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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 格差の拡大と辺地対策

 所得・地域の格差

 昭和四〇年代に入り、県経済は工業化の進展を軸に国を上回る成長を見せ、四四年の成長率一九%(国一八%)、県民一人当たり個人所得は四一万円で、全国的には二四位と中位に位置した。四六年には成長率二〇%(国一八%)と急速な成長を続け、県経済の規模は四〇年の二・三倍となった。
 四六年には県民一人当り個人所得は五三万円と遂に五〇万円台を超え、国民所得六二万円の八五%と格差はさらに縮少して、このまま進めば中進県からの脱皮も遠くないと思われた。
 この県全体での経済向上にもかかわらず、昭和四五年の県長期計画によると県外大都市圏への産業・人口の集中及び県内での東中予の工業化・都市化の吸引力によって、農山漁村・離島など低生産地域では若年労働力を主体に人口の急速な減少が続いた。県内でも市部人口の増加が目立ち、県内人口比では三五年の五六%から四五年以後六二%を超え、四八年には六六%に達した。市部では宇和島、八幡浜、大洲の三市は減少が続いたが、他の八市は共に増え、特に松山、今治では著しく増加した。
 四六年には郡部の人口減少七、〇〇〇人のうち南予が四、四〇〇人を占め、所得格差、地域格差の波及が歴然となった。全般的な経済の向上は見られたが、工業化の進展を主力とする都市地区の予想以上の高い経済成長に追随できず、相対的に低い水準に停滞を余儀なくされる地域や所得層の存在が浮き彫りにされた。
 表3~41(一人当たり市町村民分配所得水準)図3~9(県平均に対する分配所得水準格差)によれば、分配所得水準格差では四〇年代の地域間格差は拡大し、特に宇和島圏、八幡浜・大洲圏は低落、取り残された状態が目立つが、五〇年代には新居浜・西条圏や今治圏の低落に対し堅調に上昇し格差は縮小した。地域間格差の最大時点は四四年の新居浜・西条圏一二二・四に対し宇和島圏七三・二で四九ポイントと成長時の大きな格差の存在が明らかであったが、五六年には手堅く成長した宇摩圏の一〇六・三に対し八幡浜・大洲圏八五・三と格差は二一ポイントと大幅に縮小した。
 このようにマクロ的には東中南予地域間、ミクロ的には山間離島など成長の余恵の極めて薄い地域間との所得格差、地域格差が成長期に著しく突出して現れた。格差是正は大きな政治課題となり、国の諸施策とも併行重複して、県でも離島、低開発、山村振興、辺地対策などの施策が講じられることとなった。

 離島振興

 昭和二五年制定の国土総合開発法に基づき、本県の「四国西南」を含む全国二二の特定地域が指定された。これに含まれた離島すなわち対島・隠岐などの地域振興に託した大きな期待に反して、特定地域総合開発は国家経済の自立達成が主眼であり、離島地域固有の地理的隔絶のもたらす後進性からの脱却という社会開発を内包した総合開発への熱望とはかけはなれた制度にとどまった。ここに離島振興単独立法化の動きがにわかに活発化した。離島地域を抱える府県及び離島市町村の全国組織は法制化へ強力な結集を示し、昭和二八年議員提案による離島振興法の制定へこぎつけた。この法律を突破口に格差是正をめざす国の各種地域政策の代表的存在として、離島振興は飛び抜けた強さと伸張ぶりを示した。離島地域について実施される公共事業は、まず港湾、漁港の整備から出発し、島民の経済・生活に直結する交通条件の改善整備、災害防除や国土保全、農漁業の振興、電気導入や上下水道の設置、保育所や集会施設まで生活基盤の整備なども飛躍的に進められることとなった。例えば松山市釣島への定期船就航や電気導入、新居浜市大島への海底導管による水道設置、魚島村の果樹振興、電気導入など島の経済や生活を画然と一変させる離島事業も少なくなかった。
 本県における離島振興法の適用は、二九年嘉島、戸島、日振島と孤立性の強い小島に始まり、三二年に中島諸島、三四年には弓削、関前、上島諸島など越智諸島の小島、三六年に今治の小島、松山市釣島、新居浜市大島など都市部の離島も指定された。三九年には大三島など越智諸島中核の三大島に及び、一九町村一〇地域有人島三五、無人島七八が適用を受けた。本県の全国離島県での位置づけは、有人島数では長崎県に次いで二位、無人島を含む面積では七位、人口は六万二、〇〇〇人(五七年)で全国四位と上位にランクされている離島雄県といえる。こうした諸施策の集中実施にかかわらず、島をめぐる情勢は厳しく一九町村のうち九町村は過疎地域で、若年層の流出が著しく、高齢者人口比は一七%を上回るとみられる。三三年離島市町村による県離島振興協議会、三八年その別動隊としての離島青年協議会がそれぞれ結成され、共に全国組織の有力メンバーとして離島振興に着実強力な運動を続けた。その成果で、離島振興法は一〇年の時限をはるかに超え、三七年と四七年にそれぞれ一〇年間の再々延長が行われた。さらに五七年には六七年までの三度目の延長が実現し、長期継続して離島振興事業が進められた。
 昭和二八~五七年までの本県の離島関係公共事業費は、交通体系整備二九一億円、産業振興・基盤整備三四〇億円、国土保全施設整備二八五億円、社会生活環境整備七三億円と総額ほぼ一、〇〇〇億円に達し、高率補助による離島の経済・生活の向上に集中し、地域開発諸施策の中で最大の投資が行われた実績を示している。
 また、離島航路の維持及び改善のため離島航路整備法が昭和二七年に制定された。本県では三五の定期航路のうち魚島―弓削、関前―今治、安居島―北条、青島―長浜、大島―八幡浜、日振島―宇和島、中島諸島―三津浜など一〇航路が指定を受け、運営欠損補てんとして国県市町村合わせて年額三億円以上の助成が行われた。そのほか、島内における住民の足を確保するため、地方バス路線維持に対する助成が大島、伯方島、大三島などの越智諸島や中島にも適用されている。
 離島振興の集会、交流、研修の現地拠点ともなる離島開発総合センターの設置は五五年関前島に始まり、大島諸島(吉海町)、生名、弓削、八幡浜市大島と進み、大三島、中島、岩城島などに逐次建設された。

 山村振興

 生産基盤や生活環境施設が低位にある山村の経済力培養と住民福祉の向上を期し、昭和四〇年山村振興法が制定された。この法で言う「山村」の定義は、林野率七五%以上、一町歩当たり人口一・一六人以下の基準であり、県下七二市町村の中三三町村が当てはまる。このうち「振興町村」としてまず柳谷、松野、次いで美川、城川、一本松など逐次追加され、五七年、最終的には松山・西条両市を含む二七市町村が事業実施の地区選定を受けた。
 産業基盤整備、経営近代化、生活基盤強化などを主眼に、特に公共投資のような大型事業に適さない地域的な小規模事業は、山村振興農林漁業特別開発事業としてメニュー方式で実施された。第一期対策事業(昭和四○~四七年)で一四二億円、第二期対策事業(昭和四七~五四年)で一五六億円の事業が行われてきた。しかし人口・産業・生活環境・町村財政力の弱化など山村にまつわる問題をふまえて、第三期対策事業には生産と生活の両面の定住条件整備を進め、人口の定着化を図っていくことが基本目標となり、①活力ある人づくり、②個性ある村づくり、③魅力ある環境づくりをテーマに取り組んでいる。
 四六年、集中的なモデル事業として山村開発拠点施設整備事業費約一億円を投じて城川町に建設された山村開発センターは、経営、生活改善、集会交流の拠点としてボーリング遊戯施設まで備えたデラックスな斬新さで人々の目を驚かせた。この建物や施設にユニークな新時代の山村の夜明けを実感した人も少なくない。

 辺地対策

 経済成長下に取り残されつつある後進地域対策としては、いわゆる辺地法(辺地に係る公共的施設の総合整備のための財政上の特別措置等に関する法律)が昭和三七年に制定された。この法律で辺地の定義は、「市町村の区域内の町、字又は、相互に接する二以上の町、字の区域が法定の辺地度の高い地域」とされ、その地域に対し「辺地債」を全額政府資金で充て、返還財源の八〇%を地方交付税の基準財政需要額に算入する特別の財政措置を行う制度であり、辺地町村の遅れた公共的施設の整備を促進する施策であった。
 本県においては三七年、魚島、小田、瀬戸、三崎、野村、城川の六町村・辺地八地域が適用され、三、二〇〇万円の辺地債が活用されたのをはじめ、六一年に至り五三町村・二〇七地域が辺地指定を受けた。昭和三七~四五年までに一〇億円、六一年までに一六二億円の辺地債が利用され、道路・渡船などの交通施設や通学の便を図る教育関連施設など切実な生活直結の辺地対策事業が講じられた。県下の適用地域は二三辺地を持つ野村町、九辺地の内子町など南予及び中予山間部が多いが、市部でも九辺地の大洲市、六辺地の北条市、五辺地の宇和島市を含め八市に及んでいる。

 低開発地域振興

 本県の山間地、離島、へき地のいわゆる低開発地域は自然的、経済的、文化的諸条件に恵まれず劣位の環境をかかえ、経済成長の余恵も薄く取り残されつっあった。県下六四町村の財政力指数平均以下、あるいは、へき地小・中学校の指定を受けた市町村の地域、指定離島地域がこの地域に該当した。これらの地域は、住民の生活に不可欠な公共的施設、産業経済基盤の整備も思うに任せないのが実態であった。
 昭和三六年、県は独自施策として低開発地域振興対策事業を制定、県民の生活や経済に直結したきめ細かい小規模事業の実施に県費一億円を予算計上した。補助金四、〇〇〇万円(上限三分の二補助)貸付金六、〇〇〇万円(無利子)の制度で、県議会も未開発地域対策特別委員会を設けて新施策に対応し、三七年には県の示した南予重点の社会開発の指向がこの制度を方向付けた。このような制度の県単事業は全国最初のもので、事業規模は数百万円程度の小さなものでも地域の要望する事業をとり上げれば活性化の起爆剤にもなり得るので、南予を中心に六四町村が競って制度を活用した。
 その一部を例示すると別子山村のスクールバス、魚島村の宿泊施設付きの農村共同集荷所、玉川町の鈍川保育所、広田村診療所の救急車、内子町村前地区の電気(動力線)導入、瀬戸町の簡易水道施設、吉田町の旧市街地下水道改修、広見町の通学道路補助、日吉村のポリ製ゴミ容器補助、宇和海村の農作業用索道補助や児童給食補助、津島町下灘の通学道路補助、御荘町の道路建設にからめたテレビ中継所設置、城辺町僧都の町内電話とセットの有線放送施設などがこの制度で実現した。国の辺地法の制定に先立つ独自の先行的施策であり、極めて効率性の高い県単独の施策であったといえよう。
 本事業は地域の要望に沿って事業規模を拡大して行ったが、四〇年制度改正により、新たに産業開発資金を設け、従来の補助事業、県道整備事業を合わせて、三本立てで低開発地域の振興を図ることとなった。
 三六~四五年までの補助・貸付合わせて事業費の四〇%は道路橋梁が占め、簡易上下水道が二三%、集会所が一三%、次いで保育所が七%となっている。四〇~四五年の貸付金でも道路橋梁と土地造成が六〇%を占め、三六~四五年までの総計では補助金一五億二、五〇〇万円、貸付金一〇億一、六〇〇万円に及んでいる。
 四七年、この事業は県単離島振興事業、県単過疎対策事業とともに特定地域振興対策事業に統合され、四八年に地域振興事業、コミュニティ整備事業、地域振興資金貸付金制度の中に組み入れられたが、県単事業
として国の制度と一体化した本格的な後進地域(過疎地域)への助成事業としての位置づけの創始は、この事業から確立されたといえよう。

 無灯火地区とテレビ難視聴地域対策

 昭和二〇年代多くの小離島では、自家発電による薄暗い夜間電灯が主であり、これを送電線につなげる動力線を含む昼間送電は長年の願望であった。離島振興事業費では電気導入は昭和三三~三七年に四、二〇〇万円、三八~四七年には一億一、〇〇〇万円を占め、入植地などへの農村電気導入事業と並んで相当規模の電気導入事業が図られてきた。このような事業の枠外に、電灯をはじめ全く電気の恩恵を受けないで小規模散在する無灯火地区の解消が民生面の課題となったのは三〇年代初めである。
 昭和三三年の調査では、無灯火地区は南予などを主に二四、戸数一九七、人口約九七〇人に上っていた。二七年ころから地方改善費も活用されてきたが、三三年このような地区の生活文化の向上を期し、県単事業として当面三か年計画で毎年一〇〇万円を計上、一本松町、五十崎町など年に数箇所程度の小規模導入事業を実施した。のち低開発地域振興及び過疎対策事業、「辺地法」の制度などに織り込まれ、極端な孤立地区を除いて無灯火地区はほぼ解消された。
 ラジオの難聴地域解消対策は従来官民の手で講じられてきたが、時代の潮流に乗ったテレビの普及が問題をさらに増幅した。本県のテレビ受像は、三二年五月NHK松山中央放送局の四国初放送に始まり、民放では三三年の南海放送、四四年の愛媛放送と続き、新たな情報、娯楽のメディア(媒体)として茶の間に入り込んだ。テレビは生活文化上の影響が大きく、難視聴地域対策が行政課題へ発展した。放送局側でも施設整備によって普及拡大を図ってきたが、分散された山がちの地形から電波障害が多く、他県の放送のみの受像地域が多数あった。
 この対策として、県は視聴地域の拡大のため市町村と共に共同受信施設(ミニサテライト)の設置助成を図ることとなり、四四年制定の県単過疎対策事業の中で「テレビ共同受信施設整備事業」としてとりあげ、五戸以上の共同受信施設設置の助成が実施された。同年二三件、事業費は約九五〇万円で、これに関連する八件の家庭電気導入費は七六〇万円にのぼり、全事業費五、○○○万円の中で大きい割合いを占め、四五年には五二件、事業費三、〇〇〇万円と倍増した。四六年には独立事業の「低開発地域テレビジョン難視聴対策事業費」として、事業費九、七〇〇万円、補助金三、九〇〇万円で積極的な促進を図ることとなり、全国的にも異色の対策事業であったが、翌四七年この制度は特定地域振興対策事業に再統合された。

表3-41 分配所得水準の推移

表3-41 分配所得水準の推移


図3-9 分配所得水準格差の推移

図3-9 分配所得水準格差の推移