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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

6 新観光時代の幕開け

 道後温泉郷の再開発

 道後温泉は瀬戸内に数少ない温泉として長い歴史と伝統を持ち、小説『坊っちゃん』そのままの明治の情緒を誇りとしていた。明治建築美の粋をこらした三層楼の風格ある本館温泉場のほか戦後、新温泉、白鷺湯、鳩の湯(のち養生湯)と新しい外湯が続々登場し、昭和二八年開催の国体用として椿の湯も新たに構えた。ところが国体一万人の訪問客から内湯のない実体を批判され、外湯に依存していた温泉関係者は時流の激変を知らされた。道後財産区議会は早速、二九年温泉再開発に乗り出し、幸い翌年新源泉で日量二、八〇〇キロリットルを確保、六二軒の旅館内湯の給湯が実現し、道後は画期的な内湯時代に入った。
 従前六〇余の木造旅館街に過ぎなかった街は面目を一新、山寄りにデラックスな鉄筋高層化を競い、三一年六二軒(七〇六室・定員二、〇〇〇人)から四三年の八二軒(八六二室・七、一三六人)と人員は三倍半に、四七年には一〇三軒と十余年で四〇軒増、人員は五倍以上の一万人宿泊ベースへ急成長した。宿泊客は大衆レジャーブームに乗って四二年の八三万人から四六年の一〇五万人と驚異的な伸びを記録した。
 一方、温泉ブームは松山地区周辺に飛火して、試掘ラッシュは三五年に一五、三六年には一七とひしめき、久米地区(東道後・ファミリー温泉)、鷹子地区(鷹子温泉)、潮見・権現の前道後温泉、山西及び星ケ岡温泉など新増湯を企業化して、ほとんど演芸場大広間を備えた船橋ヘルスセンター式の団体観光を主にする空前の温泉ブームを呈した。松山周辺の○○道後と呼ぶ、飛び地温泉郷の一斉開花は空前の事であったが、最も注目されたのはこの動きの先べんをつけた「奥道後」の開発であった。奥道後の開発は、昭和三三年ころから好況に乗る来島ドック社長坪内寿夫によって湯山地区湧ケ渕周辺に中・四国最大の総合温泉郷レジャーセンター建設が企画され、併せて松山などへの引湯が計画された。三四年試掘に成功し、三七年夏松山市内へ五〇キロメートルに及ぶ給湯管を貫通して病院・刑務所をはじめ、松山、道後の旅館・料亭など一〇〇軒、銭湯一〇軒へ給湯が実現した。昭和三九年には三〇〇万平方メートルの敷地にジャングル風呂・劇場などを売物に宿泊付レジャーランドが開幕、四四年奥道後ホテルが完成した。

 石鎚スカイラインの開通

 石鎚山は愛媛県のシンボルとも擬せられる西日本の最高峰(一、九八二メートル)であり、山そのものを石土毘古命の御神体と敬仰する山岳信仰の聖地でもある。この石鎚の連峰景観と深山幽谷の面河渓をつなぐ石鎚スカイライン計画は、その雄大なスケール、車社会への適応を手だてにやや古風になじんだ本県観光を点から線に一気に近代化へ発展させようとするもので、第四期久松県政に始まり、総仕上げは白石県政期に
及んだ大事業であった。四○年に着工した県道西条―久万線は上浮穴郡面河村土小屋から関門に至る一四キロメートルで急傾斜の尾根筋を縦走する人跡未踏の高地帯のため、航空写真の測量調査は現地実態と大きくくい違い、稀有の難工事となった。予算も当初の九億円を大幅に超過し二年の工期延長で、道路分事業費一六・四億円、四五年にようやく幅員六・五メートル、アスファルト舗装の新道路が四国の高地帯に出現した。
 施工者熊谷組はブルドーザー、建設資材など一〇〇万トンもの機器資材をヘリ空輸する異例の作業となり、ダイナマイト二六〇トン、延三一万人を投入して難工事に挑戦、完工を見たが、切り取り土砂が谷を埋め斜面崩壊なども起って多くの問題が発生した。四六年全国自然保護連合が「スカイライン建設は自然を破壊した。文化財保護法及び自然公園法違反である」と県令施工業者を訴えた。四七年松山地方検察庁はこれを不起訴処分にしたが、異例の復元要望がついたのも時代のすう勢であった。この後も地すべりや道路、斜面の崩壊が台風、豪雨時に繰り返された。特に五〇年の台風被害は大きく、県だけではなく国有林管理問題も浮き彫りにした。県では、昭和四〇年代から石鎚山系復元対策費を経常的に毎年四、〇〇〇万円余計上し、建設後の手当てに努めた結果、五〇年代半ばに被害頻発がなくなり、面河渓も渓谷美を取戻し、環境と調和する観光道路が定着した。
 四五年開通直後の石鎚スカイラインは大賑い、二、〇〇〇台余の車が立往生するほどで、九~一一月間には約三万七、〇〇〇台の車が通行した。四五年国民宿舎「いしづち」、四六年簡易宿舎が土小屋にそれぞれ完成した。スカイラインは県管理有料道路となり、昭和四六~五〇年代初めまで年間四~五万台の通行車量であったが、五〇年半ばから七~九万台と増加し、五七年には一〇万台を超えた。特にマイカーの増加が著しく、五〇年前後で年間二五〇万人が土小屋を訪れている。
 かつて修験者の霊山として女人禁制のタブーもあった石鎚山は、車時代の到来とスカイラインの完成で老幼婦女の登山を日常化させ、温泉内湯に続く新観光時代の開幕を印象づけた。石鎚観光は、四三年西条側の大谷―成就間民営ロープウエイ開通と相まってモータリゼーションの上げ潮に乗り、加えて信徒三〇〇万人、神道系石鎚本教の聖地として県外客導入も期待されている。