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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 主要選挙の動向

 知事・県議会議員選挙(昭和三四・三八・四二年)

昭和三〇年に始まった第二次久松県政は、副知事制度の復活や財政再建、勤評の嵐をくぐり抜け高度成長への基盤づくりを進めていった。
 三四年一月早々戦後第四回目の知事選挙告示、この年寒波厳しく、降りしきる大雪のため候補者や運動員の運動は難渋を極めた。それでも投票日は全県的な好天気に恵まれ、投票率も前回を上回る七五・七%、一五万八、〇〇〇余票の差をもって久松候補の大勝が決定した。
 知事選挙に引き続き、四月には県議会議員の選挙が行われた。立候補者数九〇人、定数五三人、当選者は新旧別にみると現三二、元五、新一六、党派別(当選時)では自民三九、社会七、中正クラブ三、無所属四であった。
 三五年に入ると、県政界もただならぬ様相を呈してくる。自民同志会の結成から議長問題をめぐる紛糾、やがてそれは県議団による「久松県政推進連盟」(自民党)と「県政刷新県民の会」(自民同志会)の結成となって対立し、前者は久松知事を、後者は平田陽一郎を推して三八年知事選挙にもつれ込むこととなった。
 知事選挙は三八年の元旦告示され、連日の厳しい寒さと一〇年ぶりといわれた豪雪で、とりわけ南予や山間部では積雪深く、投票日の天候が懸念された。選挙運動は熾烈を極め、両者の当落は全く予測し難かった。
 一月二六日の投票日、県下一円はどんよりした天気で粉雪がちらっき、南予方面は雪、午前九時現在の速報が入ると、投票率は九・七%と前回より八%余り低い。このまま推移すれば投票率は六〇%を割る。報道関係者は色めきたった。午後、選挙人の出足は回復し最終的には七五・三八%と、ほぼ前回並の線までたどり着いたが、開票が始まると両候補の票は近接し、手に汗握る接戦が展開された。
 後年、久松元知事はこの時の模様について「開票の時は、松山で平田さんの票が相当出て、一時は僕が負けかけた。向こうも勝ったと思ったぐらいの接戦だった。」と語っている。
開票結果は四、四一二票の差で久松候補の当選と決まった。
 次いで四月に行われた県議会議員選挙は、保守分裂の後をうけて無所属で立候補したものが多く、当選者の政党別区分では自民二七、社会八、民社二、公明政治連盟一、無所属一五となっていた。
 四二年の知事選挙も一月元旦に告示、久松・湯山二人による保革対決の形で争われることとなった。久松陣営では経済、人間、社会開発を政策の三本柱として五選確保に立ち上がり、湯山陣営では県民のための行政推進を旗印に激しい選挙戦を展開した。
 選挙は一月二六日衆議院議員との同日選挙として行われたため、八一・四%という高い投票率を示し、九万七、〇〇〇余票の大差で久松当選と決定した。
 四月には県議会議員選挙執行、当選者は自民三三、社会八、民社三、公明二、共産一、無所属五で、県議会に共産党がこの選挙で初めて議席を持つこととなった。

 衆・参両院議員選挙

昭和三五年、安保改定の騒然たる後を引き受けた第一次池田内閣は、寛容と忍耐、所得倍増を政策目標に掲げて衆議院を解散、一一月二〇日総選挙が行われた。
 結果は自民、社会の議席増、民社の完敗(二三議席減)という形に終った。本県でも民社候補は落選、自民七、社会二が当選している。
 この後衆議院議員総選挙は、昭和三八年・四二年・四四年と行われているが、三八年選挙では特例法を制定して投票時間を午後八時まで延長したにもかかわらず、投票率は前回を下回り、政治的無関心下の選挙と評された。もっとも、本県の場合はその例外で、投票率は全国平均を九%も上回った。しかし、時代の風は革新に順風、保守には逆風で、保守は選挙前確保していた八議席のうち、三を失うという結果になった。
 四二年の総選挙は「黒い霧解散」によるもので、公明党が二五議席を獲得して衆議院に進出、民社も七議席増、「多党化時代」の幕開けといわれた。そうした反面、県では社会党が敗れて三つの選挙区すべてから姿を消し、次の四四年総選挙まで本県社会党からは衆・参両院に一名の代表も出ていないという事態が生じた。三八年選挙の順風が今度は逆風に変わったのである。
 次の四四年総選挙は、アメリカから沖縄返還の意向を取り付けた第二次佐藤内閣が、「七〇年代の選択」をかけて国民に信を問うたものである。一二月二七日投票、「師走選挙」ということもあってか投票率は低下した。
 開票結果は自民党の大勝で、公明党も二五から四七議席へ躍進、一方、社会党は一挙に五〇議席を失うという惨敗ぶりであった。もっとも、本県では社会党が二議席を回復したが、これは保革の有権者数から見て通常の姿に戻ったものといえよう。
 次に、もう一つの国政選挙である参議院議員通常選挙は、この間昭和三四年・三七年・四〇年・四三年と四回行われているが、本県「地方区」についてみると、いずれも保守候補が当選している。社会党では四〇年の「地方区」選挙に婦人候補を立てて婦人票を獲得、態勢の挽回を図ろうとしたがその期待は外れ、六万二、〇〇〇余りの票差で保守の厚い壁はついに破れなかった。