二四・八%、舗装率四一・五%で全国水準を下回っていた。県下幹線の国・県道は昭和四二年から五一年まで第五~第七次道路整備五か年計画により鋭意整備が図られ、国道一言万・三三号は四三年度末で改良・舗装率ともほぼ一〇〇%に達し、五六号は四七年度で一次改築が完了した。また国道一九二号・一九六号は四八年度でそれぞれ概成、四九年度末の国道改良率は四四・二%、舗装率は九五・七%に達したが、国・県道全体では改良率三〇・六%、舗装率七七・一%で、急峻な地形、地質に起因して改良率の伸びは遅々とした状況であった。
 県では、このような道路の整備促進のため県単独事業で補完することとし、舗装率八二%達成を目標に、四五年度から三か年計画をもって国庫補助導入のため舗装促進事業を実施した。また、交通安全対策として四六年度から六〇年度まで第一~第三次五か年計画をもって安全施設整備に努める一方、交通事故防止対策事業が四七年度から四か年計画で実施され、さらに市町村道の整備促進のため舗装整備資金貸付事業並びに低開発地域改良事業などが実施された。
 昭和五二年「三全総」に基づく定住構想に沿って第八次五か年計画が定められ、計画目標も交通安全の確保、生活基盤の整備、生活環境の改善など、地域生活安定に基調をおいた整備方向へ移行した。また、余暇活動の活発化に応じ、観光開発として四〇年石鎚スカイラインに着工、四五年九月供用開始し、続いて西海有料道路、東予有料道路を四八年度から着工、それぞれ五一年、五三年に完成を見た。四四年、新たに国道に昇格した三一七号(今治―尾道)では島内道路の改良を進める一方、瀬戸内海大橋架橋が促進され、四八年には工事実施計画の認可、五〇年には一ルート三橋架橋の建設方針も定まり、同年一二月大三島橋に着工した。大三島橋は五四年三月完工、五月に供用開始され、念願であった二島陸続きの夢が実現した。続いて五六年三月、伯方・大島大橋に着工、着々と工事が進められた。
 国土幹線、四国開発幹線自動車道は昭和四五年六月、縦貫自動車道、川之江―小松間、横断自動車道、豊浜-土居間の基本計画が決定され、五一年、五二年にはそれぞれ路線発表区間となって工事が進捗し、昭和五九年短区間ではあるが供用開始され、四国初の高速自動車道が開通した。
 昭和四四年開通した国道九・四フェリー(佐賀関-三崎間)に関連し、国道一九七号の佐田岬半島新ルート(頂上線)が四五年に着工、鋭意工事が進められ、昭和六二年一二月に完成を見た。県下の自動車保有台数は、四九年には三四万台、三一年の一四倍に達し、県下の幹線道路、都市近郊道路では混雑度が逐年著しくなり、交通渋滞、事故の急増解消への抜本的対策としてバイパス道路の計画が樹立された。昭和四一年から国道三三号・松山道路建設を最初に、翌四二年には伊予道路と各地でバイパス建設が着工された。こうして最盛期の昭和五一年時には県下一三か所で国道バイパス工事が施行され、松山など国道周辺の県下主要地域に縦横連環したバイパス道路に沿ってレストランなどモダンな建物が建ち並び、また大三島では架橋建設に合わせ、観光レクリエーション、交通安全対策として大三島-上浦間に大規模自転車道を建設することとし、五〇年に着工、昭和五八年完成を見た。
 [港湾の整備] 愛媛県下五五の港湾は、その約五〇%が島しょ港湾であり、うち二五港が県管理、二九港が市町村管理、一港が港務局管理となっている。数多い島しょ部港湾、港湾経済圏の小規模な陸域港湾など多種多様な機能をもつ諸港湾によって県下海上運輸のネットワークが形成されてきた。社会経済の進展に伴い輸送手段、輸送体系の変革の時代を迎えて、地域の交通体系、経済進展の状況、経済圏などの諸条件に対応しうるよう、近代的港湾への整備が必要となった。第五次五か年計画(昭和五一~五五年)の目標は海陸輸送の進展、流通合理化、航路、港域の安全確保に加えて公害防除、海洋性レクリエーションへの対応も含められており、県下の港湾についても各港の特質に応じて整備が進められた。
 開発港湾として整備を進めてきた三島港及び川之江港は、紙産業の発展とともに、市域を超えた産業圏の形成が進み、企業合理化、船舶の大型化、輸送量増大への対応のため、両港を一体として、港湾整備を図ることとし、四五年両港を合併、四六年には重要港湾の指定を受けた。四七年、ふ頭、防波堤など諸施設計画、環境改善を兼ねた海底汚泥除去を合わせた土地造成を目途に三島・川之江港湾計画を立て整備を進めてきた。その後、五三年には水質汚濁防止法、瀬戸内海環境保全臨時措置法などによる排水規制と産業廃棄物処理、住工分離による都市再開発、ふ頭再開発と大型化への対応など諸条件を考慮して規模を拡大し、レクリエーション施設、港湾環境への配慮も加え港湾計画を改めた。
 また松山港は、四七年輸送体系の変革と松山圏域の産業活動の進展に合わせたふ頭計画、木材港計画、工業用地造成計画などを中心とする計画の改定・補完を行い、積極的な整備の展開を図ってきた。宇和島港においても南予の発展に対応するべく、地方生活経済圏構想、南予レクリエーション都市構想に基づく拠点基地港として、新ふ頭計画、港湾関連用地、都市再開発用地造成計画など港域拡大と港勢拡張などを内容とする港湾計画を四八年決定、逐次整備が進められた。