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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 深刻化した環境問題

 過疎・過密

 昭和三〇年代後半から四〇年代半ば、我が国は有史以来の驚異的な経済成長を成しとげ、この短期間の工業化への突進は反面、公害の発生、環境破壊というマイナス面を引き起こした。本県でも東予新産業都市の中核である新居浜・西条を中心に、伊予三島・川之江、次いで松山と開発優先に走った地域が大気・水質・騒音などの公害に見舞われた。さらに大型の農水畜産業や激増する自動車群も発生源となり、農林地域も巻き込むレジャー産業の進出まで含めて公害汚染・環境破壊の勢いはほとんど全県下に広がり、環境保全への適切強力な対策が急務となった。加えて人口急増の都市を主として社会的資本や福祉面の立ち遅れが声高く叫ばれ始めた。
 このような成長のマイナス面を痛感した政府は、「高度成長のゆがみの是正」を掲げ、佐藤内閣では公害や環境保全への対応、社会資本の充実を内容とする「社会開発」が政治目標の前面に出てきた。
 昭和四五年の「公害国会」は、このような開発重視、経済優先への反省・総決算を迫る国民世論を反映したものであり、同年制定された過疎対策緊急措置法は開発時代の裏返し現象を象徴する対策であったといえる。過疎現象は特に本県では深刻を極め、離島町村一九のうち九町村は過疎で、県下の指定過疎町村は四一と全町村の過半を占めた。
 過疎町村では、町村民の伝統的な産業の維持や日常的な生活の継続にも支障をきたすほど人口の減少や老化が進み、一方では、局部的な繁栄を謳歌する過密の都市地域では、所得の向上に反比例して住居や生活環境の相対的劣悪化が著しく、「生活の質」が問われ始めた。県人口の県外流出は、四〇年前後の二万人台を頂点に四四年以後減少するが、成長期の経済のもたらしたゆがみは「社会的ひずみ現象」として尾を引いた。
 この危機に臨んで政府は、過疎対策緊急措置法に基づき地域の生活環境整備をはじめとする、全般的な緊急対策を国県市町村一体となって総合的かつ計画的に実施することにした。本県においては過疎地域に四一町村が指定され、山間辺地離島だけでなく内子・五十崎・保内・明浜・宇和・野村・吉田・広見の各町(のち宇和島市を含む)にも適用された。この適用市町村は、昭和三五~四〇年の人口減少率が一〇%以上、財政力指数〇・四以下で過疎債(四五年六億三、〇〇〇万円)の適用など財政的な特別措置を受けた。適用町村は県下全町村に対して面積比五四%、人口比一七%(五五年)に当たっており、引き続いて過疎地域振興特別措置法が昭和五五年に制定され、五〇~五三年間の人口減少率二〇%以上及び財政力指数などの諸条件を当て、本県では四〇市町村が該当した。なお四五年ころには、人口の減少は一応鈍化したが、働き盛りの若者の流出によって生産機能や生活水準の維持が困難となり、人口の急速な高齢化も新たな課題であり、これらに活力を呼び戻す諸施策が講じられた。
 県は、三三年から人口減少防止を主眼に産業基盤や生活環境の整備を図るため逐次補助、貸付事業を実施し、四〇~四五年の六年間に一六〇億円以上の県費を助成した。過疎地域振興の県計画では県道整備や、産業振興に力点が置かれ、市町村計画ではこれらに加えて生活、教育関連の施設整備が図られた。過疎地域の総合センターは国・県の助成で五四年明浜町、内海村を皮切りに、同趣旨のコミュニティセンターとして四七年、モデル的に久万町、次いで長浜町、日吉村、五十崎町、三間町などに設置を見ている。

 公害の発生と対策

 公害問題は、戦前には明治三七年操業の住友四阪島製錬所の煙害が越智・新居・周桑の各郡に及んだ歴史はあるが、県下一円では繊維産業が主体であったため、工場外の社会へ及ぼす公害は比較的軽小であった。
 ところが戦後、昭和三〇年代後半の高度成長期に、経済の伸びは重厚長大の量的ベースの拡大が基調となり、本県では特に新居浜拠点の重化学工業の密度は急上昇し、西条・松山などへの四国電力の大型火力発電所及び各工場に設けられた自家用火力発電所、川之江・三島地区の大製紙工場の出現、自動車の普及、農産加工や水産・畜産の大型化濃密化など、旺盛な産業活動と急激な都市化などの現象が自然の持つ浄化能力(環境受容能力)をはるかに超えて排出物を充満させ、生態系(エコシステム)を破壊する危険に襲われた。
 昭和二九年の東洋レーヨン廃液問題、三一年ころからの大王製紙など川之江・伊予三島工場群の廃液問題、三四年の住友化学廃液によるノリの補償問題に続いて三九年の丸善石油の公害補償など、この時期、瀬戸内海沿岸地区の企業による水質汚濁・大気汚染が大きな社会問題となった。これに対応するため、愛媛県は三八年二月、県公害対策連絡協議会を発足させ、三九年三月には特に松山臨海工業地帯の公害問題を協議するため、県公害対策協議会を設置するなど環境汚染問題に取り組んだ。また、昭和四〇年瀬戸内海環境保全知事会議(八府県・三六市)、四四年「瀬戸内海をきれいにする協議会」(一一府県)が発足し、広域的な環境保全対策が協議された。
 公害に関する苦情・陳情受理件数は、昭和四四年度全国で四万一、〇〇〇件、A級公害県では一、〇〇〇件以上、本県は半分以下の四一〇件で全国の約一%であった。地域的には松山を筆頭に川之江、西条、新居浜、今治の順で、五市が全体の七〇%を占めた。内容的には畜産が最も多く三〇%、次いで騒音、水質、大気、悪臭の順であって、本県の公害世論ぱやや特異な様相を見せた。
 昭和四一年、国の公害審議会では「公害の防除及び予防は一刻も猶予出来ない問題となった」と、従来局地的であった公害問題の広域化・深刻化を指摘し、これを受けて政府は環境基準及び法的規制、防止技術の開発などを目指した公害対策基本法を翌四二年に制定した。県では、四四年四月愛媛県公害防止条例を制定し、上乗せ基準の設定・法律に先んじた総量規制の導入・公害防止施設に対する融資制度の創設など、独自の内容を盛りこんだ公害対策の基本規定を定めた。
 そうした中で、昭和四二年から赤潮による魚介類のへい死現象が起こり、五八年までに一六〇件を数えた。さらに四五年ころからのヘドロ問題、四六、四七年の新居浜地区の光化学スモッグ発生、四七年からの松山空港周辺ジェット機騒音問題が次々と起こった。県は昭和四五年八月公害対策室を公害課に昇格させ、一〇月に県公害対策本部を発足、四七年には公害研究所を松山市に、東予公害監視センターを新居浜市に新設するなど、公害対策の本格的取り組みが続けられた。