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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 生産福祉県政の提唱

 工業開発

 昭和三四年三選を果した久松知事は「生産福祉県政」を目標に掲げた。生産基盤を強化拡充して中後進的な産業構造を脱却し、所得及び生活水準の向上を図るとともに向上路線から外れた人々には、福祉施策をもって対処するというのがその骨子である。当時我が国は、経済成長期に入り四大工業地帯の伸びは著しかったが、本県は従来瀬戸内臨海工業地帯という伝統的な回廊地帯の枢要部に位しながら、その外囲に安住する傾向が強く、瀬戸内海の潜在的な開発パワーへの期待が強まるなかで、建設省等の委託により三二年以降五○年目標の工業立地計画の青写真づくりが進められていた。三五年四国地方開発促進法が制定されて四国全体の開発路線が整えられ、三六年ころから生産福祉の構想は国の計画におり込まれつつ具体化していった。そうしたたかで用水、用地、交通施設などの整備による産業基盤の総合開発、生活環境や文教・福祉など生活基盤の整備向上がまず最大の目標となった。併せて農業構造の高度化、農林漁業の構造改善、中小企業の近代化によってバランスある経済発展を図り、県民所得格差の是正を図っていくという目標が定められた。
 まず銅山川分水、国領川総合開発による伊予三島・川之江及び新居浜への用水確保、農工用水を兼ねた道前道後水利開発事業の推進、鹿野川ダムの完成など、主に臨海工業開発につながる用水確保に重点が置かれた。東中予に臨海工業地帯を建設する計画は、三七年新産業都市建設促進法の制定で拍車がかかり、県を挙げて新産都フィーバーに浮かされ、特に東予の五市七町はその指定運動に躍起となり、三八年一月の知事選挙をはさんで猛烈な陳情合戦が政府・自民党へ繰り返された。県民の悲願が実り三八年七月、東予は徳島と並んで全国一三か所の一つにあげられた(正式指定は昭和三九・一・三〇)。こうして東予新産業都市の指定は産業基盤づくりに一つの重大なエポックを画するものとなった。

 福祉の充実

 福祉施策は国において、昭和三〇年代半ばから飛躍的に制度の整備が図られた。三四年無拠出福祉年金制度、三六年拠出制国民年金制度が創設され、三八年には戦後初の戦没者追悼式及び三九年生存者叙勲の再開などが行われた。また、県でも三七年沖縄戦没者「愛媛の塔」の建立など戦没者の顕彰が相次いだが、その背景には県遺族会(初代会長久松定武)一六万人、県軍恩連盟一万八、〇〇〇人、県傷痍軍人連合会・同妻の会各一、五〇〇人、その他郷友会など旧軍関係者の長く根強い苦節の運動があった。三六年、七六市町村三組合の九七万人を被保険者とする国民健康保険が実現し、医療保障を全県民が受けられる皆保険制度となった。三八年には老人福祉法が制定され、三九年県下の老人クラブ数は千余に達し、またホームヘルパー一〇人は寝たきり老人など延四、三九五人を介護するようになった。県では母子対策として母子福祉資金のうち修学・生業の枠などを拡大し、三八年、松山市に母子福祉センターを設けて相談・研修のほか、年延約二万人の内職斡旋に当たった。身体障害者施策も大飛躍し、三八年全国初のモデルセンターといわれる県立盲人福祉センター(失明者更生施設)を新設し、更生相談、按摩、マッサージの職業補導訓練を行う外、点字及びテープライブラリーなどを備え四四年までに一四七人を更生させた。県は開眼検診にも力を入れ昭和三七~四三年の間に九千余人を検診し、開眼可能者一、〇二一人を発見、白内障五七七件、角膜移殖一六件の手術を実施した。また、結核回復者施策として三三年、新居浜後保護指導所を新居浜療養所に接して設けた。民間社会福祉事業の連絡調査、振興や民生行政推進の補完役となる県社会福祉協議会は二七年に設立された。社会福祉法人恩賜財団愛媛済生会は、松山・小田など五病院を経営、瀬戸内海辺地離島を巡回診療する済生丸は三七年以降四万六、〇〇〇人の診療に当たった。保育所は、四五年には三二八か所、措置幼児数二万七、一七九人と普及し、僻地及び季節両保育所も多数設けられた。また、青少年対策として、三八年悪書追放など還境浄化及び家庭週間運動がキャンペーンされ、VYS(五、〇〇〇人)に加え、三六年新発足の「婦人ともしび運動」(会員六、七〇〇人)のボランティアが社会奉仕や児童の健全育成に活躍した。