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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 県際関係

 宿毛湾入漁問題(大海区制時代へ)

昭和三一年以降イワシの不漁が続き、昭和三一~三六年の漁獲高は三〇年の半分にも達しなかった。このため、愛媛・高知両県ともイワシまき網業者の倒産、廃業が増え、新しい漁場を求めて三四年ころから高知県の大当灘漁場(土佐清水市)への越境違反操業が続出していた。高知県側ではこれに態度を硬化させ、三五年土予連合海区調整委員会でも協定締結を拒絶し続けていたが、瀬戸内海漁業調整事務局の斡旋で三六年ようやく協定が成立した。主旨として、「漁区問題は双方凍結し、違反防止対策に絞られ、業者はあらかじめ所属漁協へ廃業届を提出しておき、違反があった場合漁協が県へ廃業手続を代行する。」という厳しい取り決めを行った。
 昭和四〇年ころから協定更新に影響する「大海区制」問題が登場してきた。これは三七年九月漁業法改正によるもので、従来の大臣許可制を改め、新しい指定漁業制度の創設によって四〇トン以上の漁船によるまき網漁業や一五トン以上の漁船による沖合底びき網漁業が新たに大臣許可制となったのである。このため宿毛湾入漁の四〇トン以上の漁船も知事から大臣許可制に移管され、監督処分権も大臣権限となった。改正漁業法が大臣許可制の枠を広げて大規模高能率の漁業を国の管轄としたことは、地元漁協の話し合いを前提に、大海区制による効率的な近代漁業の確立を志向したものであるが、その後の入漁協定をめぐる争点の重要問題ともなってきた。
 本県としては大規模で技術装備ともに優れた漁業者が多く、漁労実力に見合う漁場確保のためにも大海区制は歓迎であったが、高知県は愛媛県漁船の自由操業は沿岸漁民に致命傷を与えるとして大海区制絶対反対の立場をとった。

図3-10「宿毛湾入漁協定関係図」の数字は、以下の年における漁業調整線を示すものである。
①明治一二年~四四年、②③昭和四年~二四年、④③昭和二五年~二七年、⑤③昭和二七年~二九年、
①②③④⑥昭和三〇年~三一年、①⑧④昭和三二年~三四年、①⑧⑨昭和四〇年~四三年、
①⑧⑨⑩⑪昭和四四年~四六年、①⑧⑨⑩⑪昭和五三年~五四年(沖ノ瀬を除く)。
①⑥⑧⑨昭和五五年~五七年。

 宿毛湾入漁問題は三八年三月末の協定期限切れ前に本県違反漁業の摘発が多発、三九年にはこれに関連して土佐清水市の一本釣漁民が違反船を焼き打ちする事件で交渉頓挫のまま、その後三年以上も無協約時代が続いた。ところが宿毛湾の網漁民から死活にかかわる宇和海入漁を望んで、早急な入漁協定締結の陳情が高知県知事に行われたので両県は交渉を再開した。四〇年八月両県知事間で「宿毛湾・宇和海の操業協定書」が成立、四一年一月本協定の調印及び取り締り体制強化や連絡緊密化の申し合わせ文書も手交された。
 しかし違反操業は跡を絶たず、四三年暫定協定は結んだが本協定に至らず、ついに愛媛県は水産庁長官に調停を依頼した。四四年淡路島で両県に対して水産庁が本格的調停のすえ白紙委任状を取り付け、三月四日両県知事調印という段階に至って、前日の三日土佐清水市一本釣漁民五〇〇人が高知県庁前で入漁協定反対を叫び、そのため調印延期となった。昭和四四年四月高知県の県内事情も鎮静化し、東京で両県知事出席のもとに「両県海域における漁業調整上の境界に関する協定書」、「高知県と愛媛県との入漁に関する協定書」、「入漁協力金に関する契約書」の三部からなる新協定の調印が行われた。この協定後、違反操業はほとんど無く円満な入漁関係が保たれ、両県の長い漁業紛争の歴史の中では初めてともいえる秩序と平穏が続いた。その意味でこの四四年協定の持った意味は大きい。
 この協定で従来と異なる点は、愛媛県漁船の入漁海域が拡張され、本県漁民の多年の宿願であった沖の瀬漁場への入漁が認められたこと。これは浮遊魚に対する国の大海区制の方針に沿うものであった。第二には入漁総数について高知県側は従前の通りであるが、愛媛県側は二〇統以内(ただし沖の瀬入漁は八月から一一月末まで大中型一四統・中型二統のまき網漁業)に減統されたこと。これは海域拡張による本県の有利性を統数減でバランスを図ったものであった。第三には新たに「協力金」制度を創設したことで、協定書では高知県沿岸漁業振興に関する協力金としている。

 銅山川分水問題

昭和二六年(一九五一)三月、吉野川からの銅山川分水協定が成立し、これにより柳瀬ダムが二八年完成、宇摩平野一、七〇〇ヘクタールのかんがい用水と、最大出力一万三、三〇〇キロワットの発電に併せて上水道用水一万トン及び、工業用水七万二、〇〇〇トンが供給されていた。その後、銅山川分水は協定に基づき平穏に行われていたが、昭和三一年一二月、愛媛県が協定分水量を超えて取水していると徳島県から抗議があった。
 県では三三年六月、県議会に、超党派で銅山川対策委員会を設置して、この問題解決に対処するとともに、同年七月、戒田副知事が井原岸高県議、岡本嵩県議と共に徳島県庁を訪ね、補償金三〇〇万円を持参、遺憾の意を示した。
 これより先三三年二月、愛媛・徳島両県知事、議長間で徳島会談が持たれ、その後高松、鳴戸で会談を重ねてきたが、同年六月、愛媛・徳島両県議長会を鳴門で開催、山崎中・四国地方建設局長の斡旋により協定改定の了解に達したのである。その内容は、①農業水利補給水については六月三〇日のダム貯水位を海抜二七五メートル以上とするよう操作することを条件として繰り越し使用を認める、②異常渇水により六月三〇日の時点で二七五メートルの水位に達しない場合には中・四国地方建設局・徳島県・愛媛県三者協議の上決定する、③銅山川第一発電所の取水塔は建設省に管理委託する、④一〇月末に補償額として二、二〇〇万円の補償金を徳島県に支払う、というものであった。
 昭和三三年一〇月一日、銅山川第五次分水協定の正式調印が高松市において行われた。本県からは久松知事・白石県議会議長、徳島県からは原知事・久次米県議会議長、あっせん者として山崎中・四国地方建設局長、約四〇人が出席した。徳島県からすでに「銅山川の水は両県の実情に即して有効に使いうる」と意志表明がなされており、久松知事は「徳島が好意的で共存共栄の趣旨に沿った改定が実現し、感謝の一語につきる。」白石議長は「県議会が超党派で当ったのが原動力になったのを感謝している。」原徳島県知事は「途中困難な事態があったが愛媛県の理解と中・四国地建の協力で公平な協定が実現したのはうれしい」とそれぞれあいさつ、和やかなうちに新協定が成立した。この分水交渉には多くの困難な問題をかかえていたが関係者の努力が実り、足かけ三年ぶりの解決であった。
 協定の内容は、両県にとって大きくプラスになるもので、①吉野川岩津地点(徳島県)の水位が一定限度以上あれば、愛媛県で銅山川の水を柳瀬ダムに貯留しながら徳島県へ調整放流ができる。②このため、柳瀬ダムの貯水量は旧協定より年間一、五〇〇万トン増量される、③銅山川第一発電所では最大使用水量まで使えることになるので発電機能が十分に発揮できる。④本県が絶対確保を主張していた農業用水四〇〇万トンについては繰り越し使用ができるというものであった。

図3-10 宿毛湾入漁協定関係図

図3-10 宿毛湾入漁協定関係図