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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 農林水産行政に新風

 農林漁業に新施策

 農山漁村に深い関心を持ち、農林水産行政重視の公約を掲げて登場した久松知事は、まず、食糧確保と食糧増産政策に取り組むとともに、新しい農林水産行政を模索していた。
 その手始めに農業団体からの人材の登用を図ったが、科学的な調査研究を基礎に、長期的見通しと広い視野に立って農村振興対策を樹てるため、昭和二七年他県に例のない「愛媛県農村経済研究所」を設け、「愛媛県農業振興計画」の樹立に取り組んだ。
 愛媛県農林水産部の総力を挙げた「愛媛農業振興計画書―第一次―」は、昭和二九年三月完成した。その骨子は、適地適作を原則として、県下の多様な地域性と、農家の階層性を考慮して施策を進めること。さらに、単なる土地改良や技術向上などにとどまらず、農村の組織化や、流通対策、金融対策、農村教育対策などを含めた総合的・立体的な計画を樹立することとしている。また、零細経営の多い本県の実情を踏まえて、農業と工業の連携強化などにも及び、総合開発計画などとも関連して、統合性のある施策の実施を期していた。
 それまで、戦前・戦後を通じて、食糧増産政策とそのための画一的な農林行政が進められていた時期に、地域性や階層性を考慮し、他産業との連係にまでふれた「計画」は先見性があり、新鮮でもあった。このような主旨は、国が昭和三一年に打ち出した「新農山漁村建設総合対策」に具現された。
 その後、本県農林水産業の中で、果樹・畜産・しいたけ・沿岸養殖など、商品生産的で特化系数の高い作目部門などが著しい発展を遂げたが、その端緒はこのころにあったといえよう。具体的にみると県青果農業協同組合連合会果汁工場の新設(二七年)、南予集約酪農地帯の指定(三〇年)、大阪に県木炭(物産)倉庫の新設(三一年)、宇和海での真珠養殖の普及(三二年ころ)などである。
 久松知事はまた、青少年問題に深い関心を持っており、ボーイスカウトやガールスカウトの育成とともに、「4Hクラブ」にも力を注いだ。4Hクラブは農業の改良や農家の生活改善を目的とした農村青少年の組織であり、戦後アメリカの活動事例がGHQを通じて紹介・指導されていた。本県では、昭和二六年一一月当時の周桑郡庄内村(現東予市)にあった県農業研修所で、4Hクラブ会員が集まり「愛媛県4Hクラブ連絡協議会」が結成された。それ以後、農業改良普及事業の一環として、活発な活動がみられるようになり、最盛期の二八年ころには二四〇~二五〇クラブがあり、一万二、五〇〇人の会員があった。
 また、ユニークな融資制度として発足した「愛媛県興農資金特別融資制度」は、補助金万能の時代に、二八年愛媛県独自で創設されたもので、その後「農林漁業共同化資金制度」に改められ、それぞれの時期に画期的な成果を挙げてきた。
 一方、農地改革と並んで漁業法が昭和二四年一二月制定され、漁業の民主化・近代化が大きく進められた。戦後復興途上の漁業は、漁船・資材・燃油などの欠乏によって漁獲高は激減していた。県では、まき網漁業・機船底曳網漁業などの再建に取り組み、二五年初めて漁群探知機を県水産試験船伊予丸に装備、翌二六年には深浦漁業無線局を南宇和郡東外海村(現城辺町)に開設するなど、漁業の技術革新と近代化を推進した。
 また、本県漁業に一大変革をもたらし、生産高を大きく伸ばしたのは、浅海養殖漁業の普及であって、ノリ養殖は二九年、真珠養殖は三二年、ハマチ養殖は三六年ころから急速に進展をみたのである。

 新農山漁村建設運動

 昭和二〇年代の後半になると、急傾斜地帯農業振興臨時措置法にみられるような、特殊地帯農業振興の特別法が整備されたほか、農地法(二七年)、耕土培養法(二七年)、農業機械化法(二八年)、農林漁業資金融通法(二六年)、農業委員会法(二六年)など次々と食糧確保の体制が整備されてきた。その成果は、昭和三〇年産米が一、二三九万㌧の大豊作となった。一、〇〇〇万㌧台となったのは昭和一七年以来一三年ぶりのことであった。これを契機として米の需給は緩和し、この年から始まった事前売渡申込制(いわゆる予約制)のもとで順調な集荷ができるようになった。
 一方、次第に回復・成長の軌道に乗っていた日本経済も、高度経済成長への胎動を見せはじめていた。このころから、食糧増産一辺倒の農政に対して厳しい批判が出はじめたほど時代の流れは速やかであった。
 昭和三〇年一二月、河野農林大臣は「従来の食糧増産に偏重した農政を改め、時代に即応して各地方、地方に適した農村の自立経済計画をたてる必要がある。これまでの国家的意図をもった農政から、市町村に基盤をもった農政に切り替える必要がある」と、新しい村づくりの意図を表明した。これを受けて三一年四月「新農山漁村建設総合対策要綱」が閣議決定された。その骨子のうち、特筆されるのは次のような事項であった。
 (一) 従来の行政区画にとらわれず、適地適作の観点から独自の農林漁業地域を対象とする。
 (二) 「農山漁民」特に青年・婦人の自主的活動を基調とする。
 (三) 従来の事業別補助を改めて、土地条件の整備、経営の多角化、技術の改良、生活改善、共同施設の充実など、農山漁村の振興に必要な事業を選択できる総合助成方式とする。
 (四) 補助事業は一地域一、〇〇〇万円程度とし、低利融資の制度を充実する。
 今では当然過ぎるほどの事項であったが、戦前から国策に沿って、地域性も自主性もなかった農政に長くなじんできた関係者にとっては、まさに画期的な政策転換であった。地域の特性を生かした適地適作が取り上げられて、本県の果樹・畜産などいわゆる商業的農業の基盤はこの時期に築かれたといってよい。
 本県では三一年愛媛県新農山漁村振興対策審議会を設けて、農林漁業地域の指定、地域振興計画の樹立および計画の承認などについて審議された。また、学識経験者の中から農山漁村振興顧問団を設置して、振興計画の樹立および実施について指導援助が行われ、三一年から三五年の間に一一九の地域指定と計画の承認が行われた。この間の特別助成事業の内容では、果樹・畜産などの商品生産部門の共同利用施設が圧倒的に多かった。異色であったのは、農事放送施設の多かったことで、直接生産に寄与することが薄いとして批判もあったが、一面ではいわゆる情報化時代の先駆的なものとして評価された。また、地域ごとの自主的な農村振興計画を立てることで、農業改良普及員の活動を効果的にし、青年や婦人の活動にも大きな影響を与えた。

 急傾斜地帯振興対策

 本県は地勢的に山が海岸に迫っているため平坦地が少なく、特に南予地域は平均標高二〇〇㍍、高いものは四〇〇㍍あたりまで集団的に耕作されている。急傾斜地帯農業振興臨時措置法によれば、急傾斜地とは自然傾斜度が一五度を超え、土壌浸蝕度の基準として流亡率二五%以上であり、過重な労働を必要とする耕地を定義している。これらの耕地は石垣で積み上げられ、わずかな段畑を造っており、下から眺めると石垣で固められた島のようで、藩政以来貧しい南予農村のシンボルとして「耕して天に至る」といわれていた。作物は甘藷と麦が主体で、生産力は低く経済的にも貧しい地帯であった。
 また、当然のことながら土壌の浸蝕が激しいので、その対策が望まれていたが、二五年当時の西宇和郡二木生村(現三瓶町)が国のモデル地区に指定された。なお他に八地区が二六年度実施予定の調査地区に指定された。この年の県の調査によると、南予特異農業地域九、九三〇㌶、瀬戸内海島嶼地域一、〇〇〇㌶、四国山脈山麓地域三〇〇㌶と記録されている。
 これらの地域への対策は、国の農地保全対策事業と県単独の助成事業により、農道の整備、索道の整備、土壌浸蝕防止施設などが行われていたが、抜本的な恒久的総合施策の実施が強く望まれていた。このころ全国的には積雪寒冷地帯農業振興法(二六年)に見るように、特定の地域の農業振興を図る法律が議員提案で立法化される風潮であった。本県三区選出の代議士薬師神岩太郎はいち早くこれを洞察し、段々畑地帯農業対策の特殊立法化を最重点課題として取り組み実施に努めた。県も北宇和地方事務所を中心に強力に立法化を推進し、昭和二七年急傾斜地帯農業振興臨時措置法が成立、五月公布された。この法律により本県は全県指定を受け、同年九月五市二○一町村(一市三一町村を除く)を指定する告示を行った。指定地区内農地面積は実に三万七、九七三㌶となった。二七年から始まった同法に基づく土地改良事業と営農改善事業の実績をみると、初年度一億三、三〇八万円、二八年度一億七、三〇五万円、二九年度一億五、七三八万円、三〇年度一億四、六九三万円となっており、その後四六年にこの法律は失効したがその趣旨は継続され、基盤整備、土壌流失防止、営農改善などに大きな成果をあげた。

 海外移住の奨励

 戦後海外からの引揚や復員によって人口が急速に増加したが、農村へはさらに都市からの還流、帰農などもあって、特に著しいものがあった。本県でも過剰人口の多くは農村に潜在しており、農村人口問題が重視され始めていた。海外移住は人口問題解決の一助に過ぎない程度であったが、戦前からの実績もあってその実現が望まれていた。戦中、戦後長期間中断していた海外移住は、昭和二七年ブラジル・アマゾン流域への五、〇〇〇家族の移住計画によって再開された。
 本県では戦前から南予を中心にした海外移住の実績も高く、いち早く海外移住の奨励策がとられた。その結果まず昭和二八年に三戸二〇人がブラジルへ移住、続いてパラグアイ・ボリビア・アルゼンチン・コロンビア・ドミニカなど中南米諸国に門戸が開かれるようになった。県では、海外協会・県拓殖農業協同組合連合会との協調により移住啓発を行い、移住者の財産処分については、愛媛県拓殖基金協会が援護を行うなど積極的な推進を図った。その後、移住者は三一年一四五人、三二年一八五人と順調に増加し、久松知事も昭和三二年には移民の激励と関係方面へのお礼のため現地を訪面した。三五年には移住者は四一七人に達したが、これを頂点として、三七年以降日本経済の高度成長期に入り国内労働力不足の状況と相まって激減していった。昭和六一年までの実績一、八二六人のうち、一、六九二人(約九三%)が三六年までの移民であった。移住先国別では、ブラジル一、二五七人、パラグアイ四九一人、アルゼンチン三〇人、カナダ二五人、オーストラリア九人、その他の国一四人となっており、ブラジルが圧倒的に多い状況であった。