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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 地場産業の進展

 近代化・成熟化する地場産業

 高度成長期の一五年間(昭和三〇~四五年)、県経済は基礎素材型重化学工業の拡大に支えられ、地場産業はその周辺に位するに過ぎなかったが、石油ショックによる様変わりで一般機械、農業用機械、造船などの組立加工産業、すなわち地場産業の相当部分が県経済の中枢に登場した。しかし、その期間は短く昭和五〇年代半ばには一転してマイナス成長産業に落ち込んだ。従来、農林水産業と並んで中小企業対策には国・県ともに格差是正や地域の均衡ある発展のため近代化、高度化をすすめる産業構造改善が推進されてきた。加えて素材型大企業の低迷から地域性の強い中小企業、多くは地場産業を地域経済振興の戦略的要に位置づけ、県市町村の重点施策として取り組むのは五〇年代後半以後のこととなる。
 地場産業とは、①地元資本による中小企業が地域集団化し、②地元産物又は労働、技術等経営資源を活用し、③加工業であり、④地域外需要をも企業目的とする業態で、広義には地域産業・伝統産業を含め地域の経済・文化に果たしてきた役割も併せて勘案するものと定義される。以下、地場産業の主なものを列挙する。

 〈機械・金属加工業〉

 新居浜及び西条地区を中心に東予市・丹原町を加えた三市一町では、住友各社の下請工業として育てられた鉄鋼、金属加工、機械の三業種、細別するとクレーン、化学機械装置、製かん、鉄構物、産業用又は農業用機械、銑鉄鋳物などが多種にわたり賃加工形態で営まれ、主力二〇〇社を超える企業が展開し四国一の集積を成してきた。昭和三九年の県東予地区鉄工業業態調査報告書によると、三七年三四億円の出荷額のうち約二三億円すなわち六七%ぱ化学、機械など住友系親会社が占め、住友依存度の大きさを示している。これを事業所数二一〇、従業員数約五、八〇〇人の新居浜鉄工業、新居浜機工、西条鉄工団地の主要三組合で見ると、五五年に機械三八%・化学一八%と住友系仕向けが依然半ばを占めるが、五六年の二一五億円を頂点に漸減し、小松製作所、新三菱等仕向先の多様化が進んだ。特に西条地区を中心に住友依存度は低下し、六〇年ころには全地区で五〇%弱になったと推定されている。
 なお、周桑郡丹原町には、四七年から一二業者で銑鉄鋳物工業団地が創設された。

 〈製紙・パルプ・紙加工〉

 伊予三島・川之江は新興製紙地帯として戦後驚異的に発展した。水不足に悩んできたこの地方での奇蹟的な用水型企業の繁栄は、昭和二〇年代から手がけた柳瀬ダムに始まる銅山川分水の成果であって、戦前の二一工場から四二年には七〇余の工場群となった。昭和二二年、洋紙抄造を開始した大王製紙を筆頭に丸住製紙、四国製紙と続き、三八年ころには一〇年前と比べ製紙、パルプは四倍余に増え、四二年ころには製紙四二万トン、パルプ三三万トンに達した。三九年ころすでに県内工業出荷額のうち大半を占める化学工業製品に次いで第二位の三一一億円に上り、県下地場産業のトップに立った。
 その内訳は、新聞用紙六二億円で全国三位、段ボール厚紙三四億円で七位、ロール紙及び包装紙二九億円で二位、機械すきチリ紙二八億円で三位、その他全国一~三位が多く、総合で全国八位と有数の紙業地帯に成長した。なお、二次加工品製造も六〇工場を数え、表紙、封筒、水引、金封、紐、テープなど年産六〇億円に上り、大都市並みの紙加工産業が顔をそろえた。戦前の手すき和紙も伝統産業として東南予に名残をとどめているが、大勢は機械製紙時代に入った。

 〈タオル製造業・縫製業〉

 今治市を中心としたタオル産業は本県地場産業の雄である。特に先染晒を特色とし、附加価値の高いタオルケット、湯上タオル、浴巾を主とし、四〇年代二六〇余の企業(県下三一九)のほか五〇余の捺染、三〇余の糸染染色及び撚糸、前処理加工、紋紙、織機など多数の分業関連企業を配し織機及び晒工程の近代化で高級タオルを生産し、三八年ころには全国タオル市場の五一%を独占し、輸出タオルの八割を制する日本一のタオル産地となった。三五年の六四億円から三九年の一二五億円と倍増し、県内繊維工業製品二六九億円の約五割を占め、四三年には三割増の一四二億円まで伸び、地場産業の横綱の地位を占めた。
 ここまでの成長発展には企業の過当競争を抑える設備整理及び更新、生産制限、融資、税制優遇など商工行政諸施策の集中投入を忘れることはできない。縫製業では、一ドルブラウスで名高い輸出用婦人物を主に、四四年に今治を中心とした二三〇企業がミシン八、〇〇〇台と家庭内作業員三万人を配して、年産一二五億円(うち輸出四八億円)も稼ぐ大きな産業にのし上った。

 〈造船業・農機具産業〉

 県内造船所のうち鋼船(大一、中三六、小一九、計五六)分の主力は波止浜湾岸の今治市・大西町と越智郡島しょ部に集中しており、三〇年ころから、やや時流に遅れて木造から鋼船への切り替えが行われた。一時、来島型標準船と呼ばれる四九九総トンの中型船を流れ作業ブロック工法により低船価・月賦販売方式で受注を伸ばし、新船発注の潮流に乗って戦後造船の黄金時代を築いた。三九年の出荷額約九七億円は四四年三四〇億円へと五か年で三倍に大躍進した。この時期今治地区では、一時タオルをしのいで最大の産業となり出荷額の半分を占めた。石油ショック直後の五〇年には、県下工業出荷額約一兆七、〇〇〇億円の一〇%を占め、つかの間とはいえ県下のトップ産業に躍り出たこともあった。しかし繁栄の期間は短く、五五年には不況業種として三六%の廃業など中型造船の再編成に移行した。造船業急成長の原因は、①世界的な海運の伸張期に、熔接技術やブロック工法の進歩で同型船大量生産の条件が熟し、近代的産業へ脱皮を図ったこと、②三万総トン以上の設備を持つ来島ドック大西工場を除き大型船へ背伸びせず、中小型貨物船建造が八割を占めたことが設備投資の負担を軽くし、企業生命を長らえさせたことなどがあげられる。
 農機具産業は、松山地区を中心として県下の機械工業のうち戦前から有数の産業で、特に動力耕耘機は三九年ころから全国五位に位置していた。全国的農機具ブームに乗った昭和五二年には、本県出荷額は九六四億円で、全国の一四%を占め空前の盛況と思われたが、六〇年にはさらに記録更新している。戦後の豊作続きと農業機械化の波に乗り、井関農機をトップに関谷農機・四国製作所など耕耘機、籾摺機、田植機、コンバインなど機種も多種にわたっている。松山地区の機械工業には、この外ボイラー、化繊機器などがある。

 〈削り節、砥部焼など地域・伝統産業〉

 昭和五〇年ころ全国上位を誇った伊予市の削り節の三企業(ヤマキ、マルトモ、ヤマニ)などが製造する「愛媛の削り節」は、原料をサバ、イワシ、カツオなどにたより、戦前からの地盤に戦後の近代的装いが加わり、消費時代のし好に合致した。窒素ガス利用のパック詰めは約一年間の保存力があり、四七年からの新製品「かつおパック」を中心にパック製品が大当たりで全国一の生産県となり、三社を柱に五二企業で年産二九五億円にのぼる有力産業に発展した。
 砥部焼は、花器類を中心に数少ない磁器産地として名の通った伝統産業で、年産一二億円程度、昭和三〇~四〇年代消費・民芸ブームに乗った時期もあったが、飲食器や碍子・タイルなど産業用磁器への販売拡大・民芸向きデザイン開発及び観光土産品販路拡大に活性化の道を求めている。
 伊予絣も歴史の古い伝統産業だが、戦前大正一二年二七〇万反、戦後昭和二七年の二〇〇万反を頂点に、県では二八年伊予絣検査所を設け品質保全に努めてきた。しかし四〇年以降化繊に追われて作業衣としての時代を終え、四六年には三八万反に凋落した。現在、民芸ファッションや観光土産に活路を求めている。竹細工も同様で、中南予の伝統産業として昭和二〇年代輸出向げの竹簾、熊手、籠類などで活況を呈した時期もあったが、三〇年代プラスチック製品に座を奪われた。

 〈中小企業対策〉

 中小企業に対する国・県の施策は、中小企業等協同組合による組織化、過剰施設の凍結廃業及び生産制限による過当競争の抑制、補助又は融資制度、高度化及び構造改善事業、商店経営者の留学研修、団体などの指導育成、税制優遇措置など複雑多岐な制度が四国通産局・県商工課を通じ実施運用された。組織化は三七年の協同組合五八三に対し、四五年七〇八と大幅に進められた。施策のポイントである融資実績を見ると、設備投資を行う設備近代化及び中小協同組合貸付金は、昭和二九~三六年の八年間で累計約三億円に対し、四〇年には単年度で三億円となり、四五年には近代化資金のみで三億五、〇〇〇万円、加えて店舗集団化三億九、〇〇〇万円、工場集団化二億四、〇〇〇万円と、単年度設備投資額の飛躍的増加が近代化の速度の激しさを物語っている。また県からの商工中金、地元銀行への預託金を原資とする各金融機関の「倍額以上協調融資」が中小企業向けに盛んに行われた。昭和三六年ころから中小企業振興資金三、〇〇〇万円、緊急対策資金一億円、輸出振興資金三、〇〇〇万円などの預託融資が毎年行われ、三八年には雪害対策五、〇〇〇万円、長雨対策一億円臨時融資のほか年末手当資金一億円も始まった。三九年から夏季一億円、年末一億五、〇〇〇万円の資金手当が恒例化し、四五年には夏季三億円、年末四億円と増額、これを原資とする年間手当融資だけで三八億円にのぼる中小企業向けの貸し付けが行われた。
 このほか新鉱床探査、店舗改装、従業員厚生施設整備などきめ細かく融資の網の目が張られた。なお、昭和二四年に設立された県信用保証協会は、県の原資により昭和三八~四二年の間に毎年三四~七一億円にのぼる各金融機関の融資に対し、年七、〇〇〇件前後の保証承諾を与え、中小企業金融に信用力を賦与し融資の円滑化に資した。
 ところで、商工会議所(一一所)商工会(二二所)の各連合会、県中小企業団体連合会は商工三団体と呼ばれ、業界の改善向上を目的に中小企業行政の面でも不可欠の受け皿で、大型店出店調整などは最近の商工会議所などの実績である。

 試験研究機関の充実

 県の試験研究機関は四〇年ころ県下に二五機関、年度予算約二億円、職員約三〇〇人が地道な試験作業や明日に備える研究開発の仕事と取り組み、産業振興の一翼を担って精進を続けてきた。

 〈今治染織試験場〉

 昭和一〇年以来の創設地今治市上河原町から四三年同市上徳へ移転、各試験場の中でも出色の研究開発の成果をあげ、タオル業界に広く応用され強力な指導力を発揮してきた。主なものは、昭和三二年全国の四丁抒タオル自動織機を開発、広く実用化されて四〇年には業界で一、五〇〇台が稼動した。三三年には新製品タオルケットを開発、完成、四〇年には四〇〇万枚、四〇億円の売上げを見るにいたった。また、高級仕上げに不可欠のパイル撚成装置の特許をとり、補助剤と合わせて二〇工場に普及し高級化に貢献した。キャノンタオル、ミンクタオル、後染晒タオルと風合い、感触など仕上がり加工技術の向上に資するところがあった。
三八年には無接触乾燥装置、タオル絨たん機など革新的な装置を備えた。そのほか革新織機の研究、プリント加工の高級化、難焼性パイル織物、デザインの研究など常に新機軸への挑戦を怠らない伝統の息づく機関である。

 〈製紙試験場〉

 県工業試験場分場を母体に宇摩郡川之江町(現川之江市)に昭和一六年発足した。製紙、紙加工原料、原料処理、紙料調整、抄紙、加工技術、排水処理などが研究テーマである。四四年、全国初の製紙開放試験室を設け、業者による試験機器の利用を開放した。昭和二六年の手すき和紙連絡槽の開発、三〇年代の湿式によるナイロン及びレーヨン繊維の抄紙技術、四五年活性炭利用の排水処理研究などが注目された。

 〈総合化学技術指導所〉

 明治三六年創立の工業試験場を前身に、昭和三六年松山市宮西町に発足した。四八年再び工業試験場と改称、さらに五六年工業技術センター(松山市久米窪田町)に衣替えして発展の途をたどった。化学工業部は試験機器を活用し、木竹装備品工業、化学製品工業、金属機械工業及び鉱業の分析、検査、指導に当たった。
食品部はジュース、罐詰など年間二、〇〇〇億円近い県下食品工業界に対し、試験機利用と現場指導により貯蔵と品質変化、加工の適正及び改善、用途の拡充、純度向上などに当った。夏柑の苦味除去、みかん果皮の食料化、栗や片ロイワシの利用加工など独自の研究や家具雑貨のデザインなどの研究テーマもある。

 〈窯業試験場〉

 大正一五年開所の工業試験場窯業部をもとに砥部焼の中心地伊予郡砥部町に昭和二七年工業試験場砥部分場が置かれ、三八年独立して本場に昇格した。陶磁器、粘土瓦を研究対象とし、特にそれぞれ砥部焼の焼成技術では先駆的な役割を発揮し、昭和一〇年に倒炎式窯、二八年重油窯、三九年電気窯、四三年ガス窯を設置して試験研究に当たり業界をリードした。また、淡黄色磁器や半磁器、酸化磁器など新製品の研究開発にも努めてきた。

 〈建設研究所〉

 建設研究所は、公共事業はじめ建設事業の増加に伴い、土木技術の高度化、機械化の要請が高まり、三八年七月松山市石井に全国に先駆けて設立された。同所では、鋼材、アスファルト、コンクリート各材料及び土質の試験研究が実施され、それぞれの強度、耐圧力、硬度、支持力などを科学的に測定している。開所当初五か月で一、三〇〇件以上の依頼があった。

 〈蚕業試験場〉

 明治四五年開所の原蚕種製造所を母体に、戦前主力産業の中核として大正一二年、喜多郡大洲町(現大洲市)中村に新設され、昭和四六年大洲市徳の森に移転した。沈滞している蚕業界活性化のため、蚕の人工飼育、養蚕の機械体系化、桑の密植栽培、人工飼料など革新的な試験研究と取り組んでいる。

 〈林業試験場〉

 昭和二七年開所の林業指導所を母体に、三五年温泉郡川内町に移り、三九年林業試験場と改称した。その後、実験室、南予分場ほか七試験地などに拡充され、短期育成林を目標に林業近代化のセンターとなった。質量の向上を図る育種、種子・苗木の導入選抜、土壌、肥料の試験、作業の機械化や椎茸など特用林産物の開発にも努めている。

 〈水産試験場〉

 古く明治三三年に開所後転々と移動して、昭和三七年宇和島市坂下津に立地した。調査船予州丸(六八トン)を動かして定線海洋観測を行い、毎週魚海況予報を発している。養殖時代に対応して、ハマチ養殖、人工飼料、真珠養殖の試験研究を行い、東予分場(東予市河原津)はノリ養殖を中心とする。三八年越智郡伯方町に瀬戸内海栽培漁業センター(一三府県と各漁連共立共管)が設立され、人工飼育の稚魚の放流という世界最初の試みも行われた。

 〈果樹試験場〉

 大正一一年設置の県農事試験場果樹試験地を母体に、戦後果樹振興の新風に乗って県果樹研究青年同志会らが推進力となり、松山市東野の久松家農園と農兵隊跡地を活用して、昭和二三年に独立発足した。九・四ヘクタールの土地を得て、初代の薬師寺場長以来、鋭意研究圃場の拡張、ガラス室・網室・試験室など施設整備、研究員の増員及び果樹講習生制度による見習生教育などを実施した。柑橘および落葉果樹に関する土壌、肥料、浸透流亡の各試験、病虫害、品種改良、品質向上、省力など果樹の栽培、経営改善へ及ぼした成果は大きい。本場のほか、南予(吉田町)鬼北(広見町)岩城(岩城村)の三分場がある。
 昭和五三年松山市下伊台へ移転し、さらに圃場及び施設を飛躍的に拡大し(用地二五・四ヘクタール)、柑橘においては静岡県と並ぶ試験研究機関となった。